12 抑圧の季節

 ブリギット市には、二つの下水道が存在する。


 ひとつは各家庭の排水を浄化施設に流す通常の下水道。


 もうひとつは旧下水道と呼ばれ、今日では使用されていない古い設備だ。


 三十三年前、ブリギット市に甚大な被害を及ぼした大洪水――それ以前に稼動していたのが旧下水道で、市街地の復興に併せて新設されたのが現在の下水道である。


 放棄された旧下水道の入り口で、リュネットは早くも根をあげた。


 早朝の乗馬訓練では、早くお祭りの行きましょうよ、と急かしていた白猫も、糞尿ふんにょうの入り混じる疎水そすいの臭いに、すっかり意気消沈している。


「坊や、本当にこんな場所に誰か住んでるわけ?」


「そういうこと、サヤの前で言わないでね」


 ユウリスの友人である少女――サヤは、旧下水道に築かれた集落の住人だ。


 かつての大洪水を政府の怠慢が起こした人災と糾弾し、地上世界と決別した彼らは、二世代、三世代に渡り、地下で生き続けている。


 街を生きる人々は、地下世界の存在を知らない。


 何気なく行き来する足元に、誰かが住んでいるとは夢にも思わないだろう。


「なるべく早く戻るから、リュネットは大人しく待っているんだぞ」


 晴れ渡る太陽の下、仮面と洒落た衣装に身を包んだユウリスは地下に繋がる扉へ手を伸ばした。


 その先は暗く、廃れて長い空洞に染み付いた汚臭が煉瓦から滲み、漏れた雨水が足場を湿らせている。


「ぜ、絶対よ。あたしを放置したら、猫の呪いをかけてやるからね!」


 猫耳とひげを生やして一生を過ごすんだからね、と脅迫するケット・シーに別れを告げ、ユウリスは暗がりの世界に身を投じた。


 旧下水道には怪物が跋扈しており、立ち入りには緊張を孕む。


「また通路が変わっていないといいけれど」


 ランタンの明かりを片手に進む通路は、頻発する地震の影響で崩落が多発していた。煉瓦を跨げば通れる程度の被害は見逃せるが、完全に行く手が塞がれると厄介だ。


「集落の辺りは頑丈だって聞いても、やっぱり心配だな」


 途中、吸血蝙蝠こうもりのアフールと巨大蚯蚓みみずのワームを退治したユウリスは、これまでにない脅威の多さに暗澹あんたんたる思いを抱いた。


 はじめて下水道を訪れた晩春ばんしゅんより、旧下水道は遥かに危険な場所と化している。


 怪物の活性化も、ブリギットに忍び寄る悪意に起因しているのだろうか。


「イライザが、もし関わっていたら――」


 義姉あねの暗躍と、師の不在が焦燥を募らせる。


 しかし自分を慕ってくれる友人の前で、辛気臭い顔は見せられない。集落が近づくにつれ、ユウリスは気持ちを切り替えた。


 いくつもの怒号が耳に届いたのは、その直後だ。


 通路の角から覗き込むと、複数の男女が怪物と対峙している。


「集落の人たちだ。相手は、≪サムヒギアン≫か」


 ≪サムヒギアン≫は、鋭利な尾の先に毒を孕む蛙の怪物だ。


 成人男性ほどの体躯に手足はなく、代わりに左右にヒレが揺れ、大きく膨らんだ腹の弾みで移動する。集落の戦士たちは苦戦を強いられ、防戦一方のようだ。


 下手に刺激を与えると、この怪物は失神するほどの強烈な鳴き声を発する。


 ユウリスは足元に明かりを置き、静かに腰の短剣を引き抜いた。


「この距離なら、奇襲が通じるはず……」


 ≪サムヒギアン≫の身体は、ちょうど側面。


 距離は開いているが、障害はない。


「闇祓いの作法に従い――」


 絶対零度の情熱が、身体の奥底で産声を上げる。


 清廉な破邪の胎動が、蒼白の焔となってユウリスの身を包んだ。


 瞳は清廉な群青に塗り変わり、怪物の首を捉える。


 武器を引き絞り、高潔な力を刃に収束。


 流れるような動作で武器を振り抜き、調伏の輝きを解き放つ。


「破ッ!」


 刀身から解き放たれる、闇祓いの波動。


 蒼白の軌跡が水飛沫みずしぶきを散らし、空間を奔る。


 飛翔する斬撃が、ぎょっと目を剥いた≪サムヒギアン≫の首と胴体を両断した。断末魔すら許さず、怪物の頭部が汚水に沈む。


 剣を納めたユウリスは、カンテラを掲げながら声をあげた。


「ユウリス・レインです。怪我はありませんか?」


 集落の住人たちとは顔見知りで、良好な関係――のはずだが、手を振り返してくるのは二人のみで、半分以上はユウリスに見向きもしない。彼らは≪サムヒギアン≫の死骸を回収すると、無言で通路の闇に姿をくらましてしまった。


