14 リュネットとユウリス
「リジィはどうして、キーリィ・ガブリフとの関係を隠すんだろう……?」
疑問に答える者はなく、ユウリスとリュネットは国営乗馬公園を後にした。
東地区は初日に堪能したので、次に向かう先は北区だ。
屋台が多いという噂だが、まだ財布の重みに心配はない。ロディーヌとの生活に不自由がないよう、あらかじめ資金は潤沢に提供されている。
「トウモロコシ、探さないとね」
肩で大人しくしている白猫に笑いかけると、不意に頬を舌でくすぐられた。目を瞬かせる少年に、ケット・シーが鼻を鳴らす。
「さっき、あたしを庇ってくれたお礼よ。ケット・シーに舐められるのは、吉兆の証なの。口付けは幸運を刻むけど、そこまではしてあげないわ」
「庇った?」
「もう、自覚がないならいいわよ。この
リュネットの前脚が、ユウリスのこめかみを殴打する。理不尽だと口をへの字に曲げる少年に、不条理こそ世の正しい在り方だとケット・シーは嘯いた。
「俺、妖精に生まれなくてよかった」
「あら、あたしだって人間よりケット・シーに生まれてよかったと思ってるわ」
人の多い大通りを避け、薄暗い路地を進む。
途中、路上に座り込む怪しげな祈祷師の男から、占いはどうだね、と声がかかった。無視して通り過ぎるユウリスに背に、忌み子め、と罵倒が飛ぶ。
振り向いて威嚇する白猫を、少年はそっと嗜めた。
「相手にしなくていいよ。路上占いは犯罪なんだ。放っておいても、警察が取り締まる。でも黒髪は目立つから、仮面をしていても俺だとわかっちゃうんだよ。明日は帽子でも被ろうか」
「ねえ、坊や。さっきのリジィって子も言っていたけれど、あんたは自分が何を言われても怒ったりしないわよね。嫌じゃないの?」
「気持ちよくはないけど、もう慣れたかな。子供の頃からずっとこうで、これでも公爵家の子供だから暴力を振るわれるようなことは少なかったし。アルフレド以外には」
冗談めかしたつもりだが、リュネットの表情は険しい。食事の作法を守れない子供を叱るような目つきで尻尾を振るったケット・シーは、ユウリスの頬を容赦なく叩いた。
「痛い!」
「あたしの話を真面目に聞かないからよ」
少年の肩から飛び降りたリュネットは、路地の隅に横たわる空の酒樽に着地した。肉球に踏まれた容器が転がりはじめ、すぐに姿勢が崩れる。
四肢が滑り、危うく転倒しかけたところに、ユウリスの腕が伸びた。
「危ないじゃないか、なにしてるんだよ!」
「坊やが、他のみんなにしていることよ!」
リュネットは悪びれた様子もなく、少年の腕に抱かれたまま前脚を組むと、不機嫌そうに顔を背けた。
へそを曲げてしまったケット・シーの姿に、ユウリスが眉尻を下げる。
「俺、そんなに心配かけてる?」
「ほら、わかっていないじゃない。坊やはさっき言ってくれたわよね、友人を侮辱したら許さないって。そんなの、あたしだって同じよ。友達が罵られたら、嫌な気持ちになるわ。怪我をしたら心配するし、悲しんでいたら辛くなる。逆の立場で考えてみて」
ユウリスは項垂れ、神妙に頷いた。
逆の立場という言葉に、浅慮を痛感する。
リュネットの名誉を傷つけられたとき、メディッチに怒りを覚えた。もし彼女が大丈夫だと笑ったら、どうするだろうか――きっと理不尽に抗えと憤るだろう。
そして友人が蔑まれるのは悲しいと伝えながら、胸を痛めるのではないか。
「ああ、そうか」
今更ながら、幼馴染のカーミラが泣いた日を思い出してハッとした。
これまで多くのことを上辺だけ理解して、都合よく解釈していたのかもしれないと、ようやく気がつく。
注がれる愛情に背を向けていた不義理を恥じ、ユウリスは唇を噛んだ。
「ごめん、リュネット。俺、自分勝手だった。人の想いを踏み躙るなんて、最低だ」
他人に否定される辛さは汲み取れても、気遣いに感謝する心が欠如していた。
そんなユウリスの胸に寄り添い、リュネットが甘えるように小さく喉を震わせる。
「わかればよろしい。深刻に考え過ぎるのも良くないけど、いまの気持ちを忘れないで。特に坊やは、他人の事情に首を突っ込む癖があるでしょう。その献身に救われる人もいれば、大切な人が誰かのために傷つく姿で胸を裂かれる人もいるのよ?」
