19 さまよう刃
「ユウリス殿。伝承の行方を彩りたいのは山々なれど、屋上に妙な気配が」
えっ、と声を上げてユウリスが視線を向けたのは、セント・アメリア広場に面した公文書館の屋根だ。そこは二日前、ハサンの一味が現れた場所でもある。
暗殺者の疑惑についてはブラムの推論以外に証拠もなく、警察には通報していない。警備が手薄でも不思議はないが、夜を照らす蒼白と薄紅の月光は誰の姿も映さず、屋上の気配は静かだ。
人間の眼界で視認できないのは当然と諭し、ブラムは尚も言葉を重ねる。
「ノスフェラトゥの視覚は熱を測る宵の瞳。ハサンの一味と断定は叶わずも、四人が潜むは確然。如何なさる?」
ユウリスは息を呑んで、セント・アメリア広場を見渡した。選挙の候補者たちを警備する警官のなかにオスロット警部補の姿も見えるが、現場の責任者が彼なら忌み子の言葉に耳を貸してはくれないだろう。
「ブラム、俺を手伝ってくれる?」
「無論。姫にお力添え下さるユウリス殿は、我が主君に同じ。いざ、ご下命を賜りたく」
「ありがとう、頼もしいよ。屋上にいるのがハサンの一味なら、無力化して警察に突きだす。ロディーヌ、俺が行ったらすぐにオスロット警部補――あの、いちばん奥で仁王立ちしている太った髭の警官に、公文書館の屋上に怪しい人がいると伝えて」
「旦那様、待って、危ないわ!」
瞳を揺らしたロディーヌが少年の腕を掴んだ。最初の夜、彼女が謎の訪問者に怯えた理由がいまならわかる。手を重ねたユウリスは、真摯にロディーヌを見据えた。
そして強盗に襲われた幼い日の惨劇を、決して繰り返しはしないと誓う。
「いま行かないと、多くの人に取り返しのつかない被害がでるかもしれない。俺は英雄じゃないし、立派な正義感があるわけでもないけれど、目の前で悪事を見過ごしたらきっと後悔する。理不尽に誰かが傷つけられるのは、見たくないんだ」
「旦那様……」
不条理な世界がもたらす痛みは、ロディーヌの心にも刻まれている。唇を噛んで、少女はそっと手を離した。
房毛がぴんと伸び、碧の瞳に決意が宿る。
「怪我なんかしたら、消毒液をいっぱい塗りこんであげるんだから。ちゃんと無事に帰ってきてくださいね、旦那様」
「少しくらい怪我はするかもしれないから、できれば優しくしてほしいんだけど」
「もう、そこは素直に無事に帰ると約束なさって!」
膨れるロディーヌに苦笑を返し、ユウリスは足元のリュネットに視線を移した。待っていましたとばかりに、ケット・シーが少年の肩に飛び乗る。
「安心なさい、お嬢ちゃん。坊やはあたしの魔術で守ってあげるわ」
「いや、リュネットは残って、ロディーヌをお願い。下でも何が起こるかわからないから、念のために」
リュネットは一瞬だけ不満そうな表情を浮かべたが、渋々ながら承知した。
「しょうがないわね。代わりに妖精の祝福を与えるわ」
そのまま首を伸ばしたリュネットが、ユウリスの頬にそっと口づけをおくった。
刹那、少年の体内に妖精の魔力が脈打つ。
ロディーヌが目を丸くしたり吊り上げたりするのを横目に、ケット・シーは
「あたしの加護、扱い方はわかるわね?」
「助かるよ。公文書館の鍵を壊したら、残りの収穫祭は留置所で過ごすはめになっていたかもしれない」
リュネットを肩から下ろし、ユウリスは瞼を閉じた。
呼吸を整え、魂の深淵に呼びかける。
血潮が滾りは、絶対零度の情熱。
胸の内に灯る焔は冷然と、霊力の胎動が蒼白の光と化して少年の全身を包み込む。
そして再び世界を映す瞳は、群青を帯びて。
「闇祓いの作法に従い――」
破邪の力が発現し、ユウリスの身体能力が爆発的に向上する。
「行こう、ブラム!」
次の瞬間、ユウリスは民家の屋根に身を躍らせた。重力の枷が外れ、翼を得たかのように滞空時間が伸びる――これが、ケット・シーの加護。
