06 アルフレドの戦い
「アル、フレド……?」
「起きろ、ユウリス!」
意識を手放していたユウリスが、ゆっくりと上体を起こした。額に脂汗を浮かべて、唇を真っ青に震わせながら、荒い呼吸で義弟を見据える。
アルフレドは普段と変わらぬ喧嘩腰で、声を荒げた。
「棄権するのなら、自分の口で辞めると言え。傷が痛いんだろう、泣き喚いて助けを乞うがいい。いまなら慈悲の心で受け入れてやるぞ!」
「寝起きに、うるさいんだよ。ちょっと休んだ、だけ、――だッ!」
歯を食い縛り、ユウリスは膝を伸ばした。アルフレドの前で情けない敗北を喫するなんて考えられない。永久に物笑いの種にされそうだ。
足を踏ん張るが、膝が震える。手を貸そうとするロディーヌを、リジィが止めた。
「リジィさん?」
「二人の問題よ、ロディーヌ」
リジィの言葉通り――崩れ落ちそうになるユウリスの腕を、アルフレドの手が引き上げる。
「お情けで最後まで付き合ってもいいが……やれるんだろうな、ユウリス」
「お情けで付き合っているのはこっちだ。さっさと終わらせるぞ、アルフレド」
闘志を絶やさないレイン家の二人に、客席から指笛や歓声が飛び交う。
鎧の装着したユウリスは、仲間の手を借りて再び騎乗した。握力の弱わった手に、ランドロフが布できつく槍を結び付ける。
胸が張り裂けそうな思いを抱えたロディーヌは、じっと末来の伴侶を見つめ続けた。
「旦那様――」
今からでも馬から引き摺り下ろして、田園の屋敷に連れて帰りたい。怪我が完治するまで、徹夜で看病しよう。ケット・シーの婚姻問題は、二人で他の解決方法を模索すればいい。だから、行かないで――その一言が、声にならない。
ただ、呼びかける。
「旦那様!」
悲痛な声を上げるロディーヌに、ユウリスは気丈に笑いかけた。
「そんな顔しないで、ロディーヌ。応援、よろしくね」
「…………っ!」
少女は俯くと、ぎりっと削れそうなほど奥歯を噛み締めた。
大切な人が傷つくのは見たくないが、意地と誇りを貫く彼を快く送りだしたい――相反する気持ちが、心を抉る。
足元を横切るリュネットに、ロディーヌは切実に訴えた。
「リュネット、旦那様を癒す魔術は使えないの?」
「無理よ。お嬢ちゃんも医療の道を志しているならわかっているでしょうけど、治癒の奇跡を扱える存在は稀よ。あたしに才はない。でも安心なさい、ケット・シーの誇りにかけて坊やを守るわ」
白猫が跳躍して、ユウリスの肩にしがみつく。
ロディーヌは顔を上げられないまま、蹄の音が遠ざかるのを聞き届けた。
ランドロフは顎が外れそうなほどに口を開き、ミックは丸い身体を揺らして、リジィは精一杯の愛を込めて、馬上の戦士に声援を送る。
「アル、負けるんじゃねぇぞ!」
「アルフレド、ユウリス、勝ったらお肉、ご馳走するからね!」
「アルフレドならできるわ!」
茜色に染まる走路の反対側で、メディッチが豪快に槍を振るう。
審判の合図を待つ間、ユウリスは二合目の応酬を思い返した。
ペローの加護が邪魔をしなければ、勝機はある。
問題は、メディッチが今回も防御に徹した場合だ。
初戦で一度、西の赤旗が掲げられている。
現在は西のメディッチが一点、東のレイン家は零点だ。
「アルフレド、同点の場合は延長戦をやるのか?」
「いや、決勝だろうと同点は両者敗北だ。優勝者無しで終わる。だから敵の槍をかわすのは、まず絶対条件だ。それから槍を当てるだけじゃ、同点。この戦いでメディッチを落馬させなきゃ、勝利はないぞ」
