大井川の戦い
大井川。言うまでもなく、遠江国と駿河国を分ける大河である。今は真冬であるが、比較的温暖な駿河と遠江には真冬でも雪も滅多に降ることはなく、大井川の流れる水量も少なく、水深も幾分か浅くなっていた。
そして、国境の大井川を挟んで両岸に陣を構える織田軍5千、武田軍5千の両軍は、11月に対峙を始めてから2ヶ月以上経過してもなお睨み合ったまま、依然として領地に引き上げることなく膠着状態にあった。
11月の竹中軍の信濃・深志城攻めで馬場信春が切腹して降伏開城したという報に接して、すぐにその情報を秘匿していた武田信玄であったが、これまで武田家の重臣である信春の死を公表しなかった。その理由は、「武田四天王」たる馬場信春が死んだとなれば兵が動揺して士気が低下してしまうことは必至で、それが自軍全体に伝われば取り返しのつかない事態になりかねず、織田に攻め入る隙を与えることになると考えられたからに他ならない。
それが万を超える大軍同士の戦ともなれば尚更、信玄の判断はもっともな考えであったと言えるのだが、既に年が明けて1月も下旬に差し掛かると、突如として信玄はその姿勢を一転し、馬場信春の死を公表することを決意したのであった。
既に夜更け、いや後一刻で夜明けになろうという寅の刻。
信玄は家臣らに命じて松明に火をつけさせ、真っ暗だった陣地を明るく灯らせた。そして、主だった重臣や将兵を集めさせると、おもむろに厳かな立ち居振る舞いで将兵の前に立って声を張り上げる。
「皆の者。信濃の深志城を守っていた我が腹心、馬場美濃守が竹中軍の侵攻を受け、失意の内に腹を切った」
信玄の言葉に大きな衝撃を受けた反応があったのは重臣たちだけであった。他の将兵はまだピンと来ないのか、今一つ何を言っているのか良く分からないという反応が大半であった。
信玄は将兵たちの様子に一度口角を上げると、声に威圧感を含ませて続ける。
「『武田四天王』の死は由々しき事態である。だが、馬場美濃守に報いんがためにも、武田はここで立ち止まる訳には行かぬ! 最強の武田騎馬隊は日ノ本一なり! これ以上、我らが領地に敵兵を一歩たりとも踏み入れさせはせぬ! 皆の者、馬場美濃守の弔い合戦だ! 織田の軟弱な兵どもに目にものを見せてやるのだ!」
信玄は眠気と戦う将兵たちに猛々しい怒声を響き渡らせた。
暗闇に松明の灯りだけが煌々と照らす静寂の中で、信玄のその裂帛の気合いを込めた檄は、暗闇と深夜の眠気に襲われる将兵たちの目を冷ますには効果覿面であった。
信玄がわざわざ未明の深夜という時間帯を選んで檄を飛ばしたのは、昼間に馬場信春の訃報を聞くよりも、意識が覚醒していない中で静かな夜中に聞いた方が将兵たちの頭に浸透し易く、檄の効果も上がるだろうと考えたからである。
信玄は手に持っていた武田の象徴たる四つ割菱の旗印を闇夜の空に高々と掲げる。
「「「えいッ!えいッ!応ッッーーー!!!!」」」
初めの内は何が何だか分からない兵もある程度は残っていたものの、大半の兵の盛り上がりに当てられ集団心理が働いたことで、将兵たちは地鳴りと間違うほどの鬨の声を上げるまでになった。
時は依然として未明の深夜である。この鬨の声が大井川西岸にも届いていようが、闇夜の中では織田の陣も沈黙を守っていた。
実はこれまで馬場信春の死を伏せていたのは、信玄が信春の死を暫く引きずっていたのも理由であった。それも仕方がない。信春は武田家を支える柱であっただけでなく、重臣の中でも信玄が"個人的にも"寵愛した重臣であったからだ。
しかし、信春の死をようやく受け止められるようになった頃には、信玄は竹中と織田に対して沸々と湧き上がる怨念を身に纏っていた。
ただ見殺しにして嘆き悲しんだだけでは冥土の信春も浮かばれない。ならば、その死をせめて有効に活用しようと考えたのだ。
だが、ただ重臣の死を伝えるだけでは、徒に兵たちの士気を下げるだけだ。信春が死んでもまだこの儂がいる。「甲斐の虎」とも畏怖される武田信玄という存在を大きく見せることで、将兵に混乱を起こすどころか膠着する戦況で沈滞していた士気を爆発的に上げることを目論んだのだ。
そして、その目論見は見事に成功した。
将兵たちの士気は異常なほど高まった。深夜の意識が覚醒していない兵たちに行ったことで、洗脳的な要素もあったのかもしれない。
高揚した熱気を纏った将兵たちに夜明けまでの短い時間に腹ごしらえをして出陣の支度を整えさせると、信玄は織田との長い膠着状態に終止符を打つべく、東の伊豆の稜線から朝日が顔を出した瞬間、軍配を振り下ろして進軍の檄を飛ばした。
「全軍、突撃ぃぃーーー!!!!!!」
武田軍5千は背に受ける朝日の光を力に変えて大井川を一気呵成に渡河する。それはまさに狂瀾怒濤の悪鬼の軍団とも見紛うほど、狂気的な闘争心を目にした者に強烈に感じさせた。
そして夜明けの時間帯、武田軍が渡河し始めて大井川の中程まで到達しようかという頃、織田軍はようやく朝日を逆光にして大井川を渡る軍勢の存在に気づいたのである。