続いて外套を全身に撒きつけたブラムが、下半身を霧に変えた。そのまま幽鬼のように宙を漂う吸血鬼が、先んじて公文書館の屋上へと舞い上がる。
「ユウリス殿、斥候はお任せを」
「旦那様、がんばって!」
「坊や、こっちは任せなさい!」
三つの声に頷いたユウリスも、民家の瓦を蹴って再び宙に蒼白の軌跡を描いた。公文書館の壁をブーツで踏み、跳躍を繰り返しながら頂上を目指す。
頭上ではブラムが縦横無尽に夜を駆け、暗殺者の集団と交戦を開始していた。
「ゴヴニュ砂漠の針。暗闇の使者。蜃気楼の
ブラムが対峙するのは、黒い装束に身を包んだ二人の男と一人の女――頭巾から僅かに垣間見える褐色の肌は、南部人の特徴だ。
片方の男が丸めた手を口元に当て、毒針を吹く。
同時に残りの男女が短剣を手に挟撃に動くが、吸血鬼は冷徹に犬歯を剥いた。
「児戯にお付き合いする
毒針を爪で弾いたブラムは、左右から薙がれたナイフを避けようともしなかった。
「筋が良いとお見受けしますが、力量の差を悟る経験値は足りないようで」
ブラムが、ぱちん、と指を鳴らす。
すると身体が歪み、その揺らぎから≪アフール≫の群れが召還された。牙を剥く吸血蝙蝠の軍勢が、たちまち暗殺者たちに襲いかかる。
毒や刃で怪物に応戦するハサンの一味に酷薄な眼差しを向けながら、ヴァンパイア・ロードとも呼ばれるノスフェラトゥは悠々と顎を撫でて思案した。
「我が目に映りし熱の数は四。されど貴殿らは三匹の子豚なれば――はて、珍妙な。気配がひとつ、失せてしまわれた。ユウリス殿、油断召されるな。どうやら一人、格上の刺客が潜んでいる様子」
遅れて到着したユウリスは、無数の≪アフール≫にぎょっと顔を強張らせた。
必死に抵抗しているハサンの一味よりも、吸血蝙蝠の群れに脅威を覚える。
「すごい、これがヴァンパイア・ロード。戦いに余裕があるな」
ブラムひとりに任せるつもりはないが、闇祓いの加勢は必要ないかもしれない――そう思えるほどに、吸血鬼の魔力は強大だ。
しかし刹那、アフールの金切り声が一斉に木霊した。
ハサンの一味が用いる毒霧が、吸血蝙蝠を次々と死骸に変えていく。
「ユウリス殿、毒にご注意を。湖の乙女より生贄の試練に挑まざる身には致死となりましょう。此度の戦功は我が胸に!」
毒に耐性のないユウリスを案じて、ブラムが一気呵成に仕掛けた。
「夜こそ我が不変の領域! お命頂戴と参りましょうか!」
宙を旋回したブラムが、両指の爪を剣のように伸ばす。
霧と化し、頭上から飛来する吸血鬼――その姿に臆することなく、暗殺者の男二人が同時に腕を薙いだ。覆面に覆われたハサンの一味が、鋭く声を伸ばす。
「目にもの見せてくれよう!」
「怪物を屠るは、闇祓いの力のみにあらず!」
ハサンの一味が振るった腕の袖から、銀の糸が踊る。闇を裂く筋が吸血鬼の身体を拘束し――次の瞬間、霧と化していたブラムの身体が実態に引き戻される。
「銀の糸! 左様、吸血鬼が銀を嫌うは必定。されど我が身はノスフェラトゥを極めしヴァンパイア・ロードなれば、破邪の金属であろうとも――⁉」
吸血鬼の弱点とされる銀だが、上級の怪物であるヴァンパイア・ロードの動きを封じるには至らない。そう断じたブラムの身体を、銀の糸が容赦なく切り刻んだ。
赤黒い血の雨を全身から降らせ、吸血鬼が表情を歪ませる。
「我が肉を裂く、とは……
ブラムの危急に短剣を抜いたユウリスだが、動く直前に忠告を聞き入れた。吸血鬼の拘束に力を注ぐ二人の男を尻目に、女が屋根の
「駄目だ!」
その制止を聞き入れるはずもなく、女の暗殺者は討論会場に向けて腕を伸ばした。凶器の矛先は、壇上のキャロット市長に向いている。
瞬時の判断で短剣を引き絞ったユウリスが、破邪の衝撃波を撃つ――が、間に合わない。
