03 最後の審判

 蒼穹そうきゅうの澄んだ昼下がり――東区の国営乗馬公園に響き渡るのは、軽快な吹奏楽すいそうがくの音色だ。


 観客席は、馬上槍試合の開始を今か今かと待ちわびる大衆で溢れていた。


 これから催される開会式の直後に成人の部が開幕し、幼年の部は夕方より少し前に開始の予定となっている。


 ユウリスはロディーヌとリュネットを連れ、会場の関係者席に腰を下ろしていた。


 一段上の来賓席らいひんせきにはレイン公爵、キャロット市長、ロディーヌの父であるモルゴ・トリアス伯爵、イライザやアルフレドの姿もある。


「キーリィ・ガブリフは、さすがにいないか」


「旦那様、ガブリフ議員はその後どうなのかしら?」


「一命は取り留めたってオスロットから聞いたけど、そのあとはわからない。ほら、前の席に並んでいるのは他の選挙候補者だ。彼らがいて、キーリィがいないってことは、まだ出歩けるまでには回復してないんじゃないかな」


「ちょっと二人とも、いつまでしゃべってるのよ。そろそろはじまるわよ。開会式の最初は、あんたの妹が勤めるんでしょう!」


 ロディーヌと話し込んでいるユウリスの腕を、膝に乗るリュネットが前脚で叩いた。


 吹奏楽の音色に子供たちが結成した聖歌隊の吟声が加わると、会場は一気に静まり返る。人々は厳かに祈り、それでも騒ぐのを止めない酔っ払いは警備員に棒で叩かれた。


 走路そうろの中心には、祭壇さいだんが設けられている。客席の五階部分にまで達する長い階段の左右には、等間隔に灯る無数の火。そこに、無垢の白いドレスに身を包んだ少女が素足を伸ばした。


 額には青い宝石のサークレット、手にはブリギットの短剣ダーインスレイブ――聖女の代役ヘイゼル・レインだ。


「旦那様、ヘイゼルさんよ。素敵だわ!」


「うん、立派だ。なんか泣けてくる」


「ちょっと坊や、本気で涙ぐまないでよ」


 壇上まで登り切ったヘイゼルが、鞘から短剣を引き抜く。硝子の刃を天にかざした少女が、吹奏楽と聖歌隊の調べに合わせて流麗に声を響かせた。


「大いなる恵みを与えたもう、女神ダヌ。永久の旅にあるすべての命に誓います。主に祈り、隣人を慈しみ、親兄弟を敬い、心を捧げて尽くします。ティル・ナ・ノーグに光あれ。愛にすべてを。星刻の彼方に導きがありますように」


 普段は囁くような音しか漏らさない少女の姿はそこになく、まるで聖人が導きを与えるかのように朗々と観衆の心を震わせる。降り注ぐ日差しが透明な剣に反射し、レイン家の妖精を光の雨が包んだ。


 神秘的な光景は見る者を魅了し、宣誓が終わると同時に沸いた拍手喝采はヘイゼルが退いた後も鳴り止まない。


「坊や、坊や、あんたの家族、すごいじゃない! あたし、妖精なのに感動しちゃったわ!」


「ええ、旦那様、あとでヘイゼルさんをたくさん褒めてあげなくちゃ! このあとはセオドア様か市長さんの挨拶もあるのよね」


「ああ、どっちが話すにしろ、この雰囲気のあとはやり難そうだけど」


 興奮冷めやらぬなか、来賓席で立ち上がるのはキャロット市長だ。ユウリスの指摘通り、切り出す機会を逸して苦心している様子が見受けられる。


 その様子を見たロディーヌとリュネットが、同時に吹きだした。


「こんな大都市の市長でも、やっぱり緊張するのね」


「坊や、知り合いなんでしょう。声でもかけてあげたら?」


「そんな目立つことできないよ。そういうのは父上の役目だ。ほら――」


 愛娘まなむすめの活躍に気を良くしたのか、珍しく破顔したレイン公爵が市長の尻を叩いて発破はっぱをかけていた。


 頭髪の薄い頭に浮かんだ汗に手拭いをあてがいながら、エイジス・キャロット市長が声を響かせる。


「素晴らしい、まるで絵画の世界に迷い込んだかのような一幕でした。今年の聖女を務めたヘイゼル・レインにもう一度、惜しみない拍手を――と言いたいが、それをやっていると今日が一日終わってしまう。可愛らしい妖精のあとに、私の長話は誰も聞きたくないだろう。そういうわけで、手っ取り早く馬上槍試合の開会を宣言しようと思うが、良いかな?」