「でもメディッチからしたら、当たりさえしなければ勝ちが確定だ。まともに戦う気はないのかもしれない。守りに入られると、槍を通すのは難しい」
「なんだ、弱音か?」
「作戦が必要だって話だよ」
しかし妙案はない。
いよいよ試合の開始が迫るなか、アルフレドは思案した。戦いの分析は苦手だが、メディッチの気性はユウリスよりも熟知している。
不意に、ひとつの打開策が思い浮かぶ。勝率の良い賭けではなく、無謀な
掲げられた審判の白旗が、力強く振り下ろされた。
「馬上槍試合、決勝戦、三合目、始め!」
蹄の音が高らかに木霊する。
走りだしてしまえば、メディッチとの邂逅まで間はない。
アルフレドは大きく舌打ちすると、肩越しに義弟を振り返った。
「ユウリス!」
死人のような顔色のまま激痛に歯を食い縛るユウリスを一瞥すると、ここでアルフレドも覚悟を決める。
「卑劣な臆病者は、同時に強欲だ。勝てない戦いは挑まないが、手に入る栄光は見逃さない。撃ち合いを挑めば、メディッチは必ず避ける。けれど脅威を感じなければ、奴は欲張って落馬を狙ってくるはずだ――だから、いいか、ユウリス。お前は、何もするな」
「なにもするなって、どういう意味だ?」
「そうよ、坊やに余力はないわ。ぎりぎりでかわして、やり返すなんて真似は無理よ⁉」
ユウリスの肩で透明化しているリュネットも抗議の声を上げるが、アルフレドは耳を貸さない。正面のメディッチに意識を集中し、萎縮しそうになる決意を奮い立たせる。
「化け猫はさっきと同じように、ペローとかって奴に邪魔されないようにしっかり働け。これはレイン家の名誉を賭けた戦いだ。負けるなんて絶対に許されない。ユウリス、先に奴から撃たせるんだ。そうしたら僕が隙をつくる、あとはお前が叩き込め」
「隙をつくるって、どうやって⁉」
「うるさい、いいから……ああ、くそ、お前にこんなことを言うのは
ユウリスがキルデアに婿入りすれば、もう優劣を競える機会はないかもしれない。ならばメディッチのついでに、生意気な義兄とも決着をつける――アルフレドは最後の挑戦に奮起した。
嫡男でありながら、長兄ではない歯痒さ。
剣の腕も、勉学も、幼い頃はユウリスの方が優秀だった。それが悔しくて、時間を惜しまずに努力を重ねた。
「僕は、お前には負けない」
武芸はもはや、ユウリスに及ぶ域ではないと承知している。
しかし学問は上回った。長姉のイライザが十六歳で進学するヌアザの名門大学に、アルフレドは十五歳での入門を叶えようとしている。
恋愛は引き分けだ。
ユウリスへの妬ましさから生まれた偽りの恋は、いつの間にか露と消えた。
いまは、心に決めたひとがいる。
「ナダさん、見ていてください――勝って、貴女を収穫祭に誘います!」
「アルフレド、ナダが来てるの?」
「呼び捨てにするな、ぶっ飛ばすぞ! 来てたらいいなって思っただけだ!」
「ちょっと、坊や、弟も、もうすぐよ!」
二頭が馬首を交わす直前、アルフレドは上体を前に倒して槍持ちの進路を開いた。
ペローの仕掛けた魔術を、リュネットの加護が無効化する。
痛みに表情を歪めたユウリスも、義弟の指示通りに身体を丸める。半分は演技だが、半分は本気の苦しみだ。
身を引いて警戒していたメディッチの表情が、満身創痍の対戦相手を見るなり
「よし、ユウリスは限界だ。この勝負、もらったぁ!」
敵は既に、戦える状態にない。そう判断しためでぃっちが、渾身の大振りで槍を突く――瞬間、その進路を塞ぐようにアルフレドが顔を上げた。
「レイン家に栄光あれ!」
