14 沼地の戦い

 空が茜色に染まる頃、逆巻さかまとうげの沼地に煙が充満しはじめた。山のように積まれた枝がいぶされ、大量の白いもやが≪ヒュドラー≫の洞窟へ吹き込んでいく。その流れを法術で操作するライラは、残りわずかな魔力の制御に全神経を注いでいた。


 彼女の唇からは三つの声が漏れ、エルフ、人、神々の言葉を唱える。


「―― I have every faith in it as I have faith in relations between people――

 ――尊き奇跡を――

 ――        ――!」


 どちらにせよ、か弱い修道女の身では切った張ったの世界で活躍は望めない。病に侵された体を押し、できることは一つだけ――それは、すぐに功を奏した。


『ギャオオオオオオオオオオオオオオオ』


 煙を閉じ込めた空洞の先から、獰猛どうもうな怪物の声が響き渡る。異形の存在とはいえ、肺があれば呼吸をする。棲み処を燻されては、たまったものではないだろう。


『ゲエエエエエエエエエエエエエエエエ、ゲオ、ゲオ、ゲオ!?』


 白煙を切り裂くように、巨大な蜥蜴とかげが沼地に飛びだしてきた。ぬめり気のある胴体から四本の首が分かれた大蛇だ。水の精とも呼ばれている通り、青いうろこの他にエラも見える。


「あれが、≪ヒュドラー≫ですね!」


 法術から意識を離したライラが、意をけっして≪ヒュドラー≫の前に踏みだした。そして両手を振り、挑発するように大声で呼びかける。


「お間抜け≪ヒュドラー≫、こちらへどうぞ! さもなければ、ええと、燻製くんせいして、食べてしまいます!」


 下手な言い回しだが、馬鹿にされていることは≪ヒュドラー≫にも十分に伝わった。四つ首が憤激ふんげきあらわわにしてうめき、巨体を揺らしながらライラに迫る。


「き、来ました!」


 沼から陸地へ誘きだすまでが、か弱い修道女の役割だ。


 怪物の胴が毒の水場を飛びだし、土煙を上げて森に差しかかった瞬間、左右の茂みからユウリスとトリスが颯爽と現れる。


「闇祓いの作法に従い――」

「ここで会ったが四回目!」


 破邪の輝きをまとったユウリスの刃と、猿のような身軽さで跳躍したトリスの刃が鮮烈に虚空を滑る。突然の攻勢は≪ヒュドラー≫に反応するひまを与えず、二つの首が瞬く間に地面へ落ちた。