 お茶目な口調で呼びかける市長に、観客たちは笑いと歓声で応える。


「笑ってくれてありがとう。ここでシンと静まり返ったら、もう回れ右して逃げ出すところだった。それでは、改めて――」


しかしキャロット市長が片手を掲げ、馬上槍試合の開始を宣言しようとした瞬間、これまでにないざわめきが会場を包み込んだ。誰かが指を差し、場内の視線が一斉に関係者席へ集まる。


 ユウリスの腕を引いたロディーヌが、すぐ真後ろに視線を促した。


「旦那様、あれ――!」


 秘書のダニーに支えられながら姿を見せたのは、キーリィ・ガブリフだ。呼吸は荒く、肌は青白い。とても万全ではないが、新進気鋭の若手議員は気丈に手を振って観衆の視線に応えた。


 息を呑むユウリスに気付く様子も無く、ふらつきながら前方の席へと足を伸ばす彼に、キャロット市長が堪らずに声をかけた。


「キーリィ君、まだ安静が必要だと聞いたぞ!」


「市長、ご心配痛み入ります。ただ選挙も近い。僕は今日、どうしても此処に来なければならなかった――貴方に、折り入ってお話がある」


 キーリィは罅割ひびわれた唇を震わせながら、声を張って市長に応えた。


 まるで会場中の人々にも聞かせたいとでもいうような気迫に、市長のみならず公爵や他の候補者も眉をひそめる。


 そんな空気に構うこともなく、彼はのどを枯らした。


「僕は、見ての通りの有様だ。とても選挙を戦い抜けはしまい。仮に当選を果たしたとしても、当面は療養りょうように身を委ねる見通しだ。遺憾に堪えないが、僕はこの場を借りて市長選挙の辞退を申し出ると共に、一つの条件を呑んでもらえるなら、現職のキャロット市長を支持したいと思う!」


 会場内に波紋が広がるなか、キーリィの発言に最も動揺したのは市長以外の候補者たちだ。市長選挙は事実上、キャロット市長とキーリィ・ガブリフ議員の一騎打ちと目されている。


 耳を疑ったのはユウリスも同様だった。


「わざわざ勝ちを捨てるのか?」


 先日、ガブリフ陣営が市の不透明な経理を告発したのをきっかけに、大勢はキーリィに傾いていた。有力な候補者の失脚は他の候補者にとって天恵だが、彼がキャロット市長の指示を表明するのならば話は変わる。


 事情を察したリュネットが 大変ね、と呟いた。


「これじゃ、選挙とやらの結果は決まったようなものじゃない」


 事実上、二大勢力の片割れであるキーリィの票がキャロット市長に流れ、結果は現職の圧勝となるのが明らかだ。


「だ、旦那様、つまりどういうこと?」


「選挙の投票は二日後、開票はその次の日。キーリィの票が割れなければ、もう他の候補者に巻き返しの機会はない。もちろん選挙はきちんと実施されるだろうけど、実質ここでキャロット市長の勝ちが決まるかもしれないんだ」


「でも坊や、あの病人は条件があると言っているわよ」


 観衆の興味も、その一点に尽きる。気付けば騒音は失せ、誰もが若手議員と市長のやり取りに耳を澄ませていた。他の候補者も口を挟まず、公爵も舵取りを市長に任せている。


 首をまわしたキーリィは、一般観客席に視線を巡らせた。彼の視線が定まった場所に、ユウリスも目を凝らす。


「あれは、ボイド……?」


 広い会場だが、旧下水道の集落を取り纏める男は関係者席の近くに座していた。キーリィの眼差しを受けたボイドが、重々しく頷く。言い知れない胸騒ぎを覚えるユウリスの見つめる先で、上段の貴賓席に立つ市長を見据えたガブリフ議員は、悲痛な叫びを訴えた。


