17 悠久幻影霊廟の戦い

「ヘイゼル、どこ?」


 義妹いもうとは、すぐそばにいた。


 階段の手前、手すりの前で身を屈めている。呼びかけに振り向いたヘイゼルは、静かに、と唇に指を立てた。


 頭上で、床板を乱雑に踏む足音。


 こそっと二階の廊下を除くと、そこに不規則な動きの人影がある。明かりがないため、全容は判然としない。しかし稲光がはしると、おぞましい姿があらわになった。


 腐敗してただれた死体。


 ≪レヴェナント≫。


「ミアハの人形は危険だ。聖女の短剣は俺が預かる。ヘイゼルは戻るんだ」


「だめ」


 少女の肩まで伸びた金髪は、断固拒否の意思表示で左右に振り乱された。


「ヘイゼル」


「だめ」


 頼みの綱である短剣を抱えた少女が、不満そうにユウリスを見据える。睨みあいは短く、ヘイゼルは首を伸ばして囁いた。


「ほかのひとには、使えない」


 使えない――聖女の短剣は、ヘイゼル以外には扱えない。


 その事実自体を疑問視するユウリスだが、鼻の穴を膨らませた義妹に主張を譲る気配はなかった。舞踏場ぶとうばからは激しい戦闘音と悲鳴が届く。


 悩む時間は、あまりない。


「……それなら」


 折よく階上の怪物が遠のいたのを見計らい、ユウリスは片手を伸ばした。


「試すよ。剣を貸して」


 義兄あにの要求に、ヘイゼルは渋い顔で応えた。


「でも……」


「取り上げたりしない、約束するよ」


「すぐ、返してね」


 不承不承ふしょうぶしょうに差し出された短剣――それを握った瞬間、ユウリスは膨大な力の脈動に溺れた。


「なっ!?」


 産毛が逆立ち、目が冴える。


 鞘から刃を抜き放てば、すべての障害は無意味だ。


 全能を手にした錯覚、そして暴力の衝動が脳髄のうずいを駆け巡る。


「やっぱりだめ。ユウリスには無理」


 ヘイゼルが伸ばした指先をかわすように膝を伸ばして、ユウリスは短剣を引き抜いた。光輝く刃は、眩くも目に優しい。神々しい白の光が視覚を通じ、純然たる破壊の衝動が心に訴えかける。


 消してしまいたい者の名は?


 ユウリスの心は、一瞬にして殺意の虜となった。


 義母ははが嫌いだ。


 義母は自分を家族と認めず、義弟との差を見せ付ける。


 あんな女はいなくなればいい。


 義母はどこだ?

 神聖国ヌアザにいるはずだ。

 ならば行こう、障害も諸共もろともに排除できる。


 嫌なものは潰え、望まないものは灰燼かいじんす。


 殺せ。殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ――その歓喜に震えた。


 義母を殺せる。邪魔な存在を抹消できる。


 瞳孔を見開き、口角を吊り上げ、いびつな愉悦が胸の内から溢れだす。


「ユウリス、だめ!」


 刹那、ヘイゼルが飛びかかり、ユウリスの手に噛みついた。


「痛っ!?」


 思わず聖女の短剣を落としたユウリスの視界が、ぐるちと暗転した。


 殺意の情動が、き物が落ちたように退いていく。


「なんだ、これ……俺、いま、なにを?」


 ユウリスは鞘を投げ捨て、両手で胸を押さえながら屈み込んだ。


 胸の激しい動悸。

 意識を染めた殺意に、自分で自分が恐ろしくなる。

 あまりのおぞましさに、全身の震えがとまらない。


「は、ちがう、いまのは、俺じゃ、ない――俺じゃ、俺じゃ、俺、なのか?」


 気持ち悪い。

 醜い欲望が、身体を支配していた。

 脂汗が額に滲み、呼吸もままならない。


 視線を逸らすと、短剣はヘイゼルの手で鞘に封じられた。


 聖女の刃が見せた幻覚――ではない。隠れていた本性が、炙りだされた。義母を憎んだことは、一度や二度ではない。目を背けていた、理性の裏に潜む恐ろしい獣。それがいま、確かに目を醒ましたのだ。


