09 騎乗訓練
豊穣国ブリギットは他国に比べ、騎士の数が圧倒的に少ない。
盟主たるレイン公爵と、領地を統べる諸侯は
数々の
聖王国ダグザは法律で騎士の数を制定し、品格と軍律を保持している。
新興の新聖帝国エーディンは位を
しかしエーディンの例を除けば、騎士が
男が尊び、婦人は想いを馳せ、少年が焦がれ、吟遊詩人は語り継ぐ――そんな騎士の象徴こそが、馬である。
銀と馬を持たざる者、騎士に
そして誇り高い騎士に倣い、貴族や富豪の子女は乗馬を学ぶ。
騎乗は
「それなのにお前、なんで馬に乗れないんだ⁉」
アルフレドの悲痛な叫びが、雲のない
レイン家の義兄弟同盟が成された翌日、太陽が昇って間もない午前。
馬上槍試合の会場でもある東地区の国営乗馬公園で騎乗したユウリスは、ぎこちなく手綱を握り締めていた。
「馬って、けっこう揺れるんだな」
品種は隣国オェングス産のアルバス・ブレッド。
栗毛の
「旦那様、この馬は落ち着いているし、状態も良いわ。固いのは、貴方のほうよ。もっと肩の力を抜いて、この子の呼吸を聞いて。旦那様、聞いていて?」
ロディーヌの険しい目つきに晒されても、ユウリスには頷くのがやっとだ。
まるで馬に置かれた人形である。
走路を一周して戻る頃には緊張で背の筋が強張り、下馬と同時に転倒しかけた。早起きが苦手なリュネットがついて来ていたら、間違いなく嘲笑されたであろう光景だだろう。
そうでなくとも、アルフレドが苛立ちを
「ユウリス、いったいどういうことなんだ!」
「そんなに怒鳴らないで、アルフレドさん。旦那様もわかっているわ。いまは馬から下りたばかりですもの、少し休ませてあげて」
いまにも飛び掛らんばかりのアルフレドを、ロディーヌが
汗びっしょりで座り込んだユウリスは、暗い眼差しを芝に落としたまま顔を上げることもまならないほど気落ちしていた。
「想像の百倍難しい」
少し離れた場所ではランドロフが慣れた調子で馬の首を叩き、リジィは眠そうに欠伸をこぼしている。
木製の杯に水道水を汲み、ユウリスに差し出したのはミックだ。
「はい、ユウリス。水分補給はしっかりね」
涼やかな秋風が運ぶ
「ありがとう、ミック。生き返ったよ」
「冷たいから一気に飲んじゃだめだよ。でも、ちょっと意外だね。白狼様を従えているし、剣の腕だって道場の門弟なら五番手じゃん。運動神経は良さそうなのに、なんで馬は駄目なの?」
「ああ、うん、実は昔、落馬したことがあって……」
私生児であるユウリスも貴族の子女である例に漏れず、乗馬を学んでいた時期がある。
しかし馬が運悪く
聞き耳を立てていたアルフレドが、柵を何度も叩いて
「ああ、もう、この根性無しめ。リジィ、こういう馬鹿につける薬はないのか?」
「緊張を和らげたり、心を落ち着ける茶葉がある。今日のうちに摘んで明日、用意するね」
リジィ・オルキンは代々、薬師の家系だ。
次いでアルフレドは、馬と戯れるランドロフに試合で使用する槍の調整を命じた。父は鍛冶屋で、彼自身も
「ランディに作らせたのは、僕の手に馴染む槍だ。でも怪我のせいで、槍を扱うのは難しい。本当なら憎っくきメディッチ・アーデンは僕の手で倒してやりたかったが、その役はユウリス、お前に譲ってやる。槍は道場で鍛えてるし、屋敷の裏でこそこそ修練もしているんだから扱えるだろう?」
「じゃあ、馬に乗る訓練はしなくていいってこと?」
「馬鹿、するに決まっているだろう。後ろに乗るだけだってな、身体の動かし方がわからなきゃ槍なんか振るえるか、この役立たず。悔しかったら、さっさと乗りこなしてみせろ!」