 仲間の態度を謝罪した他の住民も、長居は無用とばかりに集落へ引き返していく。


「なんだろう、いつもより空気が張り詰めているような」


「ユウリス・レイン様、またお会いしましたね!」


 不意に、暗がりから呼びかけられた。


 ぎょっとしたユウリスが、すばやく声のほうへ灯りを向ける。


 そこに浮かび上がるのは、細身にきっちりと背広を着込んだ青年の姿だった。


 糸目が印象的な彼は、キーリィ・ガブリフ議員の秘書だ。


 どうしてこんなところに、と二人の声が唱和する。


「私はガブリフ議員のお遣いですよ。ブレイク商会とは別に、地下の住民たちに支援をしています。今日は必要な物資の聞き取りに来たのですが、まさか道中で怪物に襲われるとは、ついていません」


「キーリィ・ガブリフ議員は、本当に立派な方ですね。俺は、友達を誘いに。そういえば、シオン公園でも名前を聞いていませんでした」


「ああ、ご無礼を。ダニー・マクフィーです。ダニーと呼んでください。よろしくお願いします、ユウリス・レイン様。それと議員の呼び方はキーリィで構いませんし、私には敬語も必要ありません。彼は貴方を友人と言って憚りませんし、秘書の私にかしこまるのもおかしな話です。それに事情はあれど、貴方は公爵たるレイン家の長兄だ。堂々と偉ぶってください」


「偉ぶるのは慣れていないけど……じゃあ、よろしく、ダニー。あの、キーリィの具合は?」


「倒れた日の夕方にはすっかり回復して、遅れを取り戻そうと夜が更けるまで南区の広場で遊説していましたよ。昨日も朝から中央区以外をすべてまわって、呆れるくらいに元気です」


 良かった、と安堵の息を吐いて、ユウリスは傍らを歩く秘書を盗み見た。キーリィが倒れた原因を尋ねて良いものか逡巡していると、察したダニーが肩を竦めて首を振る。


「申し訳ありませんが、一昨日の件について私からお話できることはありません。必要があれば、議員が自らお話になるでしょう。どうかご容赦を」


「あ、いや、ごめん、不躾ぶしつけだった」


「他になにかお答えできることがあれば、なんなりと」


「ありがとう、じゃあもうひとつ。セント・アメリア広場の演説で、市に用途不明金の支出があるってキーリィが言っていたけれど、あれって……」


 キーリィが市の不正しとして告発していた、用途不明金。政治に関わりのないユウリスだが、ひとつだけ心当たりがある。


 複雑そうに呻いたダニーは、両手を広げて大きく嘆息を吐いた。


「まあ、ユウリス様には隠せませんね。ええ、お察しの通り、あれは温泉施設の建設費用です」


 やっぱり、とユウリスは暗澹たる気持ちで眉を寄せた。


 ある事件がきっかけで、雨季のはじめに旧下水道の地下に温泉が発見された。


 様々な思惑が絡み合った結果、温泉を整備する費用を市とレイン家が負担したが、知られざる地下世界の住人に対する支出は機密費として処理されたと聞いている。


 実際に機密費という会計も存在はするが、議会の承認を得られなければ裏金だ。


 政治家の姿勢として、キーリィの糾弾きゅうだんは正しい。


「でも、あのお金は地下に住む人たちにとって必要なものだった」


「ええ、わかりますよ。入手した裏金の写しを選挙に使うと聞いたときには、私も猛反対しました。秘書を辞めてやる、と啖呵を切った挙句にまだ働いているんですから、私も相当、彼に毒されているんでしょうね」


「ダニーはどうして、キーリィの秘書に?」


「私は、この下水道の出身なんですよ。彼の一族には、拾ってもらった恩があります」


 えっ、と思わず驚愕の声をあげ、ユウリスはすぐに失言を恥じた。感情の根底に、地下の住人に議員の秘書が勤まるほどの教養が身につくのだろうか、という差別意識が根付いている。


 謝罪しようとした少年を、ダニーは片手で制した。


「いえ、驚くのも無理はありません。貴方の認識は正しい。ここは本当にひどい場所です。外に出て、改めて思い知りました。温泉のおかげで衛生環境は改善されても、真っ当な人の暮らしには程遠い。何かを変えたくても、選挙権すらありません。上は豊かになる一方なのに、下は時代に取り残されているのです」


