02 理力の覚醒
世のあらゆる災厄を封じた地を、トゥアハ・デ・ダナーンという。女神ダヌは絶望の大陸に取り残された命を
「
短剣を水平に構えた黒髪の少年が、破邪の力に呼びかける。
すると体内に眠る
焦げ茶色の瞳が群青に塗り変わり、彼は眼前に迫る
紫の
「≪ゴーレム≫!」
それは広大な空間を自在に
目前にそびえる≪ゴーレム≫の
巨大な
「そこ!」
大きく息を吐いた少年が、真横に跳ねる。
目標を見失った≪ゴーレム≫の攻撃が、虚しく宙を滑り――そのまま巨人の空手は、轟音を立てながら豪快に石畳を貫く。
間髪入れず、彼は反復横跳びの要領で再び距離を縮めた。
「動きが遅い!」
土塊の異形は腕力こそ脅威だが、動きは
「一撃を見切れば、反撃の
しかし≪ゴーレム≫も、ただの木偶の坊ではない。
貫いた床に指を食い込ませた土塊の巨人は、強引に
「うわっ!?」
石畳の破片に弾かれ、少年の身体が宙を舞った。
霞む視界の向こう側で、さらに≪ゴーレム≫が動いた。
異形の平手が、少年の側面から襲いかかる。
「嘘だろ!」
彼はとっさに身体を丸めて――次の瞬間、強烈な衝撃に晒された。視界が暗転し、骨が軋む。その痛みは言葉に表すことも困難なほどで、飛びそうになる意識を少年は必死につなぎとめた。
「うわあああああああああああああ!」
勢いのまま迷宮の壁に叩きつけられた少年の体が、勢いよく転がった。
土塊の異形は、侵入者の生存を許さない。
「くそ……!」
倒れた少年は顔を上げるまでもなく、大仰な足音で敵の接近を知覚する。
地鳴りは、複数。
一体、二体、三体、四体、五体、六体。目の前に迫る一体を含めれば、計七体だ。
「最悪」
血反吐を吐き捨て、少年は膝を伸ばした。
破邪の力に守られているおかげで、痛みに比例するほどの外傷はない。短剣を持つ腕を引き、腰を落として姿勢を引き
闇を祓う波動を刃へ集中的に流し込むと、蒼炎が輝きを増した。脳裏で
――複数の敵に個人で相対する基本は、いかに一対一へ持ち込み続けるかだ。
状況は七対一。
だが同時に、≪ゴーレム≫も数の有利を生かし切れていないなかった。巨人は距離を詰めるほどに隣の仲間が邪魔で身動きが取れなくなる。
「敵の数が多くても、一対一になれば、あとはそれを何度も続けるだけだ」
――ユウリス、どんなときにも地形の利用と自分の強みを忘れるな。
強み。
荒く吐いた白い呼気の向こうに、怪物を見据える。
「≪ゴーレム≫には、わかりやすい弱点がある」
額に刻まれた『E』の文字が削げば、≪ゴーレム≫は動きを止める。そう考えると、弱点を晒して横一列に並ぶ姿はどこか滑稽だ。
笑える程度の余裕は、まだ残っている。
包囲を完成させた巨人が、不意に動きを止めた。
少年――ユウリスは構えを維持したまま、意地悪く唇を歪ませる。
「そこからどうするつもり? 七体まとめて動いたら、そのうち肩がぶつかりあって進めなくなるんじゃない?」
挑発が効いたわけではないだろうが、正面と両端の≪ゴーレム≫が同時に動いた。
計三体。
認めて、ユウリスも前に踏み出す。
ブーツが床を蹴る音を置き去りにして、中央に突進。
「先に近い奴から叩く!」
しかし異形も棒立ちのまま倒されてはくれない。
左右から挟みこむように迫る巨人の平手を、ユウリスは上に跳躍して回避した。その勢いに任せて宙で身体をひねり、握る短剣に注ぎ込むのは闇祓いの力。
見据える先は、≪ゴーレム≫の額だ。
「そこ――!」
虚空に腕を振るい、刀身から放たれる蒼白の軌跡。
宙を滑る斬撃が、≪ゴーレム≫に刻まれた命の文字を粉砕した。
魔力の加護を失った巨人は、瞬く間に自壊する。身を崩した異形は原型を失い、粘り気のある泥を石畳に広げた。
「まずは一体」
落下の時間すら惜しみながら、ユウリスは左右に気を配った。
両端の≪ゴーレム≫が肉薄し、同時に拳を繰り出してくる。
「それくらいなら!」
再び飛ぶ斬撃を放てるほど、刀身に力を集中する余裕はない。
しかしユウリスは冷静さを失ってはいなかった。
着地と同時に身体を前に倒し、湿った粘土に足を滑らせる。伸びてくる巨人の腕を潜り抜け、片方に接近。土塊の体躯を駆け登り、頭部の文字に刃を突き立て――そのまま、顔面を蹴る。
「二と――」
流星のように、少年は飛翔した。対面の≪ゴーレム≫を目掛けて、短剣を一閃。すれ違いざまに、三つ目の『E』に傷をつける。
「――三ッ!」
二体目と三体目の異形が、ほとんど同時に土に還る。
「まだまだ!」