「ヘイゼル――」


「大丈夫だよ、ユウリス。平気、平気、落ち着いて」


 聖女の短剣が宿す力について、ヘイゼルも理解は及んでいない。ただうずくまるユウリスの頭を両腕で抱え込み、そよ風のような手つきで撫で続けた。


「大丈夫だよ、大丈夫」


しかし事態は切迫している。


 舞踏場からの悲鳴と、≪レヴェナント≫の雄叫びが途絶えることはない。


 ユウリスは礼を告げて、身体を起こした。


「ありがとう、少し落ち着いた。それより――」


 クマのぬいぐるみと、そして聖女の短剣を抱えるヘイゼルに目を細めて、ユウリスは問いかけた。


「それ、ヘイゼルは平気なの?」


「うん、声が欲しがるものはないから」


 声が欲しがるもの――殺意の対象。


 なるほど、とユウリスは得心した。


 聖女は慈愛と清貧の体現だ。

 憎しみに駆られず、穢れない者だけが強大な力を自在に操る資格を持つ。


「俺には無理、そういうことか……」


 ユウリスは捜し求めていたブリギットの剣こそ、義妹の手に握られた聖女の短剣だと確信した。同時に、その恐ろしさに身震いもする。


「こんな力が悪人の手に渡ったら――」


「ユウリス、急がないと」


 考えたいことは山ほどあるが、躊躇ちゅうちょしているあいだにも事態は悪い方向へ流れている。ヘイゼルの言葉に頷き、ユウリスは腹を括った。


 闇祓いの作法が封じられたいま、切り札は聖女の短剣だ。

 それを扱える者は、この場にひとりしかいない。


「わかった、行こう」


 ヘイゼルの帯同を認めて、ユウリスは通路の先を見据えた。


 眼前の階上には、短剣の光を嗅ぎつけた怪物が徘徊している。暗闇に包まれた通路を、慎重に先に進んでいくしかない。次の階段を探すのだ。


「ユウリス、おじいちゃんが家にいたころを覚えてる?」


「ああ、うん。なにが言いたいかわかったよ。確かに、夜にお爺様と遭遇するの、怖かった。あれに比べたら、≪レヴェナント≫なんてなんともない」


 一寸先は闇。

 しかし≪レヴェナント≫と遭遇する恐怖も、義兄妹なら乗り越えられる。


 二つ目の階段は、すぐに見つかった。窓に面しているおかげで視界は開けるが、陰影と稲光が不気味さを演出する。


 動く死体の姿はない。


「俺が先に登る。安全の確保ができたら呼ぶから、ヘイゼルは少し待っていて」


 旧ドナ邸は十数年前に放棄されて以降、満足な整備を受けていない。どれだけ気遣っても、足を下ろすたびに木材の呻く声が響いてしまう。


 些細ささいな音が怪物の耳に届かないよう切に願いながら、呼吸すらも殺して階段を上がる――その先で、うごめく姿。同時に、吐瀉物としゃぶつに似た悪臭。


「…………っ」


 雲と地上の隙間に生まれた放電が、窓から差した。その光が露にするのは、成人男性の≪レヴェナント≫だ。変色した黒い血に汚れた屍人は、遅れて届いた音の衝撃に反応し、爪を立てて乱暴に壁を叩いていた。


 階段を上がりきる寸前で足を止めたユウリスは、まだ気付かれていない。


「だめだ、この階段は使えない」


 身を屈めたまま、そっと下へ戻ろうとしたユウリスの尻を小さな手が押し留めた。ぎょっとして振り向いた先では、ヘイゼルが肩を震わせながら首を左右に振っている。


 ぎし、と床板の軋みが同時に二つ。


 ひとつはすぐ間近に迫る男の≪レヴェナント≫が動き出した音で、階段とは反対の方向へ足を向けたようだ。


 もう一つは階下、暗闇のなかを彷徨う、別の屍人――ユウリスは喉まで込みあげた悲鳴を、両手で必死に押さえつけた。


 見間違えるはずはない。


 階段の手摺に鼻を寄せているのは、病院の受付から中庭まで襲撃を受けた、女の≪レヴェナント≫だ。聖水によって受けた負傷には、まだ再生は及んでいない。全身は焼け爛れ、歯茎はぐきは剥き出しに、本来あるべき場所に眼球がなかった。執拗に、鼻腔が動いている。臭いを辿っているのだ。