「ブリギットの暗がりに光を。いまこの場で真実を明らかにし、彼らに庇護を与えて頂きたい。長きに渡る分断の歴史に終止符を打ち、新たなる時代に踏み出して頂けるのであれば、僕は立場など望みません。一議員として、この身の果てるまでブリギットに、そしてキャロット市長、貴方に、尽くしましょう!」


「キーリィ君、なにを⁉」


「かつて貴方は警官の職を辞し、政治家の道に進まれた。その経緯を知ればこそ、正しい判断をなさると信じています。どうか僕の期待を、裏切らないで頂きたい!」


 それは多くの聴衆にとっては不明瞭な言の葉だ。ロディーヌとリュネットも頭に疑問符を浮かべているが、一部の関係者には大きな衝撃をもたらした。


 公爵は目を見開いて髭を撫で、キャロット市長は戦慄せんりつして固まり、ユウリスも思わず席から身を乗りだす。


「キーリィ・ガブリフ!」


「……ああ、ユウリス・レイン、居たのか。気付かなかったよ。先日は、無様な姿を見せたね。失望、させたかな。だが、僕はみんなが思うような完璧な人間じゃない。見ての通り、無様で、自分勝手な、ただの、悪餓鬼わるがきだ」


 キーリィが口にしたブリギットの暗がりとは、旧下水道の存在だ。


 大洪水という災害のあと、レイン家の統治に反発して都市の地下に潜んだ者たちの集落。市街地に住む人々が知らずにいる棄民の実在を、キーリィはこの場で明かすように迫った。


 場内に不穏な喧騒が沸きはじめたのを察した市長が、公爵に視線を送る。


 ブリギットを統治する二人の権力者の思案は、言葉もなく決した。


「旦那様、なにかご存知なの?」


「坊や、自分だけわかってずるいわよ!」


「待って、市長がしゃべる!」


 両手を掲げたキャロット市長が、大衆に静粛を求める。そして波乱の止まぬうちにキーリィ・ガブリフへ身体を向けると、自慢の蝶ネクタイを締めなおした彼は晴れやかに白い歯を覗かせた。


「民を思う君の気持ちには心を打たれた。故に承知した――私が市長に再選した暁には、君が公約に掲げた金融手数料の撤廃と公共事業の透明性確保、癒着を含めた汚職の追及を約束しよう。ただ入札と税に関しては議論が必要だ。これからも一丸となってブリギットのために尽くそうじゃないか!」


 その返答に、キーリィの表情は絶望に塗り変わる。


 自らの膝を拳で叩いたボイドは、怒りの形相で席を立った。


 市長と公爵は旧下水道の住民について明かす時期にないと判断し、要求を退ける口実にキーリィの公約を利用したのだ。


 未だ釈然としない民衆に向けて、キャロット市長は目一杯に両手を広げて声を張り上げた。


「キーリィ君は、いや、輝きしき我らがキーリィ・ガブリフ議員は、私の身を悪漢あっかんから守ってくれたばかりか、ブリギットの闇を払えと要求した。これは彼が常々、声高に叫んでいた市の透明性に対する警告である。私の至らなさが、青年の正義感を駆り立てた。この場で誓おう、私もまたキーリィ・ガブリフ議員を支持する。彼が市長選を下りる必要は無い。どちらが市長の座についても、ブリギットの繁栄は約束されている!」


 揺れるほどの声援も、キーリィ・ガブリフの冷めた心には届かない。彼が失意のなかでも手を振るのは、長年の政治家生活で培った反射行動だ。やがてそばの椅子に崩れ落ち、ぐったりと項垂うなだれる。


 そして馬上槍試合の成年部がはじまると、ユウリスも気付かぬうちにキーリィは姿を消していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る