 奇襲に驚いた怪物が動きを止め、残る二本の蛇が襲撃者の二人を見据える。


『ギャオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!』


 牙の生え揃った大きな口が、紫の瘴気を吐きだした。


 しかし闇祓い青年と免疫体質の少女には通用しない。


「トリス、合わせろ!」


「ニイチャンこそ、遅れんなよ!」


 蒼炎の輝きを剣に集中し、ユウリスは雄々しく腕を振るった。


「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」


 虚空に薙がれた刀身から霊力が溢れ、刃の形をした波動が飛翔する。放物線を描く破邪の斬撃が、≪ヒュドラー≫の首を二本まとめて斬り飛ばした。


「トリス、いま!」


「任せな!」


 残るは、胴体のみ――同時に、トリスが怪物に肉薄する。鱗の隙間に刃先を通し、力任せにきもえぐりだそうとするが、これは浅い。


「ああ、ウソ、なんかヌメヌメで上手くできない!」


 危険を察した≪ヒュドラー≫が、胴体のみの判断で撤退を試みる。それを認めたユウリスは霊薬の小瓶をベルトから弾き飛ばし、剣の束で叩き割った。


夢狸ゆめだぬきの霊薬を使う!」


 硝子の容器から零れた液体は、空気に触れると同時に紫の気体に変わった。術者の意思に従い、周囲に幻覚を見せる闇祓いの秘薬。その効果で、周囲の景色が歪んだ。


 ≪ヒュドラー≫が逃げ込もうとする沼地の景色が、霞んで消える。逆に現実世界では、森の方角に新たな洞窟が現れた――が、それは霊薬による幻覚だ。


 酩酊感覚めいていかんかくおちいったライラとトリスが、そろって悲鳴を上げる。


「なんか、気持ち悪いです」

「うっひゃー、なにこれ、あべこべじゃん! 目がチカチカする!」


 毒に強い耐性を持つ≪ヒュドラー≫に幻覚が通用するかどうかは、ユウリスにとっても賭けだった。作戦の成否を惑わせるように大蛇が戸惑い、巨体を揺らす。その首は根元が五つに増え、再生をはじめていた。


「どうかお慈悲じひを、女神様!」


 固唾かたずを呑んで見守るライラの祈りが通じたわけではないだろうが、やがて異形の胴体は幻覚の沼地へと進みはじめた。


「ユウリス様、成功です!」


「霊薬の効果はせいぜい数十秒しかない。トリス、追い立てるぞ!」


「合点承知ってね!」


 ユウリスとトリスが再び左右に分かれ、≪ヒュドラー≫を挟撃きょうげきする。しかし今度は大蛇も備えており、奇襲成功とはいかない。それぞれ二本の頭が牙を剥き、長い首を縦横無尽に動かしながら二人に襲いかかる。


「ユウリス様! トリス!」


 ライラも助太刀しようとするが、すでに体力は限界を迎えていた。なんとか魔力を引きだすことはできても、法術に構成するほどの集中力が保てない。


「ここでお役に立てないなんて……もっと私に力があれば!」


 鋼と牙がぶつかり、不協和音が響き渡る。


 ≪ヒュドラー≫は闇祓いの光を警戒し、ユウリスには必要以上に攻撃をしかけてこない。彼の振るう刃を鋭い歯で弾いていなし、二頭の大蛇が連携して牽制けんせいを繰り返す。トリスも同様に阻まれ、致命傷となる一撃は届かずにいた。


 しかし、それは作戦通りだ。


「ニイチャン、あと、どんくらい!?」


「あと少し、もうすぐだ!」


 二人は絶え間なく斬撃を浴びせ、鬼気迫る勢いで怪物の命を狙い続けた。


 ≪ヒュドラー≫は反撃こそすれ、決して深追いはしない。いまは身を隠すことを優先し、ひたすら逃げに徹する。毒の沼地を超え、洞窟に飛び込めば手負いの身体を休めることができる――そのはずだった。向かう先の景色が、霊薬によるまやかしでさえなければ。


『ギャオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!?』


 五つ首の大蛇が、木々の群れに衝突して巨躯を揺らした。


 森に密集した白い大樹が壁となり、≪ヒュドラー≫の進行を阻む。首尾よく事前の打ち合わせ通りの場所に追い込めたことで、ユウリスとトリスの動きにも迷いがない。二人は呼吸を合わせて踏み込み、肉薄。左右から怪物の身体へ刃を突き刺す。


「はあああああああああああああああああああああああああ!」

「とおおおおおおおおおおりゃあああああああああああああ!」


 ≪ヒュドラー≫の胸を深く貫いた二人の剣が、共に体内から肝を抉りだした。本来は、どちらかの成功でも御の字だ。しかし二つ手に入ったのなら、それに越したことはない。


「トリス、離脱するぞ!」


「こいつ、どうするのさ!?」


「霊薬の効果が解ければ、本来のへ引き返すはずだ」


 臓器を奪われた外側の二頭の大蛇は、白目をいて失神した。残る内側の三頭も悲鳴を上げ、木々をなぎ倒すような勢いで暴れまわる。≪ヒュドラー≫は、混乱の渦に呑まれていた。洞窟に向かっていたはずが、なぜか森の中にいる。さらに肝を二つ失い、敵はまだ健在だ。