唾を飛ばして怒鳴り散らすアルフレドに辟易としながら、ユウリスは視線を馬に移した。教えられた名前で呼びかければ、つぶらな黒い瞳が素直に返ってくる。
「見ているだけなら可愛いんだけどな」
ひひん、と陽気な嘶きが聞こえる。
馬に敵意はなく、むしろ怯える騎手に戸惑いを覚えているようだ。
「我ながら情けない、馬に気を遣われるなんて」
がっくりと肩を落としたユウリスの肩を、ロディーヌは労わるように撫でた。
「誰にだって
「ありがとう、ロディーヌ。それ、試してみるよ」
礼を告げたユウリスは、ゆっくりと腰を上げた。
せめて少しでも馬に慣れようと、ランドロフから
そんな
「このノロマ! 運動音痴! いまどき馬くらい初等部の子どもだって乗れるぞ! プークに呪いでもかけられやんじゃないのか!? あぁ、もう、アホ、ドジ、マヌケ!」
柵に寄りかかるロディーヌが、その光景を不思議そうに眺めていた。胸にわく疑問に首をかしげたキルデアの姫が、芝生に座り込んでいるリジィに疑問を投げかける。
「アルフレドさん、なんだかんだいって最後まで付き合うのね。怒ってすぐに帰ってしまうかと思ったわ」
「貴女と婚姻が成立したら、ユウリスはブリギットを離れるでしょう。アルフレドは、これが兄弟で過ごす最後かもしれないって思っているみたい。だから自分が捻挫して、ランドロフが出場を取り消されたとき、真っ先にユウリスの名前を口にしたの。喧嘩ばっかりで、仲は全然良くないけど、気にしているのは彼のことばかり。内緒よ?」
「安心して、口は堅いほうです。でも殿方って、どうして素直に手を取り合えないのかしら。お互い意地を張って、馬鹿みたいだわ」
我慢の限界に達したアルフレドは、ユウリスを追いかけて走りはじめていた。程なく、レイン家の
リジィは膝の上に頬を乗せ、想い人の背中を眩しそうに眺めた。
「悔しいけれどアルフレドがいちばん輝いてるのは、ユウリスと競っているときなの。男の子はたぶん、そういう相手がいないと成長できないんじゃないかな」
「そう言われてみると、旦那様もアルフレドさん相手だと少し口が悪くなっているかも……他の人には見せない素直な顔、なのかしら。妻としては嫉妬すべき?」
「どうかな。私は、アルフレドが楽しいならそれでいい」
はにかむリジィの横顔を、ミックが複雑そうな表情で眺めていた。実らぬ恋に肩を落とす広い背中を、ランドロフが軽快に叩いて慰める。
目敏く三角関係に気がついたロディーヌは、思い描いた
走路を一周したアルフレドとユウリスは、飽きもせずに怒鳴りあっている。
「このノータリンめ。いいか、ユウリス。馬上槍試合まで時間がないんだ。二日以内に馬を乗りこなせ。それができなきゃ槍の練習にも移れやしない!」
「しつこいぞ、アルフレド。やるさ、やればいいんだろう」
「できなかったらどうする?」
そこでアルフレドは、意地悪く笑みを浮かべた。
「お前が馬を乗りこなせなきゃ、レイン家の名誉は終わりだ。責任を取って、僕の言うことを何でも聞くと誓え。まさかそれくらいの覚悟も無しに、僕と肩を並べるつもりか?」
「いいさ、なら男の約束だ。でも俺がやり遂げたら、こっちの願いをひとつ聞き届けろよ!」
「な、なんでそうなる。僕にお前の言うことを聞けって⁉」
「それはそうだろう、まさか末来の公爵閣下が公平性を軽んじるのか」
「うっ、それは……い、いいだろう、言質を取ったぞ、ユウリス。期限内に馬を走らせられなきゃ、お前の末路はこうだ――死ぬまで一生、僕をアルフレド様と呼べ!」
罵りあう二人の後ろを歩く馬が呆れたように、ぶはっ、と重い息を吐いた。
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