01 追跡者
「暑い。なんなんだ、この森は?」
悪態をつきながら、妙齢の女が己の頬を叩いた。カツカツカツ、と硬質な音がする。指先に触れるのは、鋼の感触。彼女の顔は、上半分が
空に浮かぶ紅い月の冷たさが、この場所ではまるで嘘のようだ。
草花の芽吹く兆しも近いとはいえ、未だに
「くそ、見失った」
「だが、お嬢ちゃんの足じゃ遠くへはいけない。馬は潰した。護衛の
唇を舐めながら、ビーチェは身を屈めた。
腰の鞄から取り出した
標的の令嬢は、逃亡中の身にも関わらず香水をつけている。土と草の臭いばかりの森には、不釣り合いな香りだ。
「さあ、隠れ鬼の時間だよ」
ビーチェは、生来の追跡者だ。相手が逃げる際の痕跡を、決して見落としはしない。動物ならば糞や習性を手がかりにできるが、人間は厄介だ。特に短期的な探索は経験則と、ある程度の勘も必要になる。
「お嬢ちゃんに余分な体力はないから、山の方角へは逃げない。アタシがいる南側へも来ないだろうし、そうなると残る選択肢は西か北……執事が馬鹿じゃなけりゃ、森はさっさと抜けたいだろうねェ」
この辺境地帯において、逃亡中の令嬢が向かう先は限られている。西の果てにある秘境か、北の妖精郷オグマのいずれかだ。ビーチェは迷わず、南に背を向けて真っ直ぐに進んだ。
柑橘系の甘酸っぱい香水を辿り、広大な森から目当ての宝石を探し出す。
「近い、近いよ、さあ、もうすぐだ」
乱雑に踏まれた草を見つけた。大きさの違う足跡が二つ――間違いなく、令嬢と執事のものだ。
依頼主の要求は、令嬢の首だ。
つまり、殺す前にはなにをしてもいい。
「ああ、あの絹のような金髪、
呼吸が荒れる。仮面の奥で目が血走って、気の滾りが止まらない。纏わりつくような暑さすら心地よく、なんども唇を舌で舐めた。令嬢の白い肌を
「ああ、早く、早く、早く!」
しかし彼女の昂ぶりは、刹那に冷めた。
痕跡を追い、藪を抜けた先――森の真ん中に、二階建ての屋敷が佇んでいる。古い木造の家屋に見えるが、その建築様式は歪だ。柱や玄関の扉には一昔前の凝った
「なんだい、こりゃァ?」
折り曲げていた
「それにしちゃ、ずいぶんとあっさり見つかるねェ。偏屈な
土に残された足跡は、真っ直ぐに妖しげな館へ伸びていた。塀はなく、扉も簡単に壊せそうな木製だ。灯りは、どの窓からも
「このジメっとした感じも、ここが元凶みたいだねェ」
不意に、金具の軋む音が響いた。
ビーチェが腰を落とし、ベルトから吊るした鉄鎖に指をかける。玄関の扉が、ひとりでに開いた。ぼっ、と音を立てて軒先のランプが灯る。次いで、屋内も
誰の姿もないが、明らかに誘われている。
「アタシを招待するとは、いい度胸だ。晩餐の支度はできているんだろうねェ」
覚悟を決めて、ビーチェは敷居を跨いだ。背後の扉は、開いたまま閉じる気配はない。ふと彼女は、気まぐれに足を止めた。床には赤い
何者かに、あとをつけられている。
「なんだい、笑えない冗談だよ」
「このアタシも、また追われる者ってワケかい」
背中の追跡者には気づかないふりをして、ビーチェは歩みを再開した。屋敷を照らす明かりに、彼女自身の影も落ちる。
「影が落ちるってことは、屋敷自体が幻覚って線はないかねェ。それにしても、立派なお屋敷だよ。どこの御大臣が住んでるんだか。まぁ、趣味はよさそうだ」
貴族が好む、見栄の塊のような吹き抜けはない。ただこぢんまりとした玄関の先に、廊下が真っ直ぐ伸びている。その途中で、上へと続く階段に目を留めた。段差にこびりついた土の汚れは、まだ新しい。獲物は二階だな、と見定めながらも、足は前へと進める。
先にある広間の
誰かいる。
「勝手に上がらせてもらったよ!」
豪気に声を上げた瞬間、玄関の扉が勢いよく閉じた。謎の追跡者が、屋敷に踏み込んだのかもしれない。ともあれビーチェは、正面の存在に意識を集中した。
「怪物、か……?」
暖炉の脇に、人型の悪魔が佇んでいた。
成人男性よりも一回りほど大きい体躯に、纏うのは薄汚れた布。肌や唇、爪すらも真っ黒だが、瞳は青く、ぼさぼさに伸びた髪だけが白い。その額からは曲がりくねった角が伸び、尖った耳は
歪に並んだ牙を
「俺様を打ち負かすことができたら、お前の
「
ビーチェは腰の
先手必勝とばかりに、己のうちに潜む破邪の胎動に呼びかける。それは女神に選ばれし者たちが秘めた、神秘の力。
「
猛々しい蒼の波動が、彼女の全身を包んだ。清廉な
黒い指先が、ぱちん、と音を上げる。
「俺様を、どうするって?」
悪魔の首に巻きつこうとした鎖が、その寸前で軌道を反転した。鉄の尾が宙で翻り、ビーチェ自身の首に絡みつく。闇祓いの光を消すのが一息遅れていたら、自らの武器で首をへし折られていたかもしれない。
「こいつ、アタシになにをした⁉」
じゃらっ、と音を立てて鉄鎖が床に落ちる。
ビーチェは首元をさすりながら一歩後じさるが、瞬く間に悪魔が距離を詰めていた。凶悪な爪が、彼女の眼前で振り上がる。鋭利な切っ先を、とっさに後方へ跳んで回避――しようとするが、意思とは裏腹に身体は前方に吸い寄せられてしまう。
「なんだってんだ⁉」
ビーチェは腰の鞄に手を伸ばし、霊薬の小瓶を床に叩きつけた。硝子が割れ、密封されていた赤い液体が空気に触れた途端、爆発が起きる。悪魔
「闇祓いの作法に従い――!」
背中を壁に叩きつけられる寸前、ビーチェは新たに破邪の力を発現した。全身を覆う蒼い光が身体能力を高め、衝撃も和らげてくれる。腰の鈍い痛みに呻きながらも、彼女は踏み止まった。悪魔の巨体は窓硝子を突き破り、上半身が仰向けに外へ倒れている。
「今度こそ!」
調伏の輝きを帯びた鉄鎖が、怪物を打ち据えようと宙を滑る。だが直撃の寸前で、その動きは再びビーチェへ跳ね返った。間一髪、身を低くして自らの武器から逃れた彼女は、のっそりと起き上がる悪魔の
「俺様を、どうするって?」
「ざけんじゃないよ、怪物
吼えた刹那、壁しかないはずの背後に殺気――予感だけで、ビーチェは身を翻した。
「どいつもこいつも!?」
壁の向こう側から、白銀の剣が伸びた。木目の隙間を縫うように貫通した刃が、ビーチェの肩を
鉄の
「アタシが油断したとでも思ったのかい!」
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