68bit 私にとって


 足を踏み入れることすら躊躇ためらってしまうほど、その和室は絢爛豪華けんらんごうかだった。


 壁にあしらわれた絵画から欄間の緻密な彫刻まで、何もかもが洗練されている。


 奥の開かれた空間からは庭園をのぞむことができ、夕陽を浴びた草花が静かにくつろいでいる。


 広々とした和室の真ん中で、糸、雛乃、真衣の三人はちょこんと座っていた。


 「こ、これは律さ……いや、りっちゃんの粋な計らいで……」


 糸が肩身狭そうに言った。


 「古匠温泉にこんな場所があったなんて」


 英美里は本来の目的を忘れそうになるところだった。


 「とりあえず座りなよー」


 雛乃が横に置いてある分厚い座布団をバサバサと叩いた。


 しかし、英美里の足は止まったまま動かない。


 「こんな素敵な場所に呼んでもらった手前申し訳ないんだけど、私はすぐに帰るから」


 「英美里ちゃん……」


 か細い声が糸の口から洩れる。


 「私はMANIACを抜ける。 みんなも知っての通り、私はネット上で有名な歌い手なの。 私にとって歌い手の道は希望の光そのもので、絶対に手放すことはできない。 だから……。 それに、みんなのためでもあるの。 みんなが悪意の手に脅かされないようにするため。 攻撃を受けるのは私だけで充分。 失うのはあの記憶だけで充分なんだよ」


 英美里はギュッと歯を食いしばった。


 感情を抑えるつもりだったのに、声が震えちゃっていたな。


 でも、これで最後だし。


 「何も言わずに抜けたのは謝る。 MANIACでの日々は……楽しかったよ。 それじゃあ」


 英美里は来た道に身体を向け、足を動かした。


 英美里の身体が引き戸の陰に隠れたとき。


 「私は逃げないよ」


 はっきりと力強い声で糸が言うのが聞こえた。


 英美里は思わず足を止めてしまう。


 私は逃げないよ……?


 私は……。


 「私は英美里ちゃんのことを全力で守る。 だって、英美里ちゃんは、私にとって大切な人だから」


 英美里は目の前に続く長い廊下を進むことができなかった。


 ぎこちなく身体を動かし引き戸に背中をつける。


 英美里はそのまま廊下に座り込んだ。


 ひんやりとした廊下は、あのときの雨を思い出させた。

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