08 守るべきもの


「ウルカ、時間をかけすぎたね」


 ユウリスは握った拳を高く掲げると、どうだ、と言わんばかりに血だらけの歯を見せて笑った。白狼が喜色を隠そうともせずに、尻尾を振る。


 ……、……!


 ウルカは呆然として、剣先を落とした。闇祓いの光が消える。≪ゲイザー≫としての仕事を完遂できなかった悔しさは、不思議と沸かない。それからウルカは目元を緩め、小さく首を振った――そこに洞窟の奥から、カーミラの悲鳴が響き渡る。


「カーミラ⁉」


 息を呑んだユウリスが、真っ先に踏み出した。しかし満身創痍の身体はすぐに崩れ、傾く身体を白狼の背が受け止める。ユウリスを背負ったまま駆けはじめる魔獣のかたわらに、ウルカが併走した。


「ウルカ、まだチェルフェを――」


「黙っていろ、馬鹿弟子。お前が私を退けてまでやり遂げたんだ、これ以上の犠牲をだすわけにはいかないだろう!」


 真っ直ぐなウルカの言葉が、ユウリスの胸を締め付ける。ありがとう、と口にしたつもりだが、のどかすれて言葉にならない。闇の先へ進むたび、肌を刺すほどに凍えていた空気が徐々に引いていく。心地よい暖かさだが、急な気温の変化に身体が追いつかない。


「寒かったり暑かったり、なんか忙しい洞窟だな……」


 白狼の背に乗っているだけのユウリスですら汗ばみ、ウルカも額を拭っていた。誰よりも辛そうなのは北国育ちの白狼で、だらしなく舌をのばして呼吸も荒い。


「クラウ、俺は置いていって、先にカーミラを――」


「いや、もうすぐだ!」


 水の気配が薄れ、代わりに硫黄のつんとした臭いが強くなる。辿り着いたのは、湯気の立ち昇る地底湖。広大な半球形の空間の天井には、青い光を降らせる鉱物がいくつも埋まっている。


 そして沸騰した地底湖からは、巨大な赤の上半身が伸びていた。


 ユウリスが呆然と呟く。


「あれが、チェルフェの――」


 赤銅の竜だ。


 岩肌のような赤い鱗、黒く窪んだ目に浮かぶ赤と金の瞳。大理石のような光沢を放つ爪には、サヤが連れていたチェルフェの幼体が抱えられている。巨躯は地下都市で眠っていた百眼の巨人より更にひとまわり大きく、牙の隙間からは絶えず火が漏れている――親のチェルフェは、壁際で寄り添うカーミラとサヤをにらみつけていた。


「角がない。めすだな――≪マザー・チェルフェ≫とでもいうのか」


 ウルカが巨大な怪物に顔をしかめる。


 マザーは、エルフ語で母という意味だ。


 白狼の背から崩れるように下りたユウリスは、膝立ちで≪マザー・チェルフェ≫をじっと見上げた。


「チェルフェのお母さんか」


 赤い鱗に覆われた表情は無機質にも見える。しかしカーミラとサヤへ向けられた瞳に宿るのは、憤怒の色に相違ない。ユウリスは咳き込みながらも、必死に声を張り上げた。


「チェルフェ! 俺達は子供を返しに来た、それだけだ!」


 ユウリスに気付いたカーミラが、表情を明るくしたのは一瞬のこと。瀕死の姿に衝撃を受け、両手で口元を覆う。赤毛の少女から向けられる殺気を無視して、ウルカは火竜の幼体に目を細めた。


「ユウリス、あの傷は――?」


 チェルフェの小さな身体に、皮膚の剥がされた痛々しい痕。襤褸の布は、すでにほどけてされており、密猟者が鱗をがした傷に、痛々しく血肉が脈打っている。ユウリスが事情を説明していると、カーミラがサヤの肩を抱いて駆け寄ってきた。