「俺は、そんなに聖人じゃないよ。本当に譲れない場面や、守りたい人のために戦うだけだ。任せられるなら、自分で進んで危険には飛び込めまい」
「あら、家に押しかけてきたケット・シーを助けるために、乗れない馬に挑戦するくらいにはお人好しじゃないかしら?」
「それ、手伝わせてる本人が言う?」
ユウリスの渋い顔に、生意気ね、とリュネットが前脚を伸ばした。柔らかい足の裏で頬を押し上げ、無理やり笑顔を形づくる。少年に注がれる白猫の眼差しは、深い憐憫に満ちていた。
陽気な声が、秘めた想いを覆い隠す。
「自己犠牲なんて最低よ。命を大事にしなさい、坊や。他の誰を助けても、自分を大切にしてくれる人を泣かせたら、なんの意味もないんだからね」
「リュネットが、そんなに俺を大事に思ってくれているなんて知らなかった」
「なっ、ば、馬鹿じゃないの、調子に乗らないでよね。あたしは、いま坊やにいなくなられたら困るから、その、つまり、あれよ、しっかり勝ちなさいってこと!」
声を上擦らせながら、リュネットは愕然とした。
人間の子供が発した軽口に、なぜ狼狽しているのか。ユウリスを友人と認めているのは確かだ。仲間意識が芽生えれば、憂慮もする。なにも焦る必要はない。しかし整理がつかない理性とは裏腹に、心は既に答えを得ていた。
大事に思ってくれている。
この一言だ。
自覚すると同時に、毛並みが逆立つ。
尋常ではない様子を案じて、ユウリスは首を傾げた。
その視線から逃れるように、リュネットは少年の腕から飛びだす。
「いや、ありえないわ。あたし、ケット・シーだし。だいたい大事に思うって友達としてだし。人間と妖精の恋とか悲劇よ、悲劇。いや、でも坊やは闇祓いだし理解があるかも。プークにも気に入られてるし。でもそうしたら森に住むのかしら、それともレインの屋敷? 白狼に食べられそうになったら守ってくれるんでしょうね。一生懸命尽くしてくれたら、あたしだっていろいろ考えてあげなくはないけれど。ていうかこんなの、お嬢ちゃんになんて話すのよ。あたしたち完全に敵同士じゃない。ああ、待って待って、ええ、ちょっと困っちゃうわ。ていうか、いっしょに住んでるのよね、あたしたち。お布団もいっしょ……人間って、その、卑猥な行為をするんでしょう。え、ええ、今夜、みんなが寝静まってるあいだにとか、ま、待って、あたしも人に化けられるけど、いえ、最初は坊やに猫の姿になってもらって。いやああああ、でもやっぱりまだ心の準備が――」
路地の先をふらつくリュネットに、ユウリスは顔をしかめた。
捲くし立てる声は小さく、呪文の詠唱にしか聞こえない。おそるおそる手を伸ばし、白い毛並みの背中に触れる。
「あの、リュネット?」
「とりあえずお友達よ、あたしたち!」
くわっと牙を剥くケット・シーに、ユウリスはぎょっとして頷いた。
「俺もリュネットは友達だと思ってるよ。どうしたの、急に?」
「え、あ、その、ええと、そう、この辺りに友達が住んでいたのを、ちょっと思い出したのよ。懐かしくなって。友達っていいわね!」
「それって、人間の?」
問われて、リュネットは路地の景色に視線を巡らせた。
妖精は人間に比べて、時間に関する感覚が鈍い。
数十年程度は、昨日と変わらない。
それでも胸に去来する思慕の念は、過去の
「ほんの一つの季節だけど、飼い猫として人間と暮らしていたのよ。坊やに似て、無邪気で自分勝手な男の子だったわ」
興味深そうに相槌を打つユウリスに、リュネットは半眼を向けた。
他の男の子に飼われていた事実を、あっさりと受けいれるのが腹立たしい。
話の続きを請う少年の肩に跳び乗ったケットシーは、その耳元で大声を上げた。
「教えないわよ、馬鹿。坊やって、本当に女心がわからないのね!」
「あ、わかった。もしかして失恋した?」
「いい度胸ね。呪われたいのかしら。呪われたいのね!」
「ああ、嘘、冗談。ほら、いい匂いがしてきた。好きなもの買ってあげるから、許して」
やがて、路地の終わりが近づく。
