01 追跡者

「暑い。なんなんだ、この森は?」


 悪態をつきながら、妙齢の女が己の頬を叩いた。カツカツカツ、と硬質な音がする。指先に触れるのは、鋼の感触。彼女の顔は、上半分がはがねの仮面に覆われていた。あおい目に汗が滲んで、ひどく鬱陶うっとうしい。


 空に浮かぶ紅い月の冷たさが、この場所ではまるで嘘のようだ。


 草花の芽吹く兆しも近いとはいえ、未だにしもが降りるような冬の森。しかし夜の闇を漂う空気は、蒸し風呂のような気怠い重さを宿している。


「くそ、見失った」


 たける火のように荒々しい赤毛をきあげて、女――ビーチェは木の幹に拳を叩きつけた。


 常盤色ときわいろ外套がいとうひるがえり、使い込まれた銅の胸当てや腿当てが顕になる。急所に要点を置いた軽装備で、申し訳程度の厚みしかない。腰には小瓶の詰まった小さな鞄と短剣、鉄のくさりが吊るされており、その矛で狙うはずの標的を見失ったのが彼女の苛立つ原因だ。


「だが、お嬢ちゃんの足じゃ遠くへはいけない。馬は潰した。護衛の執事しつじも、アタシの敵じゃない。あとはじっくり、追い込むかねェ」


 唇を舐めながら、ビーチェは身を屈めた。


 腰の鞄から取り出した夜光石やこうせきが、仄かな暖色を灯して闇を照らす。それでも東にそびえる山陰が重なって、視界は暗い。しかしいまは、木々の見分けさえつけば十分だ。


 標的の令嬢は、逃亡中の身にも関わらず香水をつけている。土と草の臭いばかりの森には、不釣り合いな香りだ。安蘭樹あんらんじゅの実から絞られたさわやかな安らぎを求めて、鼻から大きく息を吸い込む。その残滓は容易に感じることができた。


「さあ、隠れ鬼の時間だよ」


 狩猟しゅりょうには慣れている。


 ビーチェは、生来の追跡者だ。相手が逃げる際の痕跡を、決して見落としはしない。動物ならば糞や習性を手がかりにできるが、人間は厄介だ。特に短期的な探索は経験則と、ある程度の勘も必要になる。


「お嬢ちゃんに余分な体力はないから、山の方角へは逃げない。アタシがいる南側へも来ないだろうし、そうなると残る選択肢は西か北……執事が馬鹿じゃなけりゃ、森はさっさと抜けたいだろうねェ」


 この辺境地帯において、逃亡中の令嬢が向かう先は限られている。西の果てにある秘境か、北の妖精郷オグマのいずれかだ。ビーチェは迷わず、南に背を向けて真っ直ぐに進んだ。


 柑橘系の甘酸っぱい香水を辿り、広大な森から目当ての宝石を探し出す。


「近い、近いよ、さあ、もうすぐだ」


 乱雑に踏まれた草を見つけた。大きさの違う足跡が二つ――間違いなく、令嬢と執事のものだ。はやる気持ちを抑えて、低い姿勢のまま追跡を再開する。よだれが止まらず、全身がうずいた。狩りの成功が近づいているという高揚感に加えて、下心もある。


 依頼主の要求は、令嬢の首だ。

 つまり、殺す前にはなにをしてもいい。


「ああ、あの絹のような金髪、けがれを知らない無垢な顔立ち、犯してくれといわんばかりじゃないか。泣き喚く頬を舐めて、全身をぐちゃぐちゃにして、アタシを、刻み込んでやりたいねェ!」


 呼吸が荒れる。仮面の奥で目が血走って、気の滾りが止まらない。纏わりつくような暑さすら心地よく、なんども唇を舌で舐めた。令嬢の白い肌をはずかしめる妄想が、ビーチェの興奮を最高潮に導く。


「ああ、早く、早く、早く!」


 しかし彼女の昂ぶりは、刹那に冷めた。


 痕跡を追い、藪を抜けた先――森の真ん中に、二階建ての屋敷が佇んでいる。古い木造の家屋に見えるが、その建築様式は歪だ。柱や玄関の扉には一昔前の凝った意匠いしょうが施されているが、曇りのない窓硝子まどがらすは辺境の技術とは思えない。


「なんだい、こりゃァ?」


 折り曲げていたひざを伸ばし、ビーチェは頬の裏側を舌先でまさぐった。見るからに尋常な屋敷ではなく、ほのかな魔力の胎動を感じる。魔術師の隠れ家だろうか。


「それにしちゃ、ずいぶんとあっさり見つかるねェ。偏屈な隠者いんじゃなら、人除ひとよけの結界くらいは張っているもんさね。ああ、ヤダヤダ、イヤな予感しかしないよ」


 土に残された足跡は、真っ直ぐに妖しげな館へ伸びていた。塀はなく、扉も簡単に壊せそうな木製だ。灯りは、どの窓からもうかがえない。ビーチェは夜光石を掲げ、ゆっくりと前に踏みだした。肌を舐めるような温い空気が、背後に抜けていく。


「このジメっとした感じも、ここが元凶みたいだねェ」


 不意に、金具の軋む音が響いた。


 ビーチェが腰を落とし、ベルトから吊るした鉄鎖に指をかける。玄関の扉が、ひとりでに開いた。ぼっ、と音を立てて軒先のランプが灯る。次いで、屋内も蝋燭ろうそくの火に照らされた。