 二人は目線を交わし、呼吸を潜めて階段に足をかけた。

 ほんのわずかな足音が命取りになるとわかっていれば、嫌でも慎重になる。


 ヘイゼルの動きは雲のように軽く、動作の痕跡は空気を震わせない。


 だが問題はユウリスだ。


 どうしても体重をかける瞬間、ブーツの底から木材の吐息がこぼれる。それを≪レヴェナント≫は聞き逃さない。たった一歩、段差を上がった刹那に、屍人は髪を振り乱して頭上を仰いだ。


 眼球を失った両目の空洞が、ユウリスを捉える。

 女の≪レヴェナント≫が、音と臭いを頼りに階段を上がりはじめた。


「――――!」


 不意に胸元のブローチを外したヘイゼルが、それを一階の通路に投げ捨てた。床に打ち付けられた硬質の反響に、≪レヴェナント≫が飛びつく。


『うわあああああああああああああああああああああああああうううううう!』


 屍人は四つん這いで床を徘徊しながら、唸り声を上げて獲物を探しはじめた。自分のつま先で蹴飛ばしたブローチを追いかけて、≪レヴェナント≫が暗闇の向こうへ遠ざかっていく。


 ユウリスは義妹の機転に感謝しながら、稲光の轟きに紛れて二階へ辿り着いた。


 ここで階段は途切れているが、屋敷は三階建てだ。最上層へ上がるには、別の階段を探すしかない。進む先はひとまず、男の屍人が去ったのとは反対の方向だ。


「よくあそこで、物を投げるなんて思いついたな。ヘイゼルはすごいよ」


 ユウリスは緊張をほぐすように笑いかけるが、ヘイゼルは恥ずかしそうにするばかりで答えてくれない。そのまま可愛らしい顔を、くまのぬいぐるみに顔を隠してしまう。


「あれ、パッフィ。もしかしてヘイゼルは照れてる?」


 屈み込んだユウリスの鼻っ柱を、クマのぬいぐるみが手で乱暴に叩いた。パッフィに人形の支配が及ばないのは、ヘイゼルが聖女の短剣を所持しているからだろうか。そうでなければ今頃、死体の群れに囲まれているはずだ。


「とにかく助かった。パッフィ、あとでヘイゼルにたくさんお礼を言おうね」


 二人は探索を再開した。

 暗黒を分け入るたび、屍人の恐怖にさいなまれる。


 ユウリスは中腰で義妹の肩に腕をまわし、祈るように先へ進んだ。


 やがて通路の曲がり角。

 窓はなく、僅かな外の色も届かない、光から隔絶された空間。


 闇を見るたびに吐息が震え、背中が砕けそうな緊張がはしる。


 腐臭が鼻腔びこうにこびりつき、怪物がそばにいるのか、遠くから漂うものかを判断もできない。


 身体を強張らせながら、ユウリスは角の向こうへ首を伸ばした。


 いない――本来ならば安堵を声にしたいところだが、それは憚られた。


 同時に複数のけたたましい足音と、鼠の鳴き声。不運な齧歯類げっしるいの断末魔が、≪レヴェナント≫の狂った咆哮に呑みこまれていく。ヘイゼルは、生理的な嫌悪感を必死で押し殺していた。白くなるほど引き結んだ唇を、パッフィの頭にうずめてじっと耐えている。


