08 泥蛙の霊薬

「闇祓いの作法に従い――」


 全身に沸き立つ、蒼白の粒子りゅうし。それは怪物の存在を否定する、破邪の光。女神の祝福は刀身にも伝播でんぱして、怪物を迎え撃つ。


「来い」

『シュウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ!』


 ≪ラハム≫が跳ねて、巨体がユウリスの頭上をおおった。大きく開かれた口には、水の牙が鋭く生えそろっている。しかし闇祓いは恐れない。踏み込み、流麗りゅうれい体捌たいさばきで剣を振るう。


「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

『キシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!』


 地下空間に木霊する、闇祓いと怪物の雄叫おたけび。


 ユウリスの刃が、≪ラハム≫の体を一刀両断いっとうりょうだんする。さらに刀身から放たれた破邪の光が怪物の傷口を焼くように燃え上がり、獰猛な声はすぐさま絶叫に変わった。


『ぎゃ、ぎゃおおおおおおおおおおおおん……!』


「そ、そんな馬鹿な、≪ラハム≫が!?」


「騒ぐな、まだ魔力は途切とぎれていない」


 油断なく剣を構えるユウリスの前で、上下に割れた≪ラハム≫の姿が同時に歪んだ。二つに分かれた流体の体躯が、最初と同じようにグニャリとした不規則な動きを見せる。そして斬り裂かれた身体は瞬く間に独立し、二体の≪ラハム≫へ変身を遂げた。体積が二分された分、やや小ぶりにはなっているが――それでも人間の子供と同じ程度の大きさだ。同時に傷も癒えたらしく、二体揃って威嚇の声を上げる。


『キシャアアアアアアアア!』

『キシャアアアアアアアア!』


 その光景に、ペーターは歓喜した。斬っても死なず、むしろ個体数を増やせるというのならば、勝機は無限に広がるだろう。いくら怪物狩りの専門家とはいえ、しょせんは一人の人間だ。仮に連れの女が加わったとしても、倒されるたびに数を増やす≪ラハム≫に勝てるはずがない。


「おいおいおいおいおい、なんだ、なんだよ、闇祓い! ゲーザーだったか? まさかこの程度じゃないだろうな、ええ?」


 二体の≪ラハム≫が、左右から同時に襲いかかる。その動きを冷静に見極めながら、ユウリスは後退した。最初と同じ不規則な動きで距離を詰めてくるが、二体に個性の違いはない。分裂という特性は厄介だが、思考は共有されているように思える。


「二体になったにしては、動きが硬い。ならば存在は一つ、手足が増えただけだ!」


 それがわかっていれば、対応に難はない。双方の≪ラハム≫は、一つの意思に従って動いていた。必然的に、噛みつく動作も同時に行われる。


「そこだ!」


 ユウリスは機宜きぎを見極め、大振りに剣を薙いだ。距離を取りながら、切っ先で二体の怪物を牽制けんせいする。下手へたに斬れば分裂を促してしまうため、迂闊うかつな攻勢には踏み込めない。じりじりと壁際に追い詰められていく闇祓いの姿に、ペーターは手を叩いて破顔した。


「無駄な足搔あがきだな! 刻まれるたびに、≪ラハム≫は小さくなるんだ。大きい敵より、小さい敵のほうが狙いにくいんじゃないか、んん? 三匹、四匹、五匹、六匹……さあ、いつまで耐えられるか見物だねえ!」


「怪物の魔力も無尽蔵むじんぞうじゃない。順当に斬り続ければ、いつかは再生力を失う。だが、ここで時間をかけるつもりはない」


 部屋の隅まで追い詰められたユウリスは、素早く空いている片手を動かした。腰の辺りを指で弾き、ベルトのホルスターに収まっていた霊薬の小瓶を宙に舞わせる。そして茶色の液体が揺れる容器を、彼は自らの剣で切り裂いた。硝子が割れ、中身がこぼれる。刀身を濡らすのは、神秘のエーテル。


泥蛙どろがえるの霊薬」


 茶色の霊薬を帯びた剣を掲げ、ユウリスは姿勢を低く落とした。床を跳ねた≪ラハム≫の下を潜り抜け、入れ替わる双方の立ち位置。壁際に着地した怪物の背中へ、闇祓いが振り向きざまの一撃を叩き込む。


