11 人形の警告
オリバー大森林の立ち入りは、あっさりと許可された。異界化事件の調査を請け負う彼女は、公爵の命令で自由な行き来が保障されているらしい。衛兵とも顔見知りで、気さくに挨拶を交わしている姿がユウリスには新鮮だった。
「ウルカ、≪レヴェナント≫はどういう怪物なの?」
「教会の分類では≪アンデット≫、広義の意味では≪ゴースト≫だ。腐りかけた肉体が、生前の強い未練に支配されて起き上がる。死者を揺り動かす強い思念は、たいがい恨みや執着心だ。とりわけ≪レヴェナント≫は、他殺の被害者であることが多い」
「
「そうだ。スコットの遺体を調べれば、≪レヴェナント≫の痕跡も見つかるだろう」
ユウリスは難しい顔で首を捻り、眉間に皺を寄せた。
治安の良いブリギットでも殺人は珍しくない。あるいは戦争まで考えれば、戦士の多くは恨みを抱えて命を落とすだろう。
「殺されたそばから起き上がられたら、いまごろ世界は≪アンデット≫だらけじゃない?」
「≪レヴェナント≫を含め、≪アンデット≫の自然発生は本当に稀だ。多くの条件が揃い、初めて死体の起き上がりは成り立つ。一介の女が蘇った理由については正直、私も疑問を感じている。≪リッチ≫の件もある。
忌まわしい死霊の王が脳裏に想起して、ユウリスは無意識に胸を握り締めた。市庁舎占拠事件で殺されかけた経験は、夜毎の悪夢として心を
「あんなのとやり合うのは、もう勘弁してほしいけど……」
死霊使いも気にはなるが、≪リッチ≫の話題を避けるように、ユウリスは他の疑問に言及した。
「アイータが≪レヴェナント≫になってスコットを殺したのなら、復讐は遂げられた。スコットは可哀相だけど自業自得。アイータの怨念は晴れて、魂はティル・ナ・ノーグへ還る。それでめでたしめでたしにはならないの?」
「話はあとだ。霊薬の痕跡と衛兵の矛盾、嫌な予感がする。まずは霊薬の
ウルカの深憂にまで、ユウリスは理解が及ばない。気持ちは自然と、森の景観に向いた。闇祓いを志す契機となった、深緑の霊場。木漏れ日は穏やかで、目に優しい。
「ここに来るのは、春先以来だ」
季節を問わず、オリバー大森林の
「ウルカはよく来ているんだよね?」
「最近はそうでもない。事件の調査は正直、行き詰っている」
「異常がわからない?」
「すべてが異常だ。正常なものを探すほうが難しい」
木の実を頬張る小動物が枝にぶらさがり、そよ風に揺れる緑は熱波を遮ってくれる。夏場でも日は優しく、空気は清涼だ。しかし鮮やかな光に比例して陰影も濃く、鳥の鳴き声が途絶えた瞬間に胸を突くような哀愁が過ぎる。形のない物悲しさが、心の隙間を冷たく抜けた。
「≪レヴェナント≫はここに、なにをしに来たんだろう?」
「復讐を果たした≪レヴェナント≫は、次に墓を暴いて死肉を貪る。遺体に強い未練が残留していれば、それは魔力だ。糧とする代償に、今度は他人の復讐を請け負う」
「自分と全く関係ない、他人の恨みを晴らすの?」
ウルカは首肯した。
しかし≪アンデット≫の活力となりうる怨念は、決して多くはない。通常は二、三体の死体を喰らい、≪レヴェナント≫は力尽きる――しかし彼女の説明には、腑に落ちないことがある。ユウリスは疑問を噛み締めるように呟いた。
「エルウッド通りから一番近いのは、オリバー大森林の慰霊墓地だ。だから≪レヴェナント≫はここへ来た――いや、でも待って。ウルカ、ここには新しい死体なんてない!」
オリバー大森林の慰霊墓地には、大洪水の被害者が葬られている。災害から三十年以上が経過した現在、一般の亡骸は市外の墓地に葬られるのが慣例だ。そもそもダーナ神教では火葬が義務づけられている。肉のある遺体が収まる棺は存在しないはずだ。
「≪レヴェナント≫が知らずに来たのだとしたら、食べる死体がなくて倒れたかな?」
「どうかな、≪アンデット≫の活動限界は個体差が激しい。数時間か、あるいは数日か」
「なんか悠長に聞こえる。ウルカは別の可能性を考えているみたい」
「この森は
「怪物と妖精の対決なら、好きにやらせておけばいいんじゃない?」
「
「異界化――」
ユウリスは自然と、胃が重くなるのを自覚した。
異界化の記憶。
平穏な日常が黒い悪意で爛れる感覚。魂の熱を奪う冷たい空気。時計の針が止まり、空は凍りつく。伝承が物語る闇の眷属が降臨する、悪夢の世界。影の国の戦いから四ヶ月が経ついまも、思い返すだけで胸が苦しくなる。
