13 トリスとライラ

 トリスは、自分が特別なにかに秀でていると感じたことはなかった。


 手先は器用だと思うし、物覚えも悪くない。勉強は苦手だが、暗記や計算に意味を見いだせないのが原因だ。それは悩みというほどのことでもなかったが、思春期の少女にとってはもどしかく感じることもあった。


「あーあ、じいちゃんの言う通り、もっと剣の腕をみがいておけばよかった」


 あるいは祖父に言わせると、欠点は多いという。


 こらえ性がない。

 大雑把おおざっぱ

 フォークの持ちかたが直らない。


 それはトリスにとって取るに足らない小言だったが、いまはなつかしく思うと同時に、もう少し素直に聞き入れるべきだったという後悔にもつながっている。


「じいちゃん……」


 つい先日、祖父は死んでしまった。


 狩りの途中で遭遇した、沼地の蛇が原因だ。毒牙にかかり、あっけなく。それは、まだいい。しかし虫の息だった祖父を助けるために、トリスは言いつけを破って街に行こうとしてしまった。これには後悔がある。


「早く≪ヒュドラー≫の肝を持って帰ってやんないと、ライラが危ない」


 ライラを巻き込んでしまったことに、弁解の余地はない。親切な少女を危険に晒してしまったことだけは、悔やんでも悔やみきれなった。


「それにしても、なんでアタシは平気なのかな?」


 トリスは血だらけの片腕を掲げると、茂みの中で首を傾げた。


 二の腕に開いた大きなあとは、≪ヒュドラー≫の牙に貫かれたものだ。止血の効果がある守白草もりしろぐさを潰してっているが、焼けるような痛みまでは抑えられず、意識が何度も飛びそうになっている。しかし毒はまわらない。祖父とライラを蝕んだ怪物の瘴気しょうきも、なぜか自分にだけは影響を及ぼさなかった。


「ま、別に悪いことじゃないからいいか。それより、どうすっかな……」


 ぼさっとした赤毛を撫でつけ、トリスは翡翠色ひすいいろの瞳を細めた。


 茂みから覗く先には、禍々まがまがしい紫の沼地がある。そこは≪ヒュドラー≫の毒に汚染されており、およそ生物の棲む場所とは思えない有様だ。立ち昇る瘴気を浴びた鳥が、意識を失って落下するのを何度も目にした。


「いくら毒が効かないっていっても、あそこに飛び込むのは無理があるしな」


 なんといっても底なし沼だ。人の身で一度でも踏み入れば、身動きが取れないまま怪物の餌食になってしまう。禍々しい泥水の奥には洞窟が続いており、そこが≪ヒュドラー≫のねぐらだった。いくらトリスが自慢の剣で追い詰めても、怪物は傷を負うたびにへ逃げ込んでしまうのでらちが明かない。


「ま、善戦できたのも最初の一回だけなんだけど……」


 その瞬間、トリスの頭上に影が下りた。何者かに、背後を取れている――察して、彼女は剣を拾い上げながら、振り向きざまに足払いをしかけた。しかし、不審者は軽い身のこなしで回避すると、無造作に腕を伸ばしてくる。


人攫ひとさらいってやつか!?」


「違う、俺は――」


「怪しい奴!」


 纏う緑のローブをひるがえして、トリスは剣を振るった。下弦かげんからいだ一撃が、相手の前髪をかする。はらりと舞い落ちるのは、黒い毛髪。眼前に現れたのは、目つきの悪い青年だった。腰に剣を帯びているが、抜く気配はない。


めんなよ、じいちゃん仕込みの剣を見せてやる!」


「危ないから下がっていろ」


 彼の言葉は、別の誰かに向けられていた。たしかにガサリと、奥の茂みから音がする。トリスは舌打ちして、相手を見据えた。自分と黒髪の青年には、頭二つ分ほどの身長差がある。間合いの勝負では、どう足掻あがいても不利だ。


「仲間がいやがるんだな!」


「だから、違う。剣を引いて、話を聞け!」


「人攫いはみんなそう言うって、じいちゃんが言ってたぞ!」


 すばしっこさなら負けない。


 トリスは姿勢を低くして、青年の側面に回り込んだ。そして彼が対応するのを見越して反復横跳はんぷくよことびの要領で元の位置に戻ると、そのまま踏み込み――横薙ぎに刃をはしらせる。


