10 アルフレドとナダ


「ナダ!」


「え、あら、ユウリス君。やだ、私のこと覚えていてくれたのね。カーミラお嬢様もお久しぶりです」


 驚いた女性――ナダが顔を上げる。一ヶ月前、怪物の毒に侵されたユウリスを処置してくれたのが彼女だ。カーミラも顔見知りのようで、頬笑んで応える。


「あのときは、ほんとうにありがとうございました」


 ユウリスが片手を差し出すと、ナダは快く握手に応じてくれた。


「ああ、でもいいところに来てくれたわ。ボイドに聞いたかしら、サヤが――」


「大丈夫だよ、ナダ。俺もこれから探しに行く。そのあいだ、悪いけどアルフレドをお願い」


「ああ、よかった。あの子、本当にユウリス君の話ばかりするのよ。貴方が迎えに行ってくれたら、サヤも素直に帰ってくるわ。ボイドはすぐに怒鳴るから」


 ナダが視線で、穴の出口に佇むボイドを非難する。彼は顔をしかめて鼻を鳴らした。そこに別の女性が運んできたのは、赤い液体の浮かぶ薄汚れた小皿だ。眉を寄せるカーミラに、ユウリスが霊薬だと説明する。


「色は違うけれど、俺も解毒剤で似たものを飲んだよ。効果は折り紙つき」


「でも