「ユウリス!」


 もはや生傷のない箇所を探す方が難しいほど負傷した少年に、カーミラがたまらず抱きつく。倒れそうになるユウリスの身体を、やれやれ、と呆れたように白狼が支えた。


「ユウリス、ユウリス、ユウリス!」


 カーミラのくぐもった声が鼓膜を揺らす。彼女の髪は、地下世界の冒険でずいぶんとくたびれていた。ユウリスの指が、手櫛てぐしを入れるように赤毛を撫でる。


「追いついたよ、カーミラ」


「ばか。心配したのよ、本当に。こんな姿になって。あの女、絶対に許さない。わたしがユウリスを守れるくらいに、もっともっと強くなってやるんだから」


「いまでもカーミラのほうが、ずっと強いと思うけどな」


 しかし少年少女の甘い時間を、怪物は待ってくれない。湯の湖に飛沫を上げて、≪マザー・チェルフェ≫が動く。一箇所に固まったユウリスたちへ向き直り、獰猛どうもう雄叫おたけびを響かせた。


『ギャオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!』


ウルカが緊張した面持ちで、先頭に立つ。剣を中段に構える彼女に、ユウリスが手を伸ばした。


「ウルカ、待って――」


「これも前に言ったはずだ。いつか選ばなければいけないときがくるとな。いまは私が背負う。お前は、そこで見ていろ」


「お願いだ、ウルカ。ここまで、来たんだ。それが、こんな結末なんて……っ!」


「ダメよ、ユウリス。こんな傷で動いたら、本当に死んでしまうわ」


「おにいちゃん、ち、いっぱい。だめだよ、もういいよ、すごく、がんばってくれた。いっぱい、がんばってくれたから、もう、いいよ!」


 鼻水をすすりながら、サヤが目をうるませた。ユウリスは自分の無力を痛感する。守りたいと願う者に気遣われ、諦めさせてしまった。これでは未熟どころか、ただの自己満足だ。


「くそっ、どうして俺は、こんなときに立てないんだ!」


「ユウリス、お願い、いまはあの女に任せて!」


 カーミラを突き離し、ユウリスは立ち上がろうと踏ん張った。しかし膝が笑って、脚を伸ばすこともできない。


「くそ、動けよ、立て、立て、立ってくれ!」


 ユウリスは不甲斐なさに震えながら、握った拳で太股を叩いた。その動作すら緩慢で、痛みすらも感じない。せめてなにかできることはと、二人の少女に視線を定める。


「カーミラ、サヤ。チェルフェの母親が怒っているのは、あの傷のせい?」


「最初からもう、興奮していたわ。それでもサヤが差しだした子供を、あの大きな爪で受け取りはしたの。でも手当した布が、母親の息で吹き飛ばされて――傷を見たら、すごく怒り出して」


「チェルフェがいたくて、おかあさん、おこってる。でも、あたしたちのせいじゃないの、わかってくれない」


 ≪マザー・チェルフェ≫の下顎が動き、巨大な口内が晒された。硬質な牙の奥で、業火が渦巻く。ウルカが剣を握り直す音が、ユウリスの耳をひどくざわつかせた。彼女の体内で、破邪の力が高揚するのを感じとる。


「でも、これは……!」


 闇祓いの道を歩み始めたからこそ、ユウリスにはわかる――足りない。≪マザー・チェルフェ≫の放つ熱量に、ウルカは及ばないと確信してしまう。


「ウルカ、その腕じゃ無理だ。逃げよう。あの大きさなら、洞窟までは追ってこられない!」


「私たちが逃げるより、怪物の炎がこの空間を蹂躙じゅうりんする方が早い」


「でも、ウルカだってそんなのどうしようも――」


「私が!」


 ウルカが毅然きぜんと、ユウリスの不安を断ち切る。≪マザー・チェルフェ≫の口内で膨れ上がっていく熱が、周囲の温度を上昇させる。目を開けているのも辛くなる、膨大な熱波。霞む視界のなかで、肩越しに振り向くウルカの表情は不敵な笑みに彩られていた。


「私が、お前を不安にさせたことがあるか?」


怪物の群れを抜け、子供たちとの戦いを経てもなお、ぴんと伸ばされた彼女の背中――そこに疲労の色は微塵も感じさせない。実際は片腕も含め、相応の負傷にあえいでいるはずだ。そうとわかるユウリスですら、彼女に希望を抱かずにはいられない。