「やめろおおおおおおおおおお――ッ!」
ぼすん、と大きな音を立て、暗殺者の袖から毒針が放たれる。刹那、虚空を裂いた蒼白の斬撃が暗殺者の腕を肘から断ち切った。
苦悶に喘ぎながらも、ハサンの女は覆面の奥で笑みを浮かべた。
「任務完了」
毒牙が獲物を捉える瞬間、すぐ隣のキーリィ・ガブリフが動いた。市長を庇うように押し倒した赤毛の議員が、自らの背中で凶器を受ける。悲鳴と怒号が噴出する眼下の光景に、ユウリスは呆然と唇を噛み締めた。
「ユウリス殿!」
ブラムの声にハッとしたユウリスに、片腕を失くしたハサンの女が肉薄する。切断面から大量の血液を垂れ流しながらも、残る手に握られた刃の軌跡に狂いはない。
「死ね!」
「うわあああああああああああああああああああああああああああ!」
雄叫びを上げたユウリスは、力強く踏み込んだ。
まずは肘で女の腕を払い、凶刃を逃れる。更にがら空きになった暗殺者の胴体に刃を突き立てようとして――それ以上、身体が動かない。
「……、――ッ!」
毒に侵されたわけではない。
ただユウリスは、人の命を奪う行為を躊躇した。そんな少年を侮蔑しながら、ハサンの女は容赦なく刃を
覆面の奥から放たれるくぐもった声は、未熟な心を抉るように。
「覚悟も無く、戦場に立つな!」
少年の危急を察したブラムが、封じていた力を開錠する。
「ユウリス殿‼」
彼の全身から立ち昇る赤紫の瘴気が、瞬く間に銀の糸を溶かした。
「我が幻影の園を見よ!」
ヴァンパイア・ロードの霧が、雪崩のように男二人を呑み込んだ。広がった
ハサンの女が薙いだ刃は、すでに少年の首を捉えていた。
そこにに、オスロット警部補のがなり声が響く。
「忌み子、なにをしとるか!」
部下を引き連れたオスロットが、屋上に踏み込むなり抜き身の剣を
「こういう、こともある……か」
それが、ハサンの女が残した最後の言葉となった。
絶命した暗殺者の手から武器がこぼれ、煉瓦に乾いた音が木霊する。
同時にユウリスも、その場に崩れ落ちた。
少年の唇から、嗚咽のような意味のない声がこぼれる。
「……あ」
自分は人目に触れるべきではないと判断したブラムは、すばやく姿を眩ませた。駆けつけた警官の中に、ヴァンパイア・ロードの気配を追える者はいない。
そして一連の出来事を物陰から観察していた四人目の女は、発動しかけていた魔術を握り潰した。碧い瞳が、座り込んだまま動かないユウリスの姿を捉える。
「暗殺を未然に防いだのは評価するけれど……ユウリス、それは優しさではなく甘さよ」
オスロット警部補に怒鳴りつけられている弟の無事を確認して、潜んでいた四人目――イライザ・レインの姿も夜闇に消えた。吸血鬼と同様、暗躍するレイン家の長女に気がつく者はいない。
その後、一命を取りとめたキーリィ・ガブリフは、市長を救った英雄として称えられた。
一方、奇妙な噂も囁かれはじめる。
曰く、対抗馬のキーリィ・ガブリフを消すためにキャロット市長が暗殺者を雇ったのではないか。ガブリフ議員が身を挺したのも市長の想定通り――そんな
混濁する意識のなかで、ユウリスは夜に浮かぶ双月を眺めていた。
大陸を巡る二つの天体は、実在しない魔力の塊だと伝え聞く。
夜を照らす最も大きな光が幻想だとしたら、何を頼りに闇を進めばいいのだろう。不確かな導きに頼らなければ生きていけないことを絶望と呼ぶのなら、この世に確かな希望など無いのかもしれない。暗殺者の瞳が最後に映した自分の表情が、脳裏を過ぎる。
「俺は……」
そのままユウリスは、まどろみの底に思考を手放した。
ひどく惨めで、情けない――さまよう刃の先から、目を背けるように。
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