しかし、既に武田軍は2kmほどに迫ってきており、今から応戦しようと急いで身支度を始めても、まだ半分眠気眼で緊張感も緩み切っていた織田軍の将兵の士気は低空飛行であり、慌てて組んだ隊列はお世辞にも整っているとは言い難い有様であった。
信長も決して油断していた訳ではない。しかし、人間は緊張感を長い時間ずっと持続させるのは無理であり、どこかで弛緩しなければ精神が持たないのだ。
そして、これまで全く動くことのなかった戦況のため、ちょうど今ほんの少しの気の緩みを生んでしまったのだ。これを隙や油断と呼ぶのは些か酷であろう。
一方、武田軍もそれは同じ状況ではあったのだが、信玄はそれを信春の死という悲報を伝えることで逆手に取り、緩みかけていた軍の緊張感を一早く引き締めたのだ。
今のこの攻勢を作り出したのも、その隙をすぐに察知した信玄の機転があったからこそだと言えよう。
信長は怒涛の勢いで迫り来る、「最強」の呼び声高い武田騎馬隊との正面からの応戦は無謀だと早々に諦め、これまでに捕らえていた捕虜や重い犯罪者たちを僅かな囮として大井川西岸に残し、自軍が退却するための時間稼ぎをさせるように命じた。
そして、縄を解かれてもぬけの殻となった陣に放置された囮たちは、一気呵成に力強く地を駆ける武田騎馬隊の威圧感に腰を抜かすと、瞬く間に討ち取られていった。
しかし、対する織田軍もむざむざやられっぱなしではない。兵の練度としては武田軍に及ばないものの、移動の統制だけは非常に取れていた。
囮たちが武田軍の餌食となる間に、織田軍は混乱をどうにか最小限に抑えた退却を敢行し、東遠江の守備の要である高天神城へと這々の体で逃げ込むことに成功した。
高天神城は、"高天神城を制す者は遠江を制す"とまで言われたほどの要所である。織田軍としてもここを奪われることは絶対に阻止しなければならない場所だった。
武田軍は織田軍の陣地を押さえ、大井川の西岸一帯を占領すると、その勢いのまま高天神城に向けて一路西へ進軍を再開した。
夜明けと同時の突撃から僅か1日にも満たない間に、武田軍は高天神城へと到着し、夕方には高天神城の山の麓で包囲するように陣を構築し始めたのであった。
◇◇◇
一方、信長は高天神城から武田軍のその様子を見下ろしながら珍しく焦りを露わにし、ギリギリと歯軋りを部屋に響き渡らせていた。
それも仕方がない。武田の旗印の「風林火山」の「動かざること山の如し」の言葉の通り、これまで全く動く気配も見せなかった武田軍が、今度は「侵掠すること火の如く」突如として動いて吶喊してきたのだ。
「上総介様。竹中家か寺倉家に援軍を求められてはいかがでしょうか?」
「猿! 馬鹿を申すな!」
「むぎゃあぁーーー!」
勇気を振り絞って信長に進言した猿顔の家臣、木下藤吉郎が、信長に蹴とばされて部屋の端までごろごろ転がっていく。
織田軍にとってはお世辞にも非常に芳しくない状況である。だが、信長は人一倍プライドが高い。故に同盟する義弟たちの助けを借りるなどという判断は、長兄たる信長の矜持が許さなかった。
「もはや籠城するしかあるまい」
織田軍は幸いにも兵糧は最前線にすべて運ばず、後方の高天神城に備蓄しておいた兵糧を数日おきに最前線に輸送していたため、まだまだ5千の兵を半年は食わせられるほど潤沢にある。
信長は難攻不落の高天神城で自力での籠城戦を守り抜き、武田の攻勢を退けることを決断したのである。
遠江一の堅城たる高天神城。
しかし、士気の高い武田軍はそれでも容赦なく城を攻撃する。武田家の治める甲斐・信濃・駿河は山間部が多く、土壌が富士山の火山灰土のため米の収穫が他と比べてかなり乏しい地域である。
故に武田信玄としては長期戦に持ち込むのはなんとしても避けたいはずなのだ。
そこで、武田軍の兵糧がさほど潤沢ではないことを見抜いた信長は、武田軍が兵糧切れを起こすまでひたすらに辛抱強く耐え続けた。
亀のように閉じ籠っているだけで、将兵たちの士気の上がらない中、信長は不眠不休で城内を歩き回って将兵を鼓舞し、武田への防戦を指揮し続けた。そして、3月に入ってようやく武田軍に「退却」の二文字を突きつけるに至ったのだった。
◇◇◇
3月に入ると、もう田植えの準備の時期である。武田軍は大事な農民である兵を領地に帰さなければ、ただでさえ少ない米の収穫が今年の秋はさらに少なくなってしまう。
信玄はグッと奥歯を噛み締めるとやむなく撤退を決意し、占領した大井川の西岸に守備兵を配置すると甲斐に退却した。
こうして昨年11月から始まって4ヶ月にも及んだ「大井川の戦い」は、武田軍の勝利という形で幕を閉じることとなったが、未だ戦いの火種は燻り続けており、両軍は再び膠着状態に入るのであった。
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