19bit 高速タイピングトーナメント 決勝戦


 糸は状況を飲み込むことができなかった。


 私が一文を打ち終えたと同時に、もう英美里ちゃんが終わった?


 糸はそろっと英美里の画面を覗いた。


 英美里の画面には、くっきりと『走れメロス』の文が刻まれていた。


 「す、すごいね……」


 糸は勝てると思っていた自分のおこがましさと、英美里への畏敬いけいの念でいっぱいいっぱいだった。


 「ありがとう」


 英美里は透き通った声で言いながら、屈託のない笑顔をみせた。


 英美里ちゃん、こんなに輝いた表情をするんだ。


 糸はフードを被っていない英美里の新たな一面を知った。


 「ね、ねぇ、い、糸っち……と、と、と、とんでもないよ……ま、真衣ちゃん」


 糸の隣から、雛乃の震えた声が聞こえる。


 慌てて糸は雛乃の方を向いた。


 雛乃の顔のパーツはすべてガチガチに固まっていた。


 「ど、どうしたの?! 雛乃ちゃん、勝ったんじゃないの?」


 雛乃は大仰おおぎょうに首を振る。


 「真衣ちゃんのタイピングスピード、尋常じゃない」


 この様子からして、雛乃ちゃんは嘘をついていないだろう。


 となると、タイピングによほどの自信を持っていた雛乃ちゃんをここまで弱らせるって……。


 「じゃあ、次は決勝戦ね。 早く終わらせよう」


 真衣は淡々とした口調で言った。


 しかし、雛乃はもはや仕切れる状況ではない。


 「う、うん。 でも、お題はどうしよう……」


 糸が困ったように呟くと、


 「『走れメロス』の」  「全文で」


 英美里と真衣が続けざまに言った。


 あれ、なんか二人とも、少し楽しんでいる?


 なんとなく、糸はそのように聞こえた。


 「わ、わかった。 雛乃ちゃん、私たちは勉強のためにも二人を後ろから見守ろう」


 糸はほとんど放心状態の雛乃を引っ張って、後ろに立った。


 席に残っているのは列の両端。


 いったいどんな熾烈しれつな戦いになるのか。


 「それじゃあ、よーーい、どん!!」


 糸がスタートのピストルを撃った。

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