 糞尿の汚臭が漂う空気を吸い、怪物の死骸をかてとし、日の当たらない闇で生涯を過ごす――それを選んだのは住民自身だが、その存在を抵抗の声と共に封殺したのはブリギット政府だ。


 片や切り捨てられた棄民を主張する地下世界と、片や不穏分子に温情をかけていると主張する地上世界の間には、埋められない溝がある。


「僕は議員のお父上に見出され、学費を都合してもらえたおかげで大学に通えました。そういうわけで、ガブリフ家には大恩があります。だから薄給と長時間労働のうえ、後継者のご子息が女にちやほやされながら市長を目指す完璧な器でも、嫉妬せずに支えていこうと思うんです」


 言葉とは裏腹に、声は不満で溢れている。


 わざと秘書がおどけるものだから、ユウリスは遠慮せずに肩を震わせた。


 やがて暗闇の向こうに、篝火かがりびの明かりと鉄の柵が浮かび上がる。それは地下集落の入り口だが、見張りの気配が物々しい。


 ユウリスが挨拶すると扉を開いてはくれるが、返るのは無言の圧力だ。


 違和感の正体は、空洞に響き渡る怒号が教えてくれた。


「もう我慢ならねえ、俺たちは今日も蝙蝠や蛙を食わなきゃならねえのに、上の連中は浮かれてやがる。なにが収穫祭だ、つい先月に洪水の慰霊をしたばかりだろうが!」


「ボイド、いつまで我慢する。いまこそ全員で、地上の連中に思い知らせてやるべきだ。奴らがオレらを無視できないように、声をあげるべきだ!」


「武器を持ちましょう。舐められるわけにはいかない。レイン家を襲うのよ。ユウリスはあたしらの味方になってくれるでしょう。ねえ、ボイド。いつまで耐えるつもり?」


 数名の血気盛んな男女に詰め寄られて、ボイドが渋い顔で腕を組んでいる。


「一時的に混乱は引き起こせても、武力による蜂起に勝ち目はない。俺たちも、やり方は考えなければならん。俺たちは……ん、あぁ、ユウリスが来たか。それにダニーも」


 彼は、すぐに二人の訪問者に気づいた。


 ユウリスとダニーの姿を見た他の住人たちは、居心地悪そうに顔を背けてしまう。


 大きく手を叩いたボイドは、彼らに解散を告げた。


「お前らの気持ちはわかった。だが、衝動的に行動してもロクな結果にならない。俺もよく考えておく。とにかく、少し頭を冷やせ。ほら、ダニーが要望を聞いてくれる」


 すかさずダニーが声をあげ、必要な品の聞き取りをはじめた。慢性的に物資が不足している住人たちが、我先にと群がりはじめる。


 疲れたように眉間を拳で叩いたボイドは、ユウリスに目配せして集落の外れに呼び出した。


「悪いな、ユウリス。みっともないところを見せちまって」


「いえ、それよりさっきのは、レイン家を襲うって?」


「ああ、安心しろ、本気じゃない。毎年の恒例行事だ。収穫祭の時期は、上が賑やかだからな。若い連中は特に、鬱憤うっぷんが溜まるのさ。まあ今年は特にひどい。なまじ温泉なんざ手に入ったもんで、次はあれが欲しい、市にはもっと要求をすべきだって声が上がりはじめている。いや、これは君に聞かせる話じゃなかったな」


 首を横に振りながら、ユウリスの胸中には複雑な思いが渦巻いていた。


 地下世界に温泉をもたらした原因の一端は、自分にある。


 責任感に表情を曇らせる少年に、ボイドは弱ったなと頭を掻いた。


「いや、本当に気にするな。温泉のおかげで女は機嫌が良いし、病気も減った。サヤもはしゃいで――ああ、そのことで話がある。今日は、サヤを迎えに来てくれたんだよな?」


「はい、前から話していた通り、収穫祭へ誘いに来ました」


「悪いんだがユウリス、また後日に予定を空けてくれないか。あいつ、風邪をこじらせちまってな」


 サヤは昨晩から体調を崩し、まだ熱が下がらずにいるらしい。心配したユウリスが見舞いを申し出るが、顔を見たらぐずるから、とボイドは承知しなかった。


「せめて、なにかお土産を買ってきます」


「あぁ、助かるよ。よくなったら、また遊んでやってくれ」


 けっきょく次の約束はサヤの快復次第となり、ユウリスは回れ右でとんぼ返りした。

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