動きだした残りの四体に向き合い、ユウリスは野性に身を委ねた。
身体から余計な力が抜けていく。
軸足を前にして利き腕を引き、残る片手片足は自然体。
精神が研ぎ澄まされ、肉体と思考の境界が
「理想を現実に体現する」
道場の教えを呟いて、疾駆する。
乱雑に並んだ異形を視界に捉え、うなる豪腕をことごとく潜り抜ける。
矛先が向かうのは、最後尾の≪ゴーレム≫。
異形の真横を抜け、石畳をブーツの底で焦がしながら反転――獲物を逃すまいと振り返る≪ゴーレム≫の額に向け、破邪の波動を撃ち放つ。
「四と五!」
脳裏に描く理想が、現実を越えた。
「六も」
未だ残る六体目も、すでに思考の世界では過去の遺物だ。望む末来を叶えるために、身体が追随する。
眼界に映る全てを支配し、鋭敏化される戦士の感覚。
襲いくる巨人の拳に跳び乗り、岩肌を駆ける。腕が振るわれた瞬間に跳んで離れ、空中で旋回――渾身の一撃が契約の文字を切り裂き、六体目に
残り一体に、そう時間は掛からない。
「七」
言葉が先か、実現が先か、差異はない。
適当な距離を保ち、刃に破邪の力を溜める。
敵の攻撃を誘発し、回避と反撃で飛ぶ斬撃を叩き込めば、もはや次はない。
七体の≪ゴーレム≫が崩壊し、汚泥の海にユウリスはひとり佇んでいた。
耳の奥で繰り返される、師の教え。
――敵を倒してからも気を抜かず、動きも止めるな。
ユウリスは直感に従い、身を翻しながら後方に跳躍した。
刹那、石畳の隙間から伸びた茶色の腕が鞭のように床を叩く。
流動する身体をくねらせ、姿を見せたのは人型の砂礫。
それは≪ミミ≫と呼ばれる怪物だ。
迷わず距離を詰めたユウリスは、カッと群青の瞳を見開いた。闇を看破する破邪の加護が、異形の心臓とも称される核の位置を浮き彫りにする。
突き出された流砂の腕を正面から切り裂いて、少年の勢いはなおも衰えはしない。
闇祓いの切っ先が、鮮やかに核を貫く。
「…………?」
≪ミミ≫が断末魔の悲鳴を上げ、今度こそ脅威は失せた。
もう敵はいない、そう呆然と理解する。
短剣の泥を布で拭ったユウリスは、迷宮の広間を見回した。
いや、視界には映していない。
ただ、感じる。
目の届かない背後、触れ得ない空気、見えざる悪意の胎動、身体を巡る血潮の呼吸すら、手に取るように把握できる。肉体が熱にうなされながら、精神だけが冷たく澄み渡る感覚。
乱れていたはずの呼吸も、いつの間にか整然としている。
「なんだ、これ?」
刹那。指先が震えて、全身に纏っている破邪の光が霧散した。胃から内容物が逆流して、目が
心臓が痛い。
血が沸騰して、皮膚の内側から爆発しそうだ!
「あ、あああ、ああ、あああああ、げほ、げほ。ふう、はぁ、あ、ああ」
呻いて、
力の使い方を誤り、肉体に負荷を与えすぎたようだ。
秋にケット・シーと呼ばれる妖精から力の使い方を教授されて以来、何度か同じ過ちを犯している。
「ミアハの、力」
ベルトに下げた水筒を取り、口のなかを濯ぐ。
乾いた喉を潤して、ユウリスは噛み締めるようにケット・シーの言葉を思い返した。
理力と呼ばれる力がある。
それは東のミアハ地方に伝わる、不思議な力の総称だ。
魔術師が扱う魔力や闇祓いが行使する霊力とは異なる、第三の力だと聞かされた。
曰く、手を触れずに物体を動かせる波動の発現。
曰く、肉体に秘められた真価を解き放つ超人現象。
曰く、五感が肉体の外にまで及ぶような魂の鋭敏化。
曰く、他者と意識の世界で意思疎通を果たせる精神感応。
前者二つが達人の領域で、後者二つは基礎だ。
ユウリスの身に宿る理力の才能は、いたって平凡な数値らしい。
ケット・シーからは、五感の強化と精神感応がせいぜいだと聞かされた。
「それでも使い方を誤れば、反動で動けなくなる……気をつけないと」
ケット・シーから覚醒の兆しを学んだユウリスは、戦いのなかで理力を感じる機会も増えた。苦心はしているが、いずれ制御できる自信はある。ただ、悩みも増えた。
――坊やには間違いなく、ミアハの血が流れているわよ。
とは、ケット・シーの言葉だ。
ユウリスはブリギット地方を治めるレイン公爵家の子でありながら、母親の素性が知れない。そればかりか赤子の頃に教会で起きた怪事の原因とされ、
父のセオドア・レインが生粋のブリギット人なのは疑いようがなく、外国の血筋は母方と見て間違いないだろう。
「いまさらだよな、ほんと」
母親の話題は、昔から意図的に避けてきた。
浮気に憤慨していた
