05 収穫祭

 大陸では古くから、十という数字が神聖視されていた。


 一分は百秒、一時間は百分、一日は零時からはじまり、五時に正午を迎え、十時に終わり零時と重なる。一年も十ヶ月に区切られ、ひと月は三十日だ。


 天体と暦の齟齬そごを天文台が観測し、年末年始と春、夏に追加の日を調整し、休息日を設ける。


 また、ひと月の三十日も十日毎に初週、中週、終週と分かれ、各週の一日目と十日目は安息日として商売や家事が禁じられている。


 各週にも意味があり、初週は仕事に励む勤労の巡り、中週は隣人と家族に気を配る慈愛の巡り、終週は交渉や金策が盛んな安寧の巡りだ。


 収穫祭は中週、慈愛の巡りを通して開催される。


 安息日にかかわらず祭事の期間中は週を通して家事を禁じられるが、十日間も炊事洗濯を放棄できない事情があれば、日が隠れている間に手を動かすのが慣わしだ。建前上、太陽のもとでなければ規則の目は届かない。


 元を辿れば、日々の労働を忘れ、誰もが祭りに興じられるようにという趣旨で設けられた決まり事である。街の各所では芋粥や焼き魚が昼夜問わずに無料で提供され、食事に困ることはない。


 九月。


 慈愛の巡りの初日は、晴れ渡る快晴だ。


 建て替えられたばかりの市庁舎前でエイジス・キャロット市長が演説し、ブリギットは大きな歓声に包まれた。花びらが撒かれ、楽団の調べが風に乗り、商人が声を張り上げる――収穫祭のはじまりだ。


 ユウリスは市の東区を歩きながら、大道芸人が奏でる笛の音に心を奪われた。


 荒ぶ風を想起させる調べが、華麗な指遣いと呼吸で紡がれる。


 例年と比較すれば観光客は少ないが、それでも気をつけなければ通行人と肩がぶつかりそうなほど、市内は混雑していた。


 街の中央に向かうユウリスとは反対に、人の波は郊外に流れている。彼らの目当ては、流麗な稲穂の田園風景だ。


 皆が皆、普段着ではない上等な服に衣を替えている。


 祭りの最中は正装し、仮面を纏うのが風習だ。


 ユウリスもゆとりのある黒のスラックスに、薄紅の皮ベルト、袖の膨らんだ白いボタンシャツ、紐止めの茶色いベスト、先の尖った黒い紐靴を履いている。目元から鼻先を覆うのは、狼を模した白い仮面だ。


 祭りのあいだは、仲違いする者同士も酒を飲み交わす。俗世のしがらみを忘れ、大いに楽しまなければならない。


「帽子、家に忘れてきたのは失敗だったな」


 船乗りの唄を口ずさむ農民の列を避け、ユウリスは頭を掻いた。


 黒髪はブリギット人の特徴ではない。故に変装をしても、素性がすぐに知れてしまう。俗世を忘れよという慣例に従い、市民から向けられる敵意や蔑みは普段よりも少ないが、好奇の視線はその限りでなく、原因はユウリスの肩にしがみつく白猫の存在だ。


「へえ、これが最近のお祭なのね。街へ出たのは久しぶりだから、なんだか懐かしいわ。ねえ、坊や。見なさい、あの香ばしい串焼き。あたしを誘っているわよ!」


 リュネットが屋台の焼き鳥に目を輝かせ、脚をばたつかせた。ごうに入ればごうに従えと、彼女が被るのは黒猫の仮面だ。声を抑える気もないケット・シーに、すれ違う人々が怪訝そうに振り返る。


 いまの猫しゃべってなかったか、と声が聞こえるたび、ユウリスは肝が冷える思いだった。ねだられるまま串焼きを購入した少年に、かたわらを歩くロディーヌが鹿を模した仮面の奥で目を吊り上げる。


「私だって収穫祭は初めてなのに、なんで旦那様はこの猫を連れていらっしゃるの⁉」


 ロディーヌは赤いドレスに身を包んでいる。針金で膨らみをもたせたスカートに、金の刺繍ししゅうで描かれるのは、女神ダヌに仕える神々の印だ。胸元に海色の輝きを秘めた宝石のブローチ、腰には真珠を通した紐が巻かれ、袖口は垂れて広い。


「助けるのは仕方なく同意しましたけど、目当ての試合は六日も先でしょう!」


「それは、そうだけどさ。いっしょに来たいって言うのを、置いていくのも気が引けるよ」


 顔のすぐ真横で大口を開けるリュネットに焼き鳥の串を差し出しながら、ユウリスは頬笑んだ。


「太陽が苦手なブラムは寝て過ごすらしいから、リュネットだけを屋敷に残すのは可哀相だよ。ロディーヌはお姫様なんだから、お供がひとり増えてもいいんじゃないかな。それよりお祭りの服、すごく可愛いね。さっきからみんな、振り返ってる」


「な、なんですか、いまさら。褒めるなら着替えてすぐにしてください。まあ、旦那様がそういうなら、我慢してあげます。それに、みんなが振り向くのは猫のせいよ。貴女、少しは慎みなさい!」