 最上階へ続く道は、曲がり角の先に伸びていた。


 階段の手前で屈み込み、まずは≪レヴェナント≫の気配が間近にないことを確認する。複数の屍人の呻きは、まだ遠い。


 乾いた唇を舌で湿らせ、ユウリスは義妹が手にする聖女の短剣を見据えた。


「ミアハの人形がどの階にあるか、確かめないと――ヘイゼル、抜ける?」


 光る刃の輝きが頭上で増せば、異界化の元凶は上層だ。

 微弱に収まるようなら、二階を探す必要がある。


 どちらにせよ、怪物は剣の気配を嗅ぎつけるはずだ。


 ユウリスは呼吸を整え、神経を研ぎ澄ませた。

 柄に手をかけたヘイゼルが、すらりと短剣を引き抜く。


「聖女様、どうか力を貸して」


 硝子の刃の内側から、源泉げんせんのように溢れる清純な白光。


 闇を裂さかず、灯すのでもなく、ただ育まれる優しい煌き。


 聖女の代役が腕を高く伸ばすと、道は示された――すべての元凶は三階。

 同時に、飢餓きがに悶える雄叫おたけびと、迫る複数の足音。


「気付かれた、ヘイゼル!」


「みんな、聖女様の優しさが羨ましいのね」


 ブリギットの短剣が放つ力は、怪物を引き寄せる。


 短剣を鞘に納めようとしたヘイゼルの手を、ユウリスが制止した。そのまま義兄妹きょうだいは手を取り合い、無我夢中で階段を駆け上る。


 当然、敵が待ち構えていると思われたが、上層に≪レヴェナント≫の姿はない。しかし階下には屍人しびとが群がり、互いを掻き分けながら我先にと這い上がろうとしている。


「ヘイゼル、走って!」


「どこへ⁉」


「聖女の光が導くほうへ、ここまで来たら行くだけだ!」


 二人は悪夢に背を向け、廊下を駆けた。

 短剣の光源が導くのは通路の先、他の部屋より大きな扉。


 勢いのまま、ユウリスは戸を蹴破った。


 そこは絢爛豪華な調度品が並ぶ応接間だ。風もなく揺れるシャンデリア。厚い絨毯を這う毒々しい節足動物。火の女神ブリギットを描いた絵画に突き刺さる、十数本のナイフ。


 そして白い革張りのソファに置かれた、人形。


「お前が、ミアハの人形!」


「ユウリス、あれは人形じゃない。怖いものが、なかにいる!」


 クマのぬいぐるみよりもひとまわり小さな、童女の人形だ。


 金の刺繍が施された、赤の生地の着物、紺の帯び。あでやかな黒髪、白い肌。紅を引かれた唇が、醜悪に嗤った。


 両の口角は耳までつりあがり、紡がれるのは鈴の鳴るような声。



 生きてる人形、生き人形。

 私は人形、あなたの人形。

 蹴鞠けまりをもたせてくりゃしゃんせ。

 はいよはいよと抱きあげて、良い子、良い子と撫でりゃんせ。



 全身の産毛が逆立つ感覚に、ユウリスは戦慄した。


 目を覆いたくなる、禍々しい気配。

 理性が拒絶を命じても、心が惹かれてしまう。

 破滅に焦がれ、死に傾倒する、黒い誘惑。



 生きてる人形、生き人形。

 私は人形、あなたの人形。

 蹴鞠をもたせてくりゃしゃんせ。

 はいよはいよと抱きあげて、良い子、良い子と撫でりゃんせ。



 ミアハの人形は、人形故に自らは動けない。


 唄を媒介に異界を浸透させ、≪レヴェナント≫を操り、恐怖をあおり続けた。しかし獲物が自らの足で姿を現したのなら、力を仲介する必要はない。


 積年の怨嗟と焦がれ続けた想いが交錯して、ユウリスを支配する。

 少年の唇が自然と開き、唄を紡ぎはじめた。


「生きてる人形、生き人形。私は人形、あなたの人形。蹴鞠をもたせてくりゃしゃんせ」


「ユウリス、だめ!」


 ヘイゼルの訴えが、ユウリスの胸を揺さぶった。


「ユウリス!」


「へい、ぜる……?」


 ユウリスの本能が、警告を発した。


 呑まれてはいけない。


 しかし脳が判断しても、身体の自由は利かない。

 闇祓いの作法すら、土壇場どたんばで見失ってしまう。

 頭ではわかっていても、体の自由が利かない。


 少年の唇は、唄を紡ぎ続ける。


「はいよはいよと抱きあげて、良い子、良い子と撫でりゃんせ」


 人形の目つきが、愉悦に満ちて孤を描いた。


「ユウリスを操らないで!」


 ヘイゼルは意を決し、短剣の鞘を投げ捨てた。

 異界化の支配すらもはね返す清廉せいれんな刃が、光彩を増して奇跡を体現する。


「この光なら!」


 勇気を振り絞って、ヘイゼルは短剣を突きだした。


 ミアハの人形に立ち向かう、小さな聖女。


