東美濃制圧

時は遡り、3月中旬。


加賀国南部の最大の城・大聖寺城で雪解けを待っていた浅井長政は、春の到来と共に加賀国北部を一気に制圧すべく、加賀一向一揆の本拠である尾山御坊へと進軍した。


長政の予想どおり、加賀一向一揆は冬の間に募兵を進め、浅井の侵攻に備えており、積雪前の無抵抗の姿勢から一変し、徹底抗戦を仕掛けてきた。


加賀一向一揆の兵は1万。一乗谷の大雪崩で2万もの門徒を失うという大きな痛手を被ったにも関わらず、短期間でよくぞここまで集めたものである。庶民が戦乱と貧困に喘ぐこの時代においては、神仏に縋って洗脳されてしまう人間は本当に多い。そうでもしなければ、絶望のあまり明日を生きようという気力が湧いてこない時代であったのだ。一向宗はまるで鼠かゴキブリでも増やすかのように、農民を門徒として洗脳して新たな狂信者の僧兵に仕立て上げ、一乗谷で失った兵力を補填したのであった。


その加賀一向一揆を率いるのは顕如が送り込んだ下間頼照である。下間家は親鸞上人に仕えた初代の源宗重以来、代々本願寺の坊官を務めてきた家柄であり、本願寺家の筆頭家老として政務を取り仕切る役目を担うだけでなく、一向一揆の総大将として戦に出ることも多く、本願寺の「武」を一身に背負う存在であった。


そんな下間家の人間が加賀国の国主として本願寺から派遣されたのだ。それを知った浅井軍は当然ながら警戒感を強めていた。


加賀一向一揆が1万に対して、浅井軍は1万5千と、数の上では浅井軍が有利であったが、加賀一向一揆は地の利と狂気的な闘争心で満ち溢れている。一切気の抜けない苛烈な戦になることが予想された。


一方の浅井軍の兵の大半は近江と若狭から集めた農民兵であり、4月中旬には田植えのために領地に帰さなければならず、短期での決着を望んでいた。そのため、長政は尾山御坊に詰める加賀一向一揆の兵力を見て、短期間で攻め落とすのは難しいと判断し、周辺の城から攻略して、尾山御坊をじわじわと追い詰める戦略に出た。


しかし、その判断が仇となる。


加賀国北部では一向門徒の詰める城が多く、いくら絶望的な状況に追い込もうと、決して降伏することはなかった。狂信的なまでに頑強な抵抗は、まるで死を渇望しているかにも見え、加賀国南部を制圧した時とは真逆であることは言うまでもなかった。


4月中旬、思いも寄らぬ長期の攻城戦に浅井軍の兵は次第に疲弊し、田植えの時期を迎えたことから、長政は渋々大聖寺城への撤退を決断した。


「当家が攻める北陸道は、雪が多い冬の間は戦はできぬ。やはり寺倉家のように銭雇いの常備兵をもっと増やし、田植えや収穫の時期でも戦ができるようにする必要があるな」


「ですが、そのためにはもっと多くの銭が必要となりまするぞ」


長政の傍に控えていた「浅井三将」の一人、重臣の雨森清貞が長政に釘を刺した。


「分かっておる。その銭を稼ぐためには国人領主を領地替えして街道沿いを浅井の直轄地にし、関所を廃して寺倉家の石高増の方策を得るのが一番の早道だ。その領地替えをするためにも、まずは一日も早く加賀を制圧する必要がある」


せっかく落とした城を泣く泣く放棄せざるを得なくなった長政であったが、次は加賀一向一揆が兵糧を手に入れる前の梅雨明け後に、越前からも兵を集めて大軍を以って加賀国北部に再侵攻し、尾山御坊を直接攻め落とすことを決意したのであった。




◇◇◇




美濃国・恵那郡。


5月中旬、竹中半兵衛率いる竹中軍は、臣従を促す再三の勧告にも従わず、武田家への傾斜を強めていた遠山家が治める東美濃の恵那郡に5000の兵を以って攻め入った。


遠山氏の勢力は、本拠地・岩村城を治める惣領家の岩村遠山家の他にも、明知、苗木、飯羽間、明照、串原、安木の遠山一門を有して「遠山七頭」と呼ばれている。遠山氏の治める恵那郡は地理的に信濃国と尾張国と国境を接しているため、武田家と織田家にも属する両属状態であった。


遠山氏が両属という形で生き残ってこられたのは、他の六頭が惣領家である岩村遠山家の意向に従わずに、独自の判断で時勢に応じて武田家や織田家に属すことを選択し、恵那郡が両家の緩衝地帯となっていたためである。


1555年には岩村遠山家は武田軍に本拠・岩村城を包囲されて降伏し、武田家に臣従する形となった。そして1557年には岩村遠山家の後継者争いが起こり、これに武田家が軍を派遣して介入した。その結果、東美濃における武田家の支配は更に強まることになった。


一方の織田家も、武田家の尾張侵攻や美濃一色家との連携を阻止するための防波堤として遠山氏の存在を重視していた。そのため、織田信長は叔母・お艶の方を岩村遠山家当主・遠山景任に嫁がせて婚姻関係を築き、東美濃への一定の影響力を確保していたのである。


それ以降は長らく武田家の支配が続いていた東美濃だったが、武田が「第四次川中島の戦い」で大敗を喫したことにより、武田の東美濃における支配力が揺らぎ始めた。


元々不安定だった東美濃で遠山七頭の各当主の意見は、武田と織田のどちらに与するかで大きく割れる事態となり、武田に従っていた家の多くが態度を変えたことによって、遠山氏は再び武田と織田に両属する状態に戻ることとなった。


しかし、「第四次川中島の戦い」で大敗した武田信玄もただでは転ばない。仇敵だった上杉家との間で「甲越同盟」を締結したことにより、武田家は北の脅威が無くなった。だが、この時点では一門衆や重臣を多く失った武田家に東美濃に目を向ける余裕はなかったのである。


こうした状況によって遠山氏は暫くは武田、織田の両方からの干渉を受けることはなく、半独立の状態を維持していた。しかし、そんな仮初めの独立も甲越同盟が締結されてから一年も立たない内に、美濃一色家の滅亡によって終わりを迎える。


美濃一色家は近江国で急成長しつつあった寺倉家に攻め込むも、逆に侵攻軍の壊滅と当主・一色龍興の討死という最悪の結果を招き、そして竹中半兵衛率いる西美濃衆に攻め滅ぼされる事態に陥った。


その後、美濃一色家を滅ぼした西美濃衆は竹中半兵衛を国主に据えて、なおも抵抗する中美濃・東美濃の国人衆を屈服させていった。


しかし、国主が交代したばかりで美濃国の支配が安定していない時期に、武田家と国境を接して関係を悪化させるのは是が非でも避けたかった竹中家は、遠山家の治める恵那郡への侵攻は見送る判断を下した。


これには遠山七頭も胸を撫で下ろしたものの、その後に竹中家から臣従を促す使者が何度も訪ねる状況となると、遠山七頭の中で中美濃に近い明知、飯羽間、串原の三家は竹中家に与することになり、結局武田と織田、竹中の三属という状態が続くこととなったのである。


竹中家はこの2年の間に美濃国内の支配を揺るがぬものとすると、昨年には飛騨国をも制圧し、二国の国主となった。


そして今回、竹中家は東美濃を完全に平定するため、恵那郡の制圧に動いた。5000の兵を以って攻め込んだ竹中軍は、竹中家に与していた遠山七頭の三家の兵力を取り込むと、武田、織田に付いていた他の遠山家も竹中家に数で圧倒的に劣ることから、次々と降伏臣従、あるいは滅亡へと追い込まれていったのである。


それでも、遠山氏の惣領家である岩村遠山家当主の遠山景任は、他の六頭が降伏あるいは攻め滅ぼされたと聞いても降伏しようとはしなかった。景任は御家騒動の際に武田家の援軍を借りて当主になったため、武田家には多大な恩があったためである。


しかし、昨年に今川家を滅ぼして念願の海を獲得し、漸く駿河国の領地経営を安定させつつある武田家にとって、岩村遠山家に援軍を送ることは竹中家と正面から敵対するだけでなく、竹中家と同盟する織田家に駿河国侵攻の口実を与えて、自らの首を絞めることにもなりかねない。そう考えた武田信玄は、非情にも岩村遠山家への援軍の派遣を見送る決断をしたのであった。


一方で、遠山景任は織田家からお艶の方を正妻にもらい、織田家にも与していた。


だが、織田信長も「岐阜会談」で東美濃は竹中家の侵攻方向であることを認めていたことから、この期に及んでは岩村遠山家との婚姻関係を切り捨てる判断をしていた。


この結果、岩村遠山家は両属していた武田・織田から見捨てられる事態となってしまう。岩村城は東美濃で屈指の堅城ではあったものの、5倍を超える兵力には太刀打ちできず、半月で落城することとなった。当主の遠山景任は落城前に切腹して果て、妻のお艶の方は竹中半兵衛の配慮により実家の織田家に帰されることになったのである。


こうして、竹中家は恵那郡4万石を制圧し、美濃国を完全に平定したのであった。


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