蒲生忠秀の軍師③ 主君との離別

室町時代、播磨・備前・美作の3ヶ国は"四職"の一家で守護大名である赤松家が代々治めていたが、嘉吉元年(1441年)、赤松満祐・教康父子が怨恨から6代将軍・足利義教を京の自邸の宴に招いて暗殺するという前代未聞の「嘉吉の乱」を起こし、赤松家は幕府軍の追討を受けて滅亡寸前にまで凋落した。


その後、赤松家は「応仁の乱」での功により播磨・備前・美作の3ヶ国守護に返り咲いたが、戦国時代に入ると備前守護代の浦上家や赤松家庶流の別所家が独立するなど、播磨・備前・美作では数多の勢力が群雄割拠して争っていた。


別所家は先代の別所就治の代に、備前守護代の浦上家が下剋上により独立し、主家の赤松家が衰退し始めると、東播三郡を支配していた別所就治も赤松から独立し、戦国大名として名乗りを上げた。武勇に秀でた就治は、三好や尼子の侵攻を次々と撃退して勢力を拡大し、就治の子の別所安治は、東播八郡(美嚢郡、明石郡、加古郡、印南郡、加西郡、河東郡、多可郡、新東郡)を支配する別所家の最盛期を築き上げていた。


一方、赤松家は浦上家や別所家の独立によって勢力範囲は西播磨だけに大きく削られ、有力重臣の小寺家の後塵を拝するまでに衰退した。さらには9年前に嫡男・赤松義祐が小寺政職の後見を得てクーデターを起こして実権を奪うと、追放された当主の赤松晴政は娘婿で分家の龍野赤松家の赤松政秀を頼り、赤松家は事実上の分裂状態となる。


しかし、2年前に晴政の病死により赤松義祐は赤松家の家督を継ぎ、龍野赤松家の赤松政秀とも一旦和解するが、すぐに独自に軍事行動を起こした赤松政秀をもはや抑える力はなく、龍野赤松家は赤松宗家から事実上独立したのである。


こうした経緯から、赤松家から独立した別所家や龍野赤松家が、赤松宗家を支える有力重臣である小寺家との共闘を選ぶとは考えにくかった。毛利の圧力に屈して恭順するか、独力あるいは共闘して毛利と戦うかのどちらかと推測され、現状では両家は共闘して小寺家や浦上家と対立を深めつつあった。


その浦上家は元は備前守護代を務める赤松家の重臣であったが、50年ほど前に当主の浦上村宗が主君である赤松家当主の赤松義村を暗殺し、下克上により赤松家から独立して戦国大名として名乗りを上げた。しかし、村宗の死後に後継を巡って村宗の子である浦上政宗と宗景の兄弟が争い、当主の政宗が尼子家に恭順すると、弟の宗景が毛利家の後援を得て独立し、浦上家も分裂状態となる。


しかし、3年前に播磨守護代として赤松家を牛耳ろうとしていた浦上政宗が赤松政秀に暗殺され、兄弟の抗争に終止符が打たれると、浦上宗景は主家の毛利家からも離反して備前の支配を確固たるものとし、浦上家は美作に勢力を伸ばす備中の三村家との間で抗争が勃発していた。


したがって、浦上家は毛利から離反した立場であるため、毛利に再度恭順する可能性はないに等しく、小寺家が蒲生家に臣従し、浦上家が毛利に圧迫される事態になれば、浦上家も蒲生家への恭順を考え始めると思われたのであった。


こうした混迷の状況の播磨で、主家の赤松宗家を凌ぐ有力重臣の小寺家当主・小寺政職は、真っ先に"六雄"の一角である蒲生家への臣従を決断し、側近の小寺官兵衛を臣従の使者として蒲生家へ遣わしたのである。


そして今、蒲生家との交渉を終え、自らの身柄を対価として小寺家の臣従を認められた小寺官兵衛、いや黒田官兵衛忠高は、小寺家の本拠・御着城へと無事帰還したのであった。


しかし、官兵衛の表情は暗く固かった。


(自ら臣従の使者を申し出て蒲生家に赴いたにも関わらず、小寺家にとっては手放しでは喜べない結果になってしまった。一体どうやって加賀守様に報告したものか……)


帰還の道中で今さらながら後悔の念を覚えた官兵衛は、"元"主君となった小寺政職にどのように報告すべきか悩んでいたのである。




◇◇◇





播磨国・御着城。


「……そうか、お主は蒲生家に仕えると決めたのだな」


「加賀守様、誠に申し訳ございませぬ。私にもう少し力があれば、斯様な結果にはならなかったと存じまする。全ては我が不徳と未熟さによるものにございますれば、深くお詫び申し上げまする」


官兵衛は無念といった様子で平伏する。裏切り者と罵られる覚悟はできていたし、ここで政職に不忠を咎められて手打ちにされても文句は言えないとさえ思っていた。しかし、そんな官兵衛の覚悟とは裏腹に、政職から返ってきたのは予想を裏切る言葉であった。


「官兵衛よ、大儀であったな。自分を責めるではない。私は蒲生家に仕えることになったお主を誇りに思うておるのだぞ」


「はっ? で、ですが、私は加賀守様の信頼を裏切るような……」


「官兵衛、私を見損なうではないぞ。幼い頃から何年、お主を見てきたと思うておるのだ? 官兵衛の考えることなど先刻お見通しよ。蒲生家から臣従の人質として求められただけではなく、官兵衛が主君として仕えるに値すると、蒲生山城守殿の器に惚れたのであろう? お主がいなくなるのは正直寂しいが、私が見出したお主の才知が蒲生家で活かされると考えれば、むしろ喜ばしく誇らしいと言えるくらいだ。官兵衛よ、良き主君に出会えて良かったな」


小寺政職は官兵衛のことを一切非難することなく、父親のような慈愛に溢れた柔らかい笑みを浮かべていた。


「加賀守様、誠にかたじけなく存じまする。……うっううっ」


官兵衛は主君に心中の葛藤を見抜かれた挙句に優しい言葉を掛けられ、思わず嗚咽を漏らしてしまう。


「だが、官兵衛よ。隠居したお主の父・兵庫助(小寺職隆)を再度出仕させてはくれぬか。小寺家が蒲生家に見捨てられては困るからの。兵庫助は人質じゃ。わっはっは」


「加賀守様、承知仕りました。……ううっ」


官兵衛にとって小寺政職は幼い頃から近習として仕えてきた主君であり、もう一人の父親とも言える存在であった。武においては凡将なれども、偏に民のためを思い、民から慕われる政職は、心から尊敬に値する主君であった。叱責を覚悟して帰ってきたとは言えども、弱冠22歳の官兵衛にとって主家、そして主君との離別は涙腺を決壊させるに十分であり、官兵衛はしばしの間人目を憚ることなく咽び泣いたのであった。


政職は官兵衛の涙が止むのを待ち、落ち着いた頃合いを見計らって声を掛ける。


「官兵衛、もし己が力不足だと思うのならば、蒲生家で戦功を挙げ、武名を挙げよ。それが私への手向けであり、恩返しだと思うがよい」


「はい。必ずや蒲生家で軍師として名を挙げ、加賀守様に授かった御恩に報いてご覧に入れまする!」


こうして、小寺官兵衛は小寺政職との主従関係を解消し、蒲生家に仕官したのであった。

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