 しかし健気な少女の身体を、悪意に操られたユウリスが背後から羽交はがい絞めにする。


「ユウリス⁉」



 生きてる人形、生き人形。

 あなたは人形、私の人形。

 血肉をいでくりゃしゃんせ。

 目玉をき髪抜いて、ぜんぶ、ぜーんぶ寄越よこしゃんせ。



「生きてる人形、生き人形。あなたは人形、私の人形……ああ、やっと会えた。もう離さない。私とあなたは、ずっといっしょ。私は人形、生き人形。あなたの人形、私は人形」


 ユウリスはうわ言のように繰り返しながら、片腕でヘイゼルの身体を押さえ込み、もう片方の手で腰の短剣を抜いた。


 その切っ先が狙う先を、唄が導く。


 館にはびこる、死の空気。

 喪失を恐れ、身近な不幸を厭い、闇を忌諱きいする心。

 あらゆる拒絶は恐怖に繋がり、人形のかてと化す。


 ユウリスは抗えない、避けられない。

 圧倒的な異界化は尚も進行し、闇祓いの力は完全に封じ込められた。


 ――ヘイゼル、逃げて。


 レインに死を。


 ――闇祓いの作法に従い!


 女神の恩恵は届かない。


 ならば脅威を乗り越える手段は、死の先にしかない。


「血肉を削いでくりゃしゃんせ。目玉を刳り貫き髪抜いて」


 もがく心を、邪悪な思念が嘲笑あざわらう。

 さらに、腐臭が増した。


『ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!』


 背後に迫るのは、血肉を求める屍人の群れ。

 人形からこぼれる狂気の哄笑。


 ヘイゼルは目に涙を滲ませ、ユウリスの名を何度も叫んだ。


 窓を叩く激しい雨は容赦なく、雷鳴は無慈悲に、闇のなかに希望は費え――いや、聖女の短剣だけは、未だ暗黒に屈することなく。


「ユウリス、お願い、目を覚まして!」


 ヘイゼルの切なる願いが、ユウリスの動きを一瞬だけ鈍らせた。それは聖女の恩恵であり、義兄妹きょうだいの絆が起こした、最後の奇跡。


「ぜんぶ、ぜーんぶ寄越――せ、る、かッ!」


 ユウリスの短剣が、勢い良く振り抜かれた。


 きつく目を閉じたヘイゼルの瞼に、生温かい、粘ついた感触が広がる。少女の頭上からこぼれる、かすかな嗚咽おえつ


「え……?」


 見開かれた少女のあお双眸そうぼうに、自分の胸に刃を突きたてたユウリスの姿が映る。彼はたちまち≪レヴェナント≫の手に引かれ、床に引き倒された。


「いや、やめて!」


「ヘイゼルっ!」


 自分を助けようとする義妹いもうとを、ユウリスは混濁こんだくする意識のなかで制止した。


 行け!


 そう口にしたつもりの声は、四肢に喰らいつく屍人の咆哮に呑み込まれてしまう。≪レヴェナント≫の歯に肌が裂かれ、死に身体が犯されていく感覚。人形の唄が恍惚こうこつと、惨劇をあおるように唄い続ける。



 生きてる人形、生き人形。

 私は人形、あなたの人形。

 蹴鞠をもたせてくりゃしゃんせ。

 はいよはいよと抱きあげて、良い子、良い子と撫でりゃんせ。



「パッフィ、力を貸して!」


 涙の筋を残して、ヘイゼルは前を向いた。


 クマのぬいぐるみをきつく抱きしめ、唇を引き結ぶ。


 両手で握った短剣の切っ先を人形に定め、少女は真っ直ぐに突進した。つんと鼻が曲がりそうな腐臭に混じる、生々しい血の香り。


 ユウリス、ユウリス!


 兄の名を胸中で何度も叫びながら、永遠に感じる短い距離をひた走る。


 レインに死を。


 歪んでもなお、明眸皓歯めいぼうこうしな人形の笑み。


 すべてを奪ったレインに、報いを!


 人形の長い髪が浮き立ち波打ち、無数の黒い手が虚空に召喚された。


 精気を渇望かつぼうする魑魅魍魎ちみもうりょうの指先が、ヘイゼルに絡みつく。希望の剣を手にした少女は、あと一歩のところで及ばない。



 生きてる人形、生き人形。

 あなたは人形、私の人形。

 血肉を削いでくりゃしゃんせ。

 目玉を刳り貫き髪抜いて、ぜんぶ、ぜーんぶ寄越しゃんせ。



 人形の髪が、触手のように伸びてヘイゼルの首に絡みついた。


 怨霊にとって聖女の光は猛毒だが、押さえ込むのは一瞬で構わない。幼子の骨を砕くなど造作もないと、人形は首を傾げて愉悦に浸る。


 苦悶に呻くヘイゼルの手から、力が抜け落ちた。


「……ユウ、リス」


 あなたのものじゃない。


 否定を紡ぐのは、人形の思念。

 同時に、ユウリスの魂が呼び声を上げる。


 ――ヘイゼル!


