誘い

 

 兄貴、さよならだ。

 世話になった。

 俺に兄貴はもう必要ない。


あつし!」


 雲ひとつない青空に江角えすみは手を伸ばしていた。


 夢の中で、淳が離れていくのを感じてしまったためだろうか。


 目が覚めた場所は公園のベンチ。


「悪いな、家がないものでね。」


 柊の声が聞こえ、現実に戻された。


 あの火事のことが頭をよぎった。


「おい……火事は……淳はどうなった!」


 焦燥を浮かべ、不安げな声を上げる江角。

 そんな彼に、柊は告げた。


「残念ながら、おそらくはもうこの世にはいないだろう。意識が不明で身動きが取れなかったのなら、尚更な。」

「っ……!あ、あああ……ああああああああぁぁぁ!淳!淳ィ!うおおおおああああああああああ!!!」


 江角の叫びに反応し、近くの人々がこちら側を見た。


「……おい。」

「……ァ……ああ……ああ……」


 我に返った江角はやつれ、クマも酷く、一瞬で老けたようだった。


「一部医者や看護師、そして一階にいた人達は助かったそうですね。」


 スマートフォンの画面を見ながら、柊は言った。


「なんで、生きてんだろうな……弟は死んだのに。なんで……」

「さあ。」


 魂が抜けたようにボーッとしながら、呟く江角。

 やがて柊は立ち上がり、江角告げた。


「さて、そろそろ話を聞きに行きましょうか。あなたの知り合いの村主という警察官に。」


 しかし、江角は立ち上がるどころか彼の顔すら見ずに虚空を見ていた。


「どうしました?」

「もう、意味ねえだろ……」


 江角は聞こえるか聞こえないかの小さな声で呟くように言った。


「元を辿ればあなたの弟の意識がないために、生きていたかもしれないチャンスすら掴ませて貰えなかった。その機会を潰した奴を探せばいい。元はと言えば、そのために動いていたんだろう。だったらせめて、弟をここまで追い込んだキッカケにを作った犯人を追えばいい。少しは弟さんの無念、晴れると思いますが。」


「俺には……もう何もない。やったところで……何になるんだ……」


 今まで背負ってきたものが、使命に燃えていたものが、最悪の形で無になってしまった。

 気持ちと緊張の糸が切れた。

 その表現が合致していると言っても、過言ではない。

 それほどまでに、彼の心はなにも感じなくなってしまっていた。


 その様子を見て、柊は江角と共に捜査することを諦めた。


「そうですか。では、私は勝手に行動させてもらいます。協力関係も、どうやらここまでのようですね。」


 柊が音無く、静かに立ち去った。


 誰もいない。

 誰もいない公園では、風すら吹かない静けさであった。


 江角はやがて、のっそりと立ち上がり、廃人のようにゆらゆらと消えていった。

 騒がしい街の中へと、消えた。



 ♢♢♢



 警察庁--


「やれやれ、急がねば。会食に遅れてしまう……」


 村主は足早に警察庁を出ようとし、車に乗り込もうと、近くに止まっていたリムジンに乗り込んだ。


「急いで出してくれ。」

「このまま出してもいいんですが……私の話を聞いていただくのが先です。」

「誰に向かって……!」


 助手席から身を乗り出して、運転席の真後ろの席に座った。

 飄々ひょうひょうとした表情を見せる若者だった。


「はじめまして。」

「おい!川口、そいつをつまみ出せ!」

「……っ!」


「どうします?俺をつまみ出しますか?川口サン。」


 震える手と、とめどなく溢れる冷や汗。

 奥に見えた川口に、なにかあったとしか思えない様子であった。


「け、警察を呼ぶぞ!」

「あなたも警察じゃないですか。ま、呼ぶとしても呼ぶ前にあなたを殺しますが。」

「なんだ……と……」


 緊迫した空気が流れる。

 村主がはすっかり会食のことなど頭になかった。

 この突然起きたこの出来事を、どう打開するかを考えるも、パニックになりツギハギな思考しかできないでいた。


「な……何者だ!」

「教えてと言われて、素直に教える馬鹿ではないので……さあ、誰でしょう?としか言い様がありませんね。」

「な、なんだと……!?俺を誰だと思ってる……!」

「警視監、村主 啓むらぬし けい。配偶者の村主 真伊むらぬし まいとは別居状態だそうですね。一人息子の名前は村主 諒むらぬし りょう。現在高校生で……ガーディアンズの一員だそうで。」