「誰がお供よ、姫はあたしなんだからね。ねえねえ、あれ、あっちからも良い匂いがするわ。お魚よ、坊や。ほら、急がないとなくなっちゃうわ。早く早く!」


「ちょっと、旦那様の顔を叩かないでちょうだい。それに次は私の番よ。旦那様、向こうの広場に行きましょう。とても素敵な踊りよ、まるで不死鳥が舞っているみたい!」


 竜の牙を巡る奇妙な依頼。


 ユウリスは苦心の末、ケット・シーの願いを聞き届けると決めた。


 ロディーヌは反対したが、望まぬ婚姻を強いられる不幸は見過ごせない。自分の境遇と重ねたうえでの同情半分、妖精を危険な吸血鬼の動きを把握できるという打算もある。


 ブリギットの指環に関する情報も、もちろん必要だ。


「お祭りくらい、なにも考えずに楽しめると思ったんだけどな……」


 収穫祭のあいだは、ブラムとリュネットも同じ屋敷で過ごすことで合意した。


 護衛の名目で、ユウリスは白猫と寝床を共にする。ロディーヌと二人きりで万が一にも間違いを起こせば取り返しがつかないと気を揉んでいたが、これで問題のひとつは解決だ。


「旦那様、見て。長い楽器、まるで尻尾みたい。なにかしら?」


「坊や、オーモンの実よ、オーモンの実があるわ!」


 二人の花嫁に腕と髪を引っ張られているユウリスに、どこからともなく踊り子たちが群がりはじめた。若い女性たちは花の冠を被り、緑の衣装と驢馬ろばの仮面を纏っている。


 そのきらびやかな衣装に、ロディーヌが感嘆の息を吐いた。


「まるで妖精みたい!」


 髪の色ですぐにユウリスだと気づかれ、忌み子よ、と不安げな声も上がった。しかし多くの踊り子は気にも留める様子もない。


 少年少女を囲んで、妖精に扮した女性たちが楽しげに舞い踊る。


「仮面を被れば、今日は誰でもない!」


「それにユウリス・レインなら白狼様の加護があるかも」


「ユウリス君、こっち向いて、いっしょに踊りましょう!」


「あ、え、ええ、あたしだけ悪者じゃん。ごめんごめん、いっしょに踊ろう!」


「さあ、踊って踊って!」


「ユウリス君、隣の女の子は誰?」


「イライザからは何も聞いてないんですけど?」


 顔を隠しているので判別し難いが、踊り子の輪から八百屋の娘キャスと生花店の娘ターニアの声がする。どちらもユウリスの知り合いで、呪われた子供を忌諱するブリギットでも気さくに声をかけてくれる優しい女性だ。


 ロディーヌはムッとしたのも束の間、軽やかに四肢を伸ばして舞踏に興じる妖精たちにせられ、見様見真似みようみまねで足踏みをはじめる。


「ほら、旦那様も!」


 ロディーヌに促され、ユウリスも舞いを披露した。


「なんだか恥ずかしいな」

「キルデアの収穫祭は、もっと派手なんですから! これくらいで臆してもらっては困ります!」


 二人は石畳を踵で蹴り、両手を交互に広げ、気持ちよく身体を伸ばした。その足元ではリュネットが二足歩行立ち上がり、陽気に手を叩く。祭りの喧騒に紛れてしまえば、ケット・シーを見咎める者もいない。


 続いて楽団も現れ、即興の音楽が路上を舞台に変えた。


 周囲の人々も盛り上がり、手拍子と歓声が通りの隅々まで伝播する。


 踊り子たちが歌いはじめると、楽団の演奏も続いた。


 誰もが知るブリギットの童謡が満ちていく。



 稲穂はそよそよ、風の波

 レネル、ミャァミャァ、塀の上


 男はざくざく、土を掘れ

 女はことこと、鍋を煮ろ

 子供はせかせか、草を抜け


 お父ちゃんはどこだ、酒呑みだ

 がぶがぶ、ばくばく、酔っ払い


 お母ちゃんはどこだ、お茶会だ

 きゃーきゃー、わーわー、笑い声


 子供はどこへ行こうかな

 稲穂の揺れる先に行こう


 風の調べを地図にして

 丘を越え、山を越え、服を汚して冒険だ!