 その瞬間、聖女の光が義兄弟きょうだいの心を繋ぐ。


 全身の肉を食い千切られたユウリスが、最後の力を振り絞って顔を上げた。


「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」


 人形の意識がヘイゼルに逸れたことで生まれた、僅かな隙。


 内にくすぶる破邪の力は、死を前にして距離を縮めた。

 高潔なる魂の叫びが、蒼い炎を呼び覚ます。


「闇祓いの、作法に、した、がい――!」


 焦げ茶色の瞳が、群青に塗り変わる。

 全身に燃えあがる蒼白の光。


 破邪の閃光に怯えた屍人が、恐れ慄き後じさる。


 ユウリスは膝立ちになり、胸の短剣を引き抜いた。血塗れの刃を、力強く引き絞る。本能的に連想したのは、ウルカの駆使した飛ぶ斬撃だ。


 地下迷宮の死闘が脳裏に蘇る。

 刃から伸びる、蒼い閃光の記憶。


「≪ゲイザー≫を、舐めるな!」


 ユウリスの刃が、虚空を薙いだ。


 刀身から解き放たれる、闇祓いの波動。蒼白の衝撃が絨毯を切り裂き、人形へ波及する。そして鮮やかに伸びた破邪の閃光が、ヘイゼルに絡む髪と魑魅魍魎をまとめて断ち切った。


「ヘイゼル!」


 その呼びかけに応えるように、ヘイゼルが勇ましく喉を震わせた。


「うわあああああああああああああああああああ!」


 ヘイゼルは、果敢に聖女の短剣を突きだした。人形の着物を裂き、その胸元に硝子の刃が吸い込まれていく。その瞬間、傀儡くぐつに宿る怨霊が愉悦の表情を驚愕に変え、金切り声を上げた。


『いやあああああああああああああああああああああああ!?』


 刃が突きたち、人形に亀裂がはしる。

 刺さった裂け目から、傀儡の内側に注がれていく純然たる光。

 それは夜明けのように溢れだし、まばゆく室内を満たしていく。


「あなたは悪い人形よ!」


 ヘイゼルの気迫に気圧されるように、凍てついた異界が崩壊をはじめた。


 人形の支配を失った≪レヴェナント≫が、聖なる光芒こうぼうを恐れるように逃げ惑いはじめる。そのけたたましい足音に、屋敷が揺れ、軋むように悲鳴を上げた。


 聖女の短剣が放つ光が、世界を真っ白に染め上げる。


 輝きのなかで、ユウリスは見た。


「ミアハの人形が……」

 

 おぞまじい悪意も、聖なるぬくもりには抗えない。


 人形が塵となり、消失していく。


 ユウリスは霞む視界のなかで、ヘイゼルの勇姿を最後まで見届けた。人見知りで、臆病な性格を案じていたが、もう心配はない。レイン家の女は、みんな強い。


「自慢の義妹だ」


 そう頬笑んで、ユウリスは意識を手放した。



 唄はもう聞こえない。



 ヘイゼルは短剣を鞘に納めると、辺りを見回した。

 屍人の姿はどこにもなく、これまでの騒動が嘘だったかのように屋敷は静まり返っている。


「ユウリス、終わったよ」


 ユウリスに寄り添いながら、ヘイゼルは囁いた。


 雨は上がり、窓からは太陽の光が差しはじめる。


 ただ虹色の煌きに、漂う黒いもやがあった。

 それは聖女の短剣に貫かれる寸前、人形から脱した思念の残滓ざんし



 唄はもう聞こえない。



 ヘイゼルは傍らにクマのぬいぐるみを置くと、自分の膝にユウリスの頭を乗せた。夜色の髪に指をき、汗に汚れた頬を愛おしそうに撫でる。


 人形の思念は、その隙を突いてパッフィの黒い目に入り込んだ。



 唄はもう聞こえない――唄はもう、必要ない。


 ヘイゼル・レイン、お前に決めた。

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