「リュネット、人前に出たら大人しくしてね?」
「失礼ね。いつだってあたしは淑女よ」
先の大通りから伝わってくるのは熱気と歓声、焼けたトウモロコシの臭い。
北区では、牛追いの催しが盛り上がっていた。
柵に囲まれた会場で、角に結ばれた赤いスカーフを掴まんと、若い男女入り混じって牛に群がる。
観客たちの悲鳴や応援の凄まじさに、リュネットは堪らず前脚で両耳を押さえつけた。
「坊や、ちょっとここ、うるさすぎよ。離れましょう!」
「わかった。おいで、リュネット」
ユウリスは肩の白猫を両手で持ち上げると、胸にしっかりと抱いて喧騒に背を向けた。
「どこか休める場所があればいいんだけど……」
それは自分の身で雑音が少しでも軽減されるようにという配慮だが、急に抱擁されたリュネットは目と口を大きく見開いて固まった。人間に恋心を燃やす妖精も多いという話を、ケット・シーは少し前まで鼻で笑ったものだが――いまはなぜだか、身体が疼く。
「ぼぼぼぼ、坊や!」
「ごめん、なに、聞こえない!」
賭け屋の煽りが群集の熱狂を加速させ、互いの声は届かない。
広場を離れる頃にはリュネットも諦め、本能のままユウリスの胸板に頬を摺り寄せていた。人もまばらな通りにまで辿り着くと、冷静さを取り戻したケット・シーが気恥ずかしさを誤魔化すように目をつり上げる。
「ちょっと坊や、あたしはロディーヌみたいなお子様と違って立派なレディなのよ。もうちょっとこう、気を遣うというか、慎みを持ちなさいというか、ねぇ、聞いてる⁉」
「ごめん、リュネット。肩に!」
訴えに耳を貸す余裕はなく、ユウリスの視線は街路樹の陰に奪われていた。
そこに、老婆が蹲っている。
木の幹に片手をついている姿に、通行人は誰も気付いていない。
リュネットを肩に乗せたユウリスは、真っ直ぐに駆けた。
「あの、大丈夫ですか!?」
「おや……?」
質素な鳥の仮面を被った老婆は、少年の黒髪を認めてハッとした。
「ご親切にありがとう。少し前から。腰痛がひどいのさ、今日は大丈夫だと思ったんだけどねえ。牛追いがどうしても見たくて、出てきちゃったのよお」
「駄目ですよ、あんな人混みで揉みくちゃにされたらどうなるかわかりません。牛追いは毎年、怪我人が出ますから、近くに野外病院が設営されているはずです。念のために診てもらいましょう、手を貸します」
「あらあら、でも、そんな、悪いわよ。あなたもお祭りを楽しんでいる最中でしょう。わたしゃ少し休めば大丈夫だから」
やんわりと拒絶されたユウリスは、髪の色で忌み子だと知れたのが原因だろうかと唇を引き結んだ。
ブリギットの人間で、忌み子のユウリスを知らない者はいない。
母親の知れない赤子をレイン公爵が外から連れ帰った日、教会では凶事が頻発し、目撃者の司祭は行方知れずになった。以来、ブリギットで異変が起こる度、その赤子――ユウリス・レインの呪いが街に災いをもたらしていると人々は言う。
信心深ければ、関わりを持ちたくはないのも当然だ。
「坊や、平気だって言っているんだから、無理に助けることないわよ」
リュネットがそっと囁くも、少年は動かない。
脳裏に溢れるのは、ある婦人との思い出だ。
夏に出会い、そして別れた大切な友人。病気を患っていた彼女が、目の前の老婆に重なる。
やはり見過ごせないと、ユウリスは強引に老婆の腕に手を伸ばした。
「やっぱり放っておけません。お婆さん、俺はユウリス・レインです。自分がどう思われているか、わかっています。だから野外病院の傍まで運んで、あとは係員に任せます。いっしょに居るのを見られたくない気持ちはわかりますから、なるべく急ぎますよ。さあ、背中に乗ってください。すぐですから」
ユウリスは老婆の眼前に背を向け、身体を預けるように促した。リュネットは肩から下り、もどかしそうに成り行きを見守る。
そこに、男の野太い声が待ったをかけた。
「何をしている、動くな、動くなユウリス・レイン! 忌み子め!」
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