槍が、アルフレドの眼前に迫る。兜はなく、頭部への直撃は死を意味するが、顔色を変えたのはメディッチのほうだった。
「な、なんだとお⁉」
敵の騎手に攻撃が当たれば、大会の規則で即失格となる。
そればかりか殺人だ。公爵家嫡男の命を奪えば、人生に先はない。
表情を強張らせたメディッチが、矛を浮かせた。
頭上を抜ける槍の気配に、アルフレドの魂が叫ぶ。
「ユウリス!」
「アルフレド!」
応えた少年が、一気呵成に槍を突き上げる。
血の
しかし目が霞み、狙いが定まらない。
「――――ぐッ⁉」
柄を握る感触もなく、口のなかには錆びた鉄の味が広がる。
届け、届け、届け、逸る気持ちとは裏腹に、あと一歩の力が足りないと自覚してしまう。
その凄惨な勇姿に、ロディーヌは声を振り絞った。
「旦那様、勝って!」
少女の願いが天に轟き、房毛が稜線を描いて旋回する。
ロディーヌの声援は、身に余る魔力の暴発を招いた。
溢れだす未熟な波動が、ユウリスへ注がれる。
愛する彼に勝利を。
この切なる花嫁の願いを、リュネットが受け止める。
「やるじゃない、お嬢ちゃん!」
そして首を伸ばしたリュネットが、ユウリスの頬へ口づけた。ケット・シーの唇を通じて流れ込むのは、健気なロディーヌの想い――その活力に満ちた乙女の覇気が、少年に力を与える。
「坊や、決めなさい」
ユウリスが得たのは、奇跡だ。
「あぁ、わかってる!」
これは女神の恩恵ではない。
アルフレドの献身と、リュネットの尽力、そしてロディーヌの慈愛が、運命を決する。
澄み渡る視界。握る柄。しなる腕。
雄叫びを上げたユウリスが、力強く槍を突き抜いた。
思い描く最高の一撃。
理想を現実に体現する、至高の刹那。
「うおおおおおおおおおおお、タァッ――!」
竹の矛が、メディッチの胴体を強打する。
馬の突進力と、洗練された戦士の技による強烈な衝撃が、鎧に包まれた巨体を馬から押し出した。
仰天して実体化したペローに、リュネットが緊縛の魔術を仕掛ける。
「ここまでよ、ペロー!」
土埃の舞い上がる走路に、白目を剥いたメディッチとペローが無様を晒す。
そして、勝負は決した。
「馬上槍試合、決勝戦、勝者は東の青!」
審判の宣言と共に、青い旗が高らかにはためいた。
「馬上槍試合、幼年の部――優勝者はアルフレド・レインとユウリス・レイン!」
観客が意味をなさない雄叫びを上げ、一斉に席から飛び上がる。
市街地の隅々まで響き渡る大歓声を他人事のように聞きながら、ユウリスは呆然と目の前の義弟に視線を注いでいた。
「アルフレド」
呼びかけに応じて、アルフレドが振り向く。
目に映るのは、片腕を掲げたユウリスの姿だった。
「ユウリス」
互いに気恥ずかしくて、素直に喜びを分かち合えないのが常だが――馬首を返した刹那、唇を尖らせたアルフレドが、ユウリスの手を叩いた。
ほんの僅かに響いた軽快な音が、どんな歓声よりも心地よく二人の心に刻まれる。
「調子に乗るなよ、ユウリス。勝てたのは僕のおかげだぞ」
「わかってる。アルフレドはすごい奴だ」
「馬鹿め、いまさら気付いたか」
小気味よく鼻を鳴らしたアルフレドが、拳を突き上げて客席を沸かせた。
視線を交わしたリュネットとユウリスも、笑みを浮かべながら勝利を噛みしめる。
勝者を称える歓声は、いつまでも鳴り止まない。
ロディーヌを先頭に、仲間たちが駆けて来る。
日が沈んだあとも空は祝福に満ち、晴れやかな熱は会場を温かく包み続けた。
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