「この身が怪物に屈する姿を、想像できるものならばしてみるがいい」


 ウルカの凛々しい姿に、ユウリスは心からの羨望を覚えた。


「私が剣を抜けば、それは怪物にとって冥府めいふの扉が開いたのと同義だ。お前は家に帰ってからの心配をしろ。私を侮ったんだ、普段の折檻せっかんを倍にしてやる、められるのは大嫌いだ」


「ウルカ、俺は……」


「情けない声を出すな。この場で剣を握れないことは、誰もいないときに悔やめ。立つことはできなくても、守るべき者に弱さを見せるな。そこの二人が頼りにしているのは、私ではないだろう」


 ユウリスの服に、少女達の指がしがみついていた。熱にうなされて呼吸を乱し、震えて座り込む姿。


「カーミラ、サヤ」


 呼びかけながら、二人の手を握る。カーミラは安心したように表情を和らげた。怯えたサヤは、首に飛びついてくる。ユウリスの髪を尻尾ではたいた白狼が、あとは任せろと、金色の瞳が告げた。


 クラウがウルカの傍らに並び立ち、牙を剥く。


「クラウ――!」


 ユウリスの呼びかけは、業火のうねりに掻き消された。≪マザー・チェルフェ≫の口内から、いよいよ解き放たれようとする灼熱の嵐。ウルカが闇祓いの力を剣に宿らせ、白狼が無音の咆哮を上げる。


 そこで、爪に抱かれたチャルフェの幼体が、泣き喚くように鳴いた。


『キュィィィィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ!』


 さらに、火竜の子供が吐きだした火炎の螺旋が、母親の頬を焦がす。


『キシュウウウウウウウウウウウウウ、キィキシュウイイイイイイイ!』


『ガウ――――――――!?』


 わが子から放たれた突然の焔に、≪マザー・チェルフェ≫がたじろいだ。その瞬間を見逃さずに飛びかかろうとした白狼とウルカに、ユウリスの手が伸びた。白い尾と霊薬が揺れるベルトを力強く掴んで、二人を何とか引き留める。


「ま、待って。落ち着いて。ウルカ、クラウも。あれ、見て」


 小さなチェルフェが母親の爪でじたばたと暴れている。


 ≪マザー・チェルフェ≫の火種は、すでに縮小していた。しかし子の訴えにも聞く耳を持たず、≪マザー・チェルフェ≫の憎悪は依然として人間に向けられたままだ。豪腕を振り上げた母親の注意を戻すように、小さな竜は懸命に熱波を放出した。


 その様子を固唾を呑んで見守っていたユウリスのズボンを、控えめに引く気配がある。次の瞬間、カーミラが驚いたよう目を丸くし、サヤは明るく声を弾けさせた。


「ワオネルだあ!」


 ワオネル。


 キュイキュイ、と可愛らしい声がした。


 まさか、と思ってみれば、ユウリスの脚にワオネルの長い手足が絡みついている。どこからか集まってきた、十数匹のワオネル。一匹のワオネルが長い手を伸ばし、少年の腰に吊るされた巾着を叩いた。中にあるギルムの実は、この愛くるしい小動物の大好物だ。


「どうして、ワオネルがこんな地下にいるんだ……って、ああ、わかったから、剣には触らないで。これ、さっき交換してもらったものなんだぞ?」


 食いしん坊のワオネルが、ユウリスの腰に飛びつく。ベルトや短剣、ズボンも引っ張られると、もう降参するしかない。見れば、≪マザー・チェルフェ≫も戸惑うように動きを止めていた。


「ほら、あげるから離れて、お願い!」


 巾着の中身を地面にばら撒くと、ギルムの実を求めて縞模様の手が我先にと群がった。そして固い殻を岩盤に叩きつける音が、合奏のように響き渡る。しばらくすると香ばしい種の香りが漂い、子供たちの腹も同時に空腹を訴えた。


 危険に晒されていることも忘れ、ユウリス、カーミラ、サヤは思わず笑いあう。


 そんな三人へ、ワオネルがギルムの種を差しだした。遠慮がちに受け取ったユウリスの髪を、ウルカが乱暴に撫でる。


「まったく。ここまでどんな冒険をしてきた?」

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