 誰の姿もないが、明らかに誘われている。


「アタシを招待するとは、いい度胸だ。晩餐の支度はできているんだろうねェ」


 覚悟を決めて、ビーチェは敷居を跨いだ。背後の扉は、開いたまま閉じる気配はない。ふと彼女は、気まぐれに足を止めた。床には赤い絨毯じゅうたんかれ、廊下は先の広間に続いている。だが、注意を払うべきは正面になく、背後――土の擦れる微かな音と、不自然な茂みのざわめき。


 何者かに、あとをつけられている。


「なんだい、笑えない冗談だよ」


 あざける声は、ささやきよりもかすかに。


「このアタシも、また追われる者ってワケかい」


 背中の追跡者には気づかないふりをして、ビーチェは歩みを再開した。屋敷を照らす明かりに、彼女自身の影も落ちる。


「影が落ちるってことは、屋敷自体が幻覚って線はないかねェ。それにしても、立派なお屋敷だよ。どこの御大臣が住んでるんだか。まぁ、趣味はよさそうだ」


 貴族が好む、見栄の塊のような吹き抜けはない。ただこぢんまりとした玄関の先に、廊下が真っ直ぐ伸びている。その途中で、上へと続く階段に目を留めた。段差にこびりついた土の汚れは、まだ新しい。獲物は二階だな、と見定めながらも、足は前へと進める。


 先にある広間の暖炉だんろに、火がたぎっていた。


 誰かいる。


「勝手に上がらせてもらったよ!」


 豪気に声を上げた瞬間、玄関の扉が勢いよく閉じた。謎の追跡者が、屋敷に踏み込んだのかもしれない。ともあれビーチェは、正面の存在に意識を集中した。


「怪物、か……?」


 暖炉の脇に、人型の悪魔が佇んでいた。


 成人男性よりも一回りほど大きい体躯に、纏うのは薄汚れた布。肌や唇、爪すらも真っ黒だが、瞳は青く、ぼさぼさに伸びた髪だけが白い。その額からは曲がりくねった角が伸び、尖った耳は蝙蝠こうもりのようだ。


 歪に並んだ牙をきだしにて、怪物は笑った。


「俺様を打ち負かすことができたら、お前の召使めしつかいになってやろう」


一丁前いっちょうまえに人間様の言葉を操れるとは、驚きだねェ。だが生憎あいにくと、歯並びの悪い男は嫌いなのさ。冥府めいふに落としやるよ!」


 ビーチェは腰の鉄鎖てっさを抜いて、宙にしならせた。


 先手必勝とばかりに、己のうちに潜む破邪の胎動に呼びかける。それは女神に選ばれし者たちが秘めた、神秘の力。


闇祓やみばらいの作法に従い――」


 猛々しい蒼の波動が、彼女の全身を包んだ。清廉な調伏ちょうぶくの光は鉄鎖にも伝播でんぱし、むちのようにうねりながら怪物へ襲いかかる。しかし悪魔は醜悪に唇をつり上げたまま、無造作に片手を上げた。


 黒い指先が、ぱちん、と音を上げる。


「俺様を、どうするって?」


 悪魔の首に巻きつこうとした鎖が、その寸前で軌道を反転した。鉄の尾が宙で翻り、ビーチェ自身の首に絡みつく。闇祓いの光を消すのが一息遅れていたら、自らの武器で首をへし折られていたかもしれない。


「こいつ、アタシになにをした⁉」


 じゃらっ、と音を立てて鉄鎖が床に落ちる。


 ビーチェは首元をさすりながら一歩後じさるが、瞬く間に悪魔が距離を詰めていた。凶悪な爪が、彼女の眼前で振り上がる。鋭利な切っ先を、とっさに後方へ跳んで回避――しようとするが、意思とは裏腹に身体は前方に吸い寄せられてしまう。


「なんだってんだ⁉」


 ビーチェは腰の鞄に手を伸ばし、霊薬の小瓶を床に叩きつけた。硝子が割れ、密封されていた赤い液体が空気に触れた途端、爆発が起きる。悪魔諸共もろとも、彼女は強い衝撃に吹き飛ばされた。


「闇祓いの作法に従い――!」


 背中を壁に叩きつけられる寸前、ビーチェは新たに破邪の力を発現した。全身を覆う蒼い光が身体能力を高め、衝撃も和らげてくれる。腰の鈍い痛みに呻きながらも、彼女は踏み止まった。悪魔の巨体は窓硝子を突き破り、上半身が仰向けに外へ倒れている。


「今度こそ!」


 調伏の輝きを帯びた鉄鎖が、怪物を打ち据えようと宙を滑る。だが直撃の寸前で、その動きは再びビーチェへ跳ね返った。間一髪、身を低くして自らの武器から逃れた彼女は、のっそりと起き上がる悪魔の愉悦ゆえつを目にして唇を噛んだ。


「俺様を、どうするって?」


「ざけんじゃないよ、怪物風情ふぜいがァ!」


 吼えた刹那、壁しかないはずの背後に殺気――予感だけで、ビーチェは身を翻した。


「どいつもこいつも!?」


 壁の向こう側から、白銀の剣が伸びた。木目の隙間を縫うように貫通した刃が、ビーチェの肩をかすめる。焼けるような痛みに歯を食い縛りながら、彼女は鎖を躍らせた。


 鉄の螺旋らせんが、その刀身に絡みつく。


「アタシが油断したとでも思ったのかい!」

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