「くらえ!」

「やるな!」


 刹那、不協和音を奏でる二つの刃。


 寸前で腰の剣を抜いた青年の剣が、トリスの一撃を阻んだ。しかし、まだ少女は止まらない。刀身を滑らせたまま突進の要領で肉薄し、突きだしたひじが狙うのは男性の急所――金的きんてきへの攻撃は、祖父が試しを許さなかった唯一の切り札だ。


「おおおおおおおおおおおおりゃあああああああ……え?」


 一気呵成いっきかせいにしかけた切り札は、しかし不発に終わった。それどころか視界が百八十度回転して、気がつくと地面にしりもちをついている。見ると剣を握る手首を、青年に掴まれていた。どうやら投げ飛ばされたらしいが、不思議と痛くない。


「え、え、え? なに? アタシ、いまなにされたの?」


「ただの護身術だ。いい動きだったが、剣を握る手から力を抜くのは危険だぞ。そっちの肘打ちが決まる前に、首の動脈を斬ることもできた。相手も刃を持っていることを忘れないほうがいい」


「あ、どうも。え、アンタ、誰?」


「ディアン・ケヒトの闇祓やみばらいだ。名前はユウリス。まったく、とんだお転婆娘てんばむすめだな。俺は、君を助けに来た。いいか、手を放しても襲いかかってくるなよ?」


 トリスが頷くと、本当にあっさりと解放された。目を瞬かせる少女をしり目に、ユウリスと名乗った青年が奥の木陰こかげに呼びかける。


「もういいぞ、ライラ」


「え、ライラ?」


「ああ、トリス、無事でなによりです!」


 茂みをき分けて現れたのは、小屋で待っているはずのライラだった。駆け寄ってくる彼女の姿に、トリスはぎょっとした。別れる前は清廉せいれんな修道女だったはずだが、その肌は青紫に変色し、糞尿の臭いまで漂わせている。