『ギャ、ギャウ、ギャアアアアア、ギャウウウウウウウウウウウウ‼』


 命の危機に直面した怪物は、これまでにない決断を下した。


 左右の大蛇が真ん中の首に喰らいつき、そのまま根元から千切ちぎる。ユウリスがぎょっとして、トリスに注意を促した。


「気をつけろ、自らを傷つけて首を増やそうとしている!」


「ちがう、ニイチャン! こいつ、一匹だけ逃げるつもりだ!」


 的中したのは、トリスの言葉。


 怪物の心臓部である核を受け継ぎ、真ん中の首が巨躯から分裂した。身体は小さくなるが、動きはすばやく、小回りも利くようになる。そして残された二頭の大蛇は、最後の力を振り絞ってユウリスたちへ襲いかかってきた。いずれは生命活動を終える運命だが、本体を逃がせば何度でも蘇ることができる。


「くそ、追い詰めすぎたか!?」


 頭上から大口を開けて迫る大蛇を、ユウリスが一刀両断する。トリスはすばやく身をかわしてすきを探すが、その視線が逃げ出した≪ヒュドラー≫を捉えた。


「あいつ、ライラを狙ってる!」


「しまった!」


 遅れて気づいたユウリスが、剣に破邪の輝きをみなぎらせる。しかし、飛ぶ斬撃を放つ前に踏み留まった。その軌道にはライラ自身も含まれており、目測を誤れば必殺の一撃に巻き込んでしまう危険性がある。


「ニイチャン、なにやってんのさ!」


 残った大蛇の額に刃を突き立てながら、トリスがつばを飛ばして非難する。ユウリスは構わず、腹の底から大声を響かせた。


「クラアアアアアアアアアアアアアアアアアアアウ‼」


 弱っている少女なら、労せずに喰らうことができる――舌舐めずりした≪ヒュドラー≫が、ぎらついた眼差しをライラに注いだ。地面を滑るように移動し、一気に距離を詰め、怯える少女を一呑みにしようとした、その瞬間。


『ギャ?』


 ≪ヒュドラー≫は、声なき咆哮ほうこうを聞いた。


 ――――――――!


 煙幕を裂いて、銀色の閃光が奔る。

 それは流星にも似た、白い毛並みの獣。

 きらめく鋭い爪が、無慈悲に≪ヒュドラー≫を斬り裂いた。


『ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!?』


 あと一息でライラに届くという寸前で、≪ヒュドラー≫は頭を割られた。心臓部の核も、同時についえる。どう殺されたのか、怪物自身も認識できなかったであろう、刹那の一撃。絶命した大蛇の亡骸には、物々しい爪痕が刻まれている。


 霧が薄れたあとには、まるで最初からそこにいたかのように、白狼が悠然と佇んでいた。


 …………、…………!?


 しかし天下無双の魔獣も、毒に特別な耐性はない。


 ≪ヒュドラー≫の返り血を浴びたクラウが、ぐらりとひざから崩れた。弱々しく倒れた白い死神は、それでもなお美しい。トリスとライラが畏怖いふと感銘に身を震わせる中、ユウリスは慌てて相棒に駆け寄った。


「クラウ、すまない!」


 遠ざけておきながら、けっきょく最後は頼ってしまった。それでもクラウは首をもたげ、鼻先を寄せてくる。呼ばれずに終わるより、少しでも頼ってくれたほうが嬉しい――それが相棒としての矜持きょうじだと言わんばかりに。


「まったく、お前には勝てる気がしない。ありがとう、クラウ」


 横たわる白狼を抱き上げ、ユウリスは二人の少女を振り返った。どちらも、この戦闘中に負った怪我は皆無だ。しかしトリスの腕には深い傷があり、ライラも毒に侵されて猶予ゆうよはない。


「小屋に戻って、すぐに解毒薬の精製をはじめる。時間との勝負だ、急ぐぞ!」

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