刻まれた忌まわしい記憶は、忘れたくても脳裏から離れない。
「あれが、また起こる?」
「許容を超える力が、理を壊す行為に耽り、世界から内と外を隔てる境界が消える――それが異界化だ。怪物や妖精、彼らは私たちの住む内の理ではなく、外の理に生まれる。この世界こそ、彼らにすれば肩身の狭い異界そのものだ。壊すことに
まるで神話の裏話を聞いている気分だが、話は長く続かない。
道の先で、景色が開けた。
広く切り拓かれた森の中腹に建ち並ぶ、無数の墓石。かつて街を呑み込んだ大洪水のあと、心優しいオリバー少年が死者の安寧を祈り、建立したと伝わる慰霊墓地だ。
「そういえば影の国の戦いで、教会が壊れたんだ。気絶しているあいだに、直ってたけど」
「異界も
「夢、か。じゃあ都合の良い世界なんだね。だから≪ジェイド≫は――あ、煙が、消えた?」
紫煙は霊園の入り口で途絶えていた。
そして参道の終着点には、木の人形が転がっている。赤い服を着た、子供の玩具だ。関節が動く仕組みで、糸で吊るせば操り人形にもなる。
「ユウリス、後ろの二人も、動くな」
ウルカは一行を片手で制し、人形に近づいた。腰から小瓶を取り出し、中身の聖水を振りかける――と、人形が赤紫に変色し、ひとりでに動き出した。立ち上がり、関節を鳴らしながら、踊るように蠢く。
ぎょっとして剣を抜く警官二人を庇い、ユウリスは前に出た。
「ウルカ、これは――」
「すぐに終わる。だが、問題は解決していない。くそ、私が一杯食わされた。敵はどうやら、≪レヴェナント≫以外にも存在する。死霊使いのやり口でもない。未知の、敵がいる」
人形は青い炎に包まれ、消し炭になるまで踊り続けた。
聖水は、教会が聖別した祝福の水だ。人形に振り掛けた聖水の反応は、邪悪な意思の存在を暗喩する。ウルカは群青の瞳で霊園と礼拝堂を見渡し、激しく舌打ちした。見る限り、他に悪意の鼓動は感じない。
「ユウリス、教会から消えた人形の話に進展は?」
「俺のところには何もきてない。それよりウルカ、≪レヴェナント≫は?」
「ここにはいない。霊薬が惑わされた。いま燃え尽きた人形が、囮の役割を果たしていたようだ。だが≪レヴェナント≫にできる芸当じゃない。≪ゲイザー≫の手の内を知って、先手を打ってきたようだ。確か、その人形には闇祓いも歯が立たなかったらしいな」
「まさか、関係しているの?」
「確証はないが、こういう星廻りは繋がるものと相場が決まっている。厄介だな、≪リッチ≫を超える強敵だ。あのアホヒゲが無能でなければ、私が自由に動ける時間は少ない」
「ウルカ、それってどういう――」
ユウリスの
「馬の蹄……音が大きい、なんだ!?」
振り向いたユウリスは、銀の
先頭を走るのは領邦軍の指揮官、ウィリアム・アーデン将軍だ。
「アーデン将軍、どうして⁉」
参道は馬車がすれ違える程度には広い。
騎馬隊は瞬く間にユウリスたちを取り囲み、抜き身の剣を掲げて静止する。目つけの警官二人も動揺し、背中合わせにぐるぐると旋回していた。包囲の外側から、黒い毛並みの馬に跨る壮年の男が近づく。長槍を携え、片目に深い傷跡を刻んだ赤毛の男。
彼は
「ブリギット領邦軍のウィリアム・アーデンだ。≪ゲイザー≫のウルカ、あんたを
挑発的な将軍に対し、ウルカはあっさりと投降の意を示した。以前は警官隊に囲まれても躊躇わずに剣を抜いたが、今回は従順だ。
両手を上げる彼女の潔さをユウリスは訝しみ、アーデンはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「なんでえ、物分りがいい。ユウリス坊ちゃん、安心しな。保護留置ってのは逮捕じゃねえ。拘留先もレイン家の屋敷だ。馬車を用意してある、さっさと乗ってくれ」
「アーデン将軍、その坊ちゃんってやめてください」
「ハハハハ、嫌なら力ずくで止めさせてみるかい、坊ちゃん?」
なんなんだこいつは、と顔をしかめるウルカに、ユウリスも視線で、こういう人なんだよ、と返した。結果的に、馬車で護送されたのは幸運だった言える。
ほどなく、ブリギットを激しい夕立が襲った。
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