「な……!か、川口!今すぐ車を降りなさい!」


 慌てた様子で村主が川口に指示するが、川口が震えながら首を横に振った。


「村主さん、そっそれは……」

「無駄ですよ。彼は人質ですから。」


 銃を取り出し、川口の頭に向けて銃口を定める。


「銃刀法違反……だぞ!」

「それがなにか。」

「お前は逮捕する。」

「それで、手錠も拳銃もないあなたがどうするのです。」


 張り詰めた空気の中、何かを思いついた村主の口元が緩んだ。


「お前のようなガキが、それを使おうっていうのか?脅すのはいいが、限度ってものが……」

「ああ、挑発はよくありませんね。選択肢としてはハズレです。」


 パァン


 乾いた音が、車内に響いた。


「かっ……!うぁあああああああああああ!あ、ああああああ!」


「ひいっ!」


「本気、ですので。」


 目を潜め、口を歪めて言った。


 村主は撃たれた所を抑えながら、シャツを脱ぎ、何とか止血を図ろうとする。


「川口サン、車出していいですよ。」


 ゆっくりと車が発車した。


 雨がしとしとと降り始めていた。



 ♢♢♢



「な……何が目的なんだ……」


 止血をした場所から血が滲む。

 落ち着きを取り戻したのか、村主は若者へ尋ねた。

 緊迫した状況の中、緊張で声を振り絞る。


 対して若者はニッと無邪気な笑みを浮かべて、銃をクルクルと回し始めた。


「聞きたいことがあるんです。一つ、あなたの息子さんの職場の住所、あるいは詳しい場所の説明。二つ、あなたをここまで昇進させた、バックにいる人物。そして、さらにその人間のバックにいる人物を知りたいのです。」


「知らない……な。」

「また撃たれますか?」


 カチリとハンマーを起こす音がした。


「話したところで私は死ぬ……そういう相手の下に付いたんだ……だったら何も言わずに死ねば……」

「では、取引はどうです?」


 若者の口元が「緩んだ」という感じではなく、「歪んだ」。


「と、取引……だと?」

「ええ、あなた方はこのままではどちらにしろ死んでしまいますよね?その"裏"の人物によって……」

「ああ……そうだ。」


 わ、わたしも……という細い不安げな声が運転席から聞こえた。


「でしたら、私の元へ来ませんか?」


 笑みを崩さずに、若者は問いかけた。

 若者の問いかけに対して、虚を衝かれた反応をした村主。

 だが、すぐに我に戻り問い返した。


「どういう……ことだ……」


 村主の心臓の動悸が、先程よりも激しくなっていた。


「私も仕事ですので、この状況から退くつもりはありません。私の元に来れば、その人間達に対抗する力を授けましょう。」

「……!」

「もちろんあなたも……川口サン。」


 ミラーに移る川口は、ゴクリと息を飲んでいた。


「誰の言いなりにならなくてもいい力を……手に入れることができます。その力で、あなたの……そして息子さんの邪魔になるものを消せばいい。こうやって、ね。」


 そう言いながら、クルクル回していた銃をグシャリと握り壊した。


「ひ……!」

「こんなことが簡単にできるんですよ。」

「……」

「あなたの息子さんに危険が及ぶのはどちらに付くにしろ同じことです。私が息子さんを殺すことは容易い。おそらくそれは、あちら側も同じこと。例え、ただ私に情報を話してこの場を乗り切ったとしても、秘密を話したことが知られたら、あなたやあなたの家族はこの国で生きていけるでしょうか?まあ、私の要求を拒否した時点であなた方二人の人生はここで終わりますが。」


 不意に村主は目を逸らした。

 そして、若者はミラーに映る川口を見据えた。


「川口サン。あなたもこのままでいるより、あなたの力に平伏ひれふした上司や嫌いな人間を……見てみたくは無いですか?」

「わ、わたしの……力……」


 ブツブツとつぶやく、川口。

 それを見た若者は、また改めて村主を見据えた。


「結局、あなたの息子さんに危険が迫ってしまう未来が見えてしまってるのなら……生き残ることができる可能性が薄い方に賭けませんか?生き残ることができる可能性が高い方は、息子さんに渡せばいい。あなたが息子さんを愛しているのなら……」


 若者が村主の元へ近づいた。

 村主の冷や汗がドッと溢れ、心臓の鼓動がかつてないほどに暴れている。

 若者の瞳には光がなかった。

 瞳の奥の闇に、飲まれてしまう気がした。


「人間としてこの場で死ぬか、人間を捨てて私の元へ来るか……」


 若者の姿が黒い闇に包まれる--

 黒い闇は、やがて若者身体の奥に吸収された。

 そして若者は、黒い鎧の姿へと変貌を遂げた。


「さあ、返答を聞こうか。」



 ♢♢♢



 彼は歩いた。

 ただ歩いた。

 ひたすらに。

 目的もなく、ただ彷徨さまよっていた。


 道行く人の歩く音が聞こえる。

 車が走る音が聞こえる。

 喧騒が……だんだんと遠くなっていく。


 街中にある訳のない底なし沼にはまったような感触が彼を襲う。

 足は動かなくなり、意識と音が遠のいていく。


 やがて彼は身を委ねるように地に倒れ、自分の視界が真っ暗になるのを受け入れるようにゆっくりと目を瞑った。


 雨が激しく降り注いでいた。

 道行く者を拒絶するように。

 ザァザァと、ザァザァと……

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