「うあわああああああ、ゾンビ!?」


「え、もう、なんてことを言うんです、まだ生きていますよ!」


「だって身体の色、ヤバイじゃん」


「これは毒のせいです。貴女がいなくなってから、だんだんとこうなってしまって……そういえばトリスのおじい様は、こうなりませんでしたね?」


「あと、うんちの臭いがする」


「え……」


 容赦ようしゃのないトリスの発言に、さすがのライラも固まった。ぎこちなく首を動かした修道女が、すがるような眼差しをユウリスに向ける。


「ユウリス様?」


「え、ああ、まあ、ひどい臭いだとは思っていたが、ずっと小屋にこもっていたんだからしかたない。生きていれば当然、排泄はいせつは必要になる。気にするな」


「そんな、ちゃんと袋の中に……って、ユウリス様の、変態!」


「俺に八つ当たりをしないでくれ。小屋に居すぎて、嗅覚が馬鹿になったんだろう」


「教えてほしかったです!」


「傷つくかと思ってな」


「隠されているほうが嫌に決まっているじゃないですか! いま、私は乙女としての尊厳を打ち砕かれました。おお、大いなる女神ダヌよ、けがれし我が身をお救いください」


「ねえ、あっちに川があるから洗ってきたら?」


 最後の台詞せりふはトリスだが、なぜかライラがにらんだのはユウリスだった。その視線から逃げるように首を振り、闇祓いの青年が肩をすくめる。


「冗談はさておき、解毒が済むまで川は使わないほうがいい。≪ヒュドラー≫の毒で水が汚染されてしまう可能性もある」


「あんまりです!」


「あ、うそ、アタシ、普通に水浴びとかしちゃった。この傷口も、川で洗ったんだけど、マズかった?」


 かしましい少女二人の声に頭を押さえながら、ユウリスは大きくため息を吐いた。ふと義妹ドロシーの顔が脳裏を過ぎるが、その幻想を振り払うように思考を切り替える。


「川で魚が死んでいたり、水の色が変わるようなことはあったか?」


「ううん、ぜんぜん平気。朝方に釣った魚も、元気に泳いでいたしね」


「なら君は、そもそも毒に感染していないのかもしれない。身体に不調は?」


「へっちゃらだよ、なんもない。ニイチャンも平気なの?」


「俺たち闇祓いは、毒に身体を侵されない」


 そこでおずおずと、ライラが手を挙げた。


「あの、けっきょく私の水浴びは?」


「ライラは臭いより、その不気味な肌の色を気にしたほうがいいんじゃない?」


 トリスは、ズバズバと遠慮えんりょがない。ひざから崩れ落ちて泣きはじめるライラを意識的に視線から外して、ユウリスは顔の半分を片手で覆った。


「喜劇を演じるなら舞台の上にしてくれ。さっきも言ったが、俺は君たちを助けに来た。まずはトリス、状況を聞かせてほしい。腕の傷は、≪ヒュドラー≫に噛まれたものか?」


「うん、そうなんだけど、けっきょく逃げられちゃってさ。あのデカ蛇、ちょっと不利になると洞窟どうくつの奥に逃げちゃうんだもんな。ほんとズルい!」


「洞窟……あれが≪ヒュドラー≫の棲み処か。どうやっておびきだした?」


「誘きだしてない。中から出てくるのを、ひたすら待つ戦法。この五日間で、三回出てきた」


「気の長い話だ」


「へへん、首を三本も落としてやった!」


 得意げなトリスの様子に、いじけていたライラが顔を上げた。


「でも、≪ヒュドラー≫の首は八本あると聞きます。まだ五本もあるのでは?」


「ちげーよ。全部で四本! まあ、斬るたびに増えてくんだけどさ」


 首をかしげるライラに、ユウリスは頷いた。


「≪ヒュドラー≫は八つ首の怪物として知られているが、元々の首は一本だ。頭を潰したり、首をねたりするたびに一本ずつ増えていく。その限界値が八本だと言われている」


「急に自分の分身が増えて、喧嘩けんかになったりはしないのでしょうか?」


「いい着眼点だ。首が増えた状態でしばらく放っておくと、首同士が争って共食いをはじめるらしい。一度は増えた首も、そうして元の数に戻ると聞いたことがある」


「それはなんというか、悲しいお話ですね」


「ちなみに≪ヒュドラー≫のきもがあるのは首の付け根だ。首の分だけ肝の数も増えるから、倒すのも厄介になる」


「でも、今回は肝が一つ手に入ればよろしいのでしょう?」


「そうだな。君の限界も近い、時間はかけずに終わらせよう」


「簡単に言うけどさ、あいつ、ぜんぜん出てこないぜ」


 唇を尖らせたトリスが、股を開いて地面に座り込んだ。そんな姿勢をライラは「はしたないですよ」と諫めながら、彼女の腕に刻まれた傷を確認する。痛覚を麻痺まひさせる薬草を乱暴に塗り込んでいるようだが、抉られた肉の隙間には骨が見えていた。客観的に見れば、かなりの重傷だ。


「ひどい傷。トリス、痛くはないのですか?」


「痛いに決まってんじゃん。あんま触んないで」


「こんな雑な処置では、腕がくさってしまいます。ユウリス様、まずは手当ての時間をください。治癒の奇跡と持参した医薬品があります!」


 ユウリスは片手を上げて応じると、唇を指で撫でながら対策を思案した。霊薬、二人の少女、沼地、森、これらの状況を上手く支配して活路を切り開かねばならない。


「トリス、≪ヒュドラー≫の首を三度も落とした腕を買いたい。まだ戦えるか?」


「当たり前じゃん。ニイチャンこそ、さっきのでアタシに勝ったなんて思うなよ!」


「ライラ、法術の腕前は?」


「お役に立てなくて申し訳ありませんが、戦闘向きの術は学んでいません。治癒ちゆの奇跡と、風を少し操れるくらいです。それとトリス、こんな腕で戦うなんて無茶です!」


「平気だって、痛いけど剣くらい握れる。しかも、この傷だって最初の一回目にやられたんだぜ?」


「ユウリス様も、なんとか言ってください」


「いまは本人の意思を尊重する。下手に遠ざけて、勝手に行動されるよりはいい」


「そんな……」


「お、わかってんじゃん!」


 そしてトリスの手当てがひと段落したのを見計らい、ユウリスは決断を下した。


「よし、作戦を考えた。二人とも、働いてもらうぞ」

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