夜色の髪をかき上げたユウリスは、気を落ち着けるように肺を空気で満たした。地下の重たい空気でも、冷たさは散漫な意識を引き締めてくれる。
「さて、どうしようかな。ウルカとクラウに合流もしたいけど、あてが無いなら目的地を目指すしかないか」
泥まみれのブーツに顔をしかめながら、ユウリスは腰の
「なんにせよ、ここで迷子になったら生きて帰れる気がしない」
現在地の広間は街の大聖堂より広いが、探索範囲を考えれば
ブリギット市の深層に横たわるスットゥング地下迷宮は、未だに全容が解明されていない秘境だ。壁には燃料の知れない紫の篝火が等間隔に灯り、整然とした石の通路を照らしている。
回廊は縦横に広く長い。歩いていると、まるで小人の気分だ。
「いま、何時くらいだろう」
日の届かない地下では時間が計れない。だから頭上を仰いだとしても、綺麗に磨かれた岩肌を晒すだけ――なのだが、ユウリスはぎょっとして歩みを止めた。
天井から音がする。
微かに
「なんか、嫌な予感……」
音は≪ゴーレム≫の行進よりも苛烈だ。
空に地震が
やばい、とユウリスが呟いた刹那、迷宮の天井が
同時に、聞き覚えのある声。
「
凛々しい声が響き渡り、亜麻色の髪が宙に踊る。
そばかすは可愛らしいが、
その片腕に輝く不思議な紋章は、闇祓いの秘儀。
たったいま迷宮を破壊した力の
「よし、絶好調だな」
崩落を間一髪で逃れたユウリスは、彼女を半眼で見据えていた。漂う土埃に二人して咳込み、ようやく視線がかち合う。
互いの声は同時に、呆れたような色を孕んで。
「探したぞ、ユウリス」
「探したよ、ウルカ」
なんでそうなるんだ、と少年は両手を広げて抗議した。
ウルカが顔をしかめて腕を組み、困った弟子だ、と肩を竦める。
二人は闇祓いの専門家≪ゲイザー≫の師弟だ。しかし時には信頼と尊敬が揺らぐ瞬間も訪れる。
ユウリスは苛立ちを隠そうともせず、聞き分けのない師匠に噛みついた。
「どう考えてもはぐれたのはそっちだろ! なんで怪しい宝箱を不用意に開けたりするのさ。だから罠に掛かって穴に落ちるんだよ!」
「宝箱を見つけて、開けない馬鹿がどこにいる。結果として敵の策略に落ちたとしても、次は金銀財宝が山のように見つかるかもしれないだろう」
「次も開けるつもりなの? 勘弁して……あれ、そういえばクラウは?」
「お前の隣にいるだろう」
ウルカに促されて視線を横に逸らすと、傍らに大型の狼が佇んでいた。
「クラウ!」
呼びかけられた
鳴かず、音を立てない雪原の覇者。
雪のような白い体毛には、汚れひとつない。クラウと名づけられた、智恵のある魔獣。ユウリスの相棒だ。
「無事でよかった。ウルカといっしょに落ちるなんて災難だったな」
ユウリスは屈みこんで、苦難を労うように白狼の首に手を回した。素直に甘えてくる魔獣と、互いの無事を喜びあう。
「ぜんぶウルカが悪い」
「まだ言うか。師匠の不始末は弟子の責任でもあるぞ」
「あ、不始末だって認めたね」
一同がはぐれたのは、師の
迷宮の探索中、装飾きらびやかな箱を発見した。宝物だぞ、とウルカが目の色を変えて箱の蓋を開けたのが運の尽きだ。刹那、辺り一面の床が消失した。宝箱を開けば奈落に落ちるという、典型的な罠にひっかかったのだ。
彼女当人はともかく、そばにいて巻き込まれたクラウには同情を禁じえない。
離れていたユウリスだけが、難を逃れていた。
そこでふと、違和感に気付く。
「あれ、なんで真っ逆さまに落ちたはずのウルカが、今度は上から降りてきたの?」
「行き止まりの部屋に閉じ込められて、危うく四方の壁に押し潰さそうになった。壁よりも脆そうな床を破壊して、脱出に成功したというわけだ」
「もしかして、また罠に……?」
その疑念に答えたのは白狼だ。
鼻先で示された瓦礫の山に、大きな赤い箱が埋もれている。蓋は開いており、中身は空だ。
ユウリスが非難の視線を向けると、ウルカは顔を背けて話題を転換した。
「チェルフェの件でも感じたが、この迷宮には意図的に高低感覚を惑わす仕組みがあるようだ。私は平面を歩いているつもりでいたが、実際は随分と登らされていたかもしれないな」
「ウルカ、あのさ……」
「それで、例の吸血鬼から渡された水晶はどうした?」
有無を言わさぬ彼女の口調に
ウルカは小さく鼻を鳴らし、進むぞ、と先頭を歩きだした。
「とはいえ、本当に≪リッチ≫の工房があるとは限らない。怪物の言葉など、どこまで信用できるものか」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます