綾女の過去

 小さい頃の私は、ずっと「残念な子」だった。

 まんまるな体型、のっぺりした顔。

 私立小学校に通っていたけど、綺麗な子や頭のいい子の中では浮いていて、気づかれないフリをされるか、たまに陰で笑われるか。

 家に帰っても居場所なんてなかった。お姉ちゃんの綾香は何でもできて、親からも褒められるのに、私は「お前は……」と、ため息混じりに比べられる。

 あの頃の私は、ほんとうに自分に価値なんてないって思っていた。


 ――そんな私の世界に、突然、光が差した。


 小五の夏。塾に行く途中で、自転車のチェーンが外れた。

 慌てて直そうとしたけど、うまくいかなくて……そのまま立ち往生。焦りすぎて転んで、膝から血を流して、涙が滲んで。

 そんな私の前に、ひょいって現れた男の子がいた。


「……ちょっと貸してみ」


 彼は膝をつき、真剣な顔でチェーンを直してくれた。手際は驚くほどスムーズで、ほんの数分でまた自転車は動くようになった。

 それだけじゃない。血が滲む私の膝を見て、ランドセルから絆創膏を取り出してくれた。


「習い事で怪我が多いから、いつも持ち歩いてんだ」


 そんなふうに照れくさそうに笑いながら。

 その笑顔が、まるで太陽みたいで。


 ――なんで? 私なんかにまで、こんなに優しくしてくれるの?

 胸の奥が熱くなって、泣いてたはずなのに、涙はもう出てこなかった。


 二度目に会ったのは、小学六年の冬。

 ピアノのコンクール。結果は惨敗。必死に練習したのに、名前は一つも呼ばれなかった。


 会場を出た瞬間、お父さんの顔が真っ赤に染まった。


「お前は……本当にどうしようもないやつだな」

「綾香は去年も賞を取ったんだぞ? それなのに、お前は……ッ!」

「努力が足りない? 違うな。そもそもお前には才能がないんだ」


 胸を抉るような言葉の数々。

 必死に堪えようとしたけれど、堰を切ったように涙が溢れて、嗚咽が漏れた。


「泣くな、人前で情けない」

「お前が姉のように出来ないから、俺は恥をかくんだ」


 お父さんの声はだんだんと大きくなり、周囲の目が集まる。

 それでも止まらない。


「勉強も中途半端、ピアノも中途半端、何をやらせても人並み……吉崎家の人間として、それでいいと思っているのか?」

「お前が俺の娘だなんて……恥ずかしい」


 その言葉は、刃物よりも鋭かった。

 私はもう声も出せず、ただ泣きじゃくるばかりだった。


「……ッ!」


 私の泣き声が癪に障ったのか、お父さんの手が振り上げられる。

 ああ、叩かれる。そう思って、目をぎゅっとつむったその時――。


「おっさんさぁ……」


 割って入る声があった。

 目を開けると、そこにいたのは――あの夏、自転車を直してくれた男の子。


「自分の娘をそんな風に蔑んで、それだけじゃなく手まで上げるなんて……カッコ悪すぎないか?」


 彼は真っ直ぐにお父さんを見据えて、堂々と言葉を投げかけた。

 その声は震えていなかった。幼いのに、正義を背負うような強さがあった。


「娘の努力を否定して、自分の体裁ばっかり守ろうとする……それって、一番情けない大人だよな」


 会場の空気が変わった。

 周りの人たちがざわめき出し、同調するようにお父さんを非難する声が上がった。


「そうだ、子供に手を上げるなんて最低だ」

「お嬢さんは頑張っていたじゃないか」


 お父さんは顔を歪め、周囲を睨みつけたあと――バツが悪そうに「もういい……帰るぞ……」と吐き捨て、私の腕を引いた。


 その時。


「お兄ちゃん、いこ?」


 このコンクールで金賞を取った少女が、彼の手をぎゅっと握った。

 ついさっき、華やかな笑顔で拍手を浴びていた――長嶺結花さん。


 ならば、この子の兄も……。


「誠治、よく言ったわね」

 お母さんが嬉しそうに彼の頭を撫でていた。


 誠治。

 そう呼ばれていた。


「……せいじ、君……」


 私は息を呑んだ。二度も私を救ってくれた、その名前を。

 結花さんの苗字と合わせて、心に深く刻んだ。


 ――長嶺誠治。


 その瞬間、もう決まっていた。

 私は、この人を好きになったんだ。


 それから、彼を探すようになった。

 ある日、妹さんと並んで歩いてる姿を見かけた。小さくて、すごく可愛らしい子。……私と全然違う。

 あぁ、今のままじゃダメだ。あの隣には立てない。

 そう思って、私は変わることにした。


 体型を変えて、泣きながら我慢して、ようやく少しずつ細くなった。

 中学生になってからは、顔まで変えた。声も、笑い方も。

 どんなに痛くても、辛くても、全部どうでもいい。

 誠治君に振り向いてもらえるなら、それでいい。


 そんな私を見ていたのが、伊月。

「そこまでして、あいつのために生きるのか?」って、呆れたように言いながら、支えてくれた。

 でも、私の答えはいつも同じ。


「当たり前だよ。私の全部は、誠治君に振り向いてもらうためにあるんだ」


 伊月の気持ちは……わかってる。

 だけど、私の目に映るのはただ一人。

 誠治君だけ。

 他の人なんて、どうだっていい。

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