 その刃は空気の震わせながら、水の体を縦に斬り裂いた。


「まずは一体!」


「馬鹿め、すぐに増えるぞ!」


 しかしペーターは、我が目を疑った。闇祓いの剣を受けた片方の≪ラハム≫は、もがき苦しみながら冷たい床でのたうちまわっている。その傷口は黒く変色し、焦げたように煙を上げていた。再生のきざしはなく、分裂すらも叶わない。苦しみだけが続き、情けない悲鳴が木霊こだまする。


『ぎゃああ、ああああ、ああああああああ』


「そんな、ぼくのしもべになにをした!?」


「再生を封じる霊薬だ」


 分裂を妨げる効果を発揮したのは、幸運でしかないが――胸中で呟きながら、ユウリスは冷静に二体目の≪ラハム≫と距離を計っていた。泥蛙の霊薬は持続時間が短い。せいぜい、あと一撃か二撃で効果は切れてしまう。その前に怪物の心臓部である核を射抜き、確実に息の根を止める必要があった。


「核の位置が定まらない、厄介だな」


 闇祓いの眼差しは、怪物の核を赤い光として捉えることができる。しかし流体の≪ラハム≫は、心臓部の輝きが体内で絶えず動き回っていた。微動だにしなくなった一体目に核はなく、どうやら目の前にいる二体目が本体らしい。


 不意に、ペーターが動いた。


「くそう!」


「ペーター!」


「付き合っていられるか、僕はペーター・ウィットフォード! 伯爵になる男だ!」


 不利を悟ったのか、ペーターが奥にある扉に向かって走りだす。ユウリスは舌打ちして、覚悟を決めた。ここで彼を逃がすわけにはいかない。一気に勝負をかけようと、≪ラハム≫へ肉薄する。


「勝負だ!」

『キシャアアアアアアアアア!』


 闇祓いの剣と怪物の牙がぶつかりあう、その瞬間。


「響け」


 ユウリスは闇祓いの秘儀を唱えた。腕に刻まれた古の紋章が輝く――そして周囲へ波及する音無き反響。空間を把握する力を応用し、核の動きを予測する。


 襲いくる≪ラハム≫の牙を反転してかわして、滑り込むように怪物の側面へ。


「おおおおおおおおおおおおおおおおおお!」


 その瞬間、ユウリスの身体から意識と神経の距離が消える。精神が肉体を支配する感覚。理想の一撃を現実に体現する、奇跡の刹那。


「そこだ!」


 上段から斜めに振り下ろした剣が≪ラハム≫の身体と、流動する核を同時に両断した。切っ先が石の床を叩き、地下に木霊する鈍い打撃音。心臓部を砕かれた怪物の身体は存在をなくし、分身ごとちりになってついえる。


 しかしユウリスは止まらない。


 刃を返し、逃亡を計るペーターを追いかける。


「ペーター!」


「うるさい、うるさい、うるさい、ぼくの名を気安く呼ぶんじゃあない!」


 バレス市の地下を巡る脱出路。そこに逃げ込みさえすれば、まだ再起の望みはあるとペーターは考えていた。背後に迫る闇祓いから逃げようと、重い鉄の扉を開く。


 勢いよく奥の闇へと踏みだした彼はしかし、たった一歩で動きを止めた。


「……え?」


 逃げ道の先で待ち構えていたロベルタ伯爵夫人が、ペーターの腹を短剣で突き刺した。


「お母様……どうして……?」


「地下道への入り口は、なにも当家だけにあるものではありません。お前の考えることなど、お見通しなのです。愚かな息子。そんな貴方に育ててしまった母を、好きなだけ冥府めいふで恨みなさい」


 子供をあやすように身を寄せながら、ロベルタ夫人は手にさらなる力を込めた。刃が傷口を深くえぐり、赤黒い血が床を濡らす。ペーターはうわごとのように「お母様」と繰り返し、やがてこと切れた。


「本当に、馬鹿な子だわ」


 崩れ落ちる息子の体を抱きしめながら、ロベルタ伯爵夫人はひざをついた。頬を濡らした涙は細く、その軌跡はすぐに乾いてしまう。やりきれない思いを抱えながら、ユウリスは首を横に振った。


「伯爵夫人」


「わたくしは、ただ家を守ったのです。ペーターはやり過ぎました。こうなる運命だったのでしょう」


 運命――そう口にした彼女は、うつろな瞳で暗い天井を見上げた。


「ああ、バンシーの嘆きが聞こえる」

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