 らーらららららんらんららららーん。

 らーらららららんらんららららーん。



 稲穂はそよそよ、風の波

 ワオネル、キュゥキュゥ、森のなか


 草原たたたた、駆け抜けろ

 川をびゅんびゅん、ひとっ飛び

 お腹がぐうぐう、腹減った


 お菓子はどこだ、魔女の沼

 ざわざわ、ぐちゃぐちゃ、怖い音


 財宝どこだ 竜の山

 がおがお、わははは、怪物だ


 次はどこへ行こうかな

 稲穂の揺れる先に行こう


 風の調べを地図にして

 虹の彼方に旅立ちだ、宝がきっと待っている


 らーらららららんらんららららーん

 らーらららららんらんららららーん



 途中からは、誰かの替え歌が混じりはじめ、卑猥ひわいな調べを口にした酔っ払いの男が、女に平手をお見舞いされた。


 誰彼構わず酒を掛け合い、陽気に身体を揺らし、ときに悲鳴や怒号が沸いても、気がつけば笑い声に変わっている。


 騒ぎの中心から抜け出したユウリスたちは、静かな路地で一息ついた。


 頬を上気させたロディーヌが、目を輝かせて握り拳を振り回す。


 房毛の揺れもご機嫌だ。


「なにいまの、とっても素敵。みんなで踊って、歌って、耳が痛いわ。胸もすごくドキドキしているの。収穫祭って、こんなに盛り上がるのね。ねえ、見て、旦那様。山車よ、すごく大きい!」


 歌って踊る大通りを掻き分け、二階建ての家より大きな山車が抜けていく。そこに鎮座するのはユウリスの父でもあるセオドア・レイン公爵こうしゃくを模した、巨大なわら人形だ。荷台には人々が飛び乗り、代わりに降りる姿もある。


 大衆が藁に酒をかけ、むしり、あるいは殴りつける姿に、ロディーヌは唖然とした。


「あれ、セオドア様よね。あの、あんなに叩いたり、唾を吐いたり、平気なの? その、侮辱罪とか。そうでなくともセオドア様は人気の高い公爵だと思っていたのに」


「いいんだよ。あれは父上がはじめた行事なんだ。いくら支持が厚くても、不満がないなんて不自然だって。収穫祭の間は、各地区が公爵の藁人形を作って街中をまわる。文句がある人は、山車を公爵だと思って好きなだけ非難していいんだ」


 仮面を被っている間は、世俗を忘れても良い。


 ブリギットを治める太守を相手にしようと、誰でもなければ罵詈雑言ばりぞうごんも罪には問えない――それがレイン公爵の言葉だ。最終日にはセント・アメリア広場で山車を燃やして、日々の鬱憤も同時に消し去る。


 人の心は単純ではないが、権力者の公認で不満を吐き出せる場は市民の心を幾分か晴れやかにした。


「自分の悪口をぶつける日を作るなんて、セオドア様はすごいのね。ねえ、旦那様。もしも貴方が公爵の座を継いでも、同じように山車を許せる?」


「――――えっ」


 思いがけない質問に、言葉が詰まる。ユウリスは長男だが、私生児だ。義母が起こした裁判の結果、家督相続権は兄弟姉妹のうちで最下位と決められている。


 繊細な問題に触れたと気づいたロディーヌは、顔色を変えて謝罪した。


「ご、ごめんなさい、私、興味本位で聞いていい話じゃなかったのに……」


「ああ、いいんだ、俺こそ変に気を遣わせて、謝るよ。公爵になるなんて考えたこともなかったから、ちょっと驚いた。今まで聞かれもしかなかったし、余計に」


「でも実際、坊やの気持ちはどうなのよ。なれるかなれないは別として、公爵の座に興味はあるの?」


 ケット・シーが二人の会話に割って入り、少年の肩に飛び乗る。


 ユウリスは困ったように頬を掻き、しばらく呻いて沈黙した。目の前で意気消沈するロディーヌには申し訳ないが、そこまで深刻には考えていない。ただ上手く言葉が見つからず、返答に窮しているだけだ。


「選べる立場にあっても、俺は辞退すると思う。公爵の仕事が大変だって、間近で見て知っているから。お金があっても贅沢をする暇なんかないし、ひとつ判断を間違えば大勢の人生を狂わせる。特にブリギットみたいな大都市だと四六時中、気が休まらないよ」


 本心では、興味が無いという一言に尽きる。ただロディーヌは、トリアスの爵位継承をユウリスに望んでいる。今回の婚姻を未だに納得していない少年だが、当人の前で表立って拒絶するのは躊躇ためらわれた。


 収穫祭を楽しんでいる少女の表情を、これ以上は曇らせたくはない。


 そんな彼の気遣いを察して、リュネットが助け舟を出した。


「坊やってちょっと抜けているし、確かに公爵は務まらないわね」


「でも旦那様、キルデアはブリギットほど難しくありません」


「そうだといいけど。あと、無理して畏まった話し方をしなくていいからね。夫婦になるかは別として、友達にはなりたいと思うから、普通に話そうよ」


「こ、これは癖なの!」


 それでもユウリスの配慮は嬉しくて、はにかんだロディーヌが慌てて頷いた。二人の世界に浸る少年と少女に、リュネットが前脚をばたつかせて抗議する。


「あー、もう、ほら、いつまで立ち話すればいいのよ。議論ばかりしていたら、日が暮れてしまうわ。次はあたしの番よ、あたしの! 坊や、オーモンの実を買ってちょうだい」


「あ、待ちなさい、リュネット。私の番がいつ終わったのかしら?」


「なら二人の番にしましょう。お嬢ちゃん、オーモンの実は嫌い?」


「それは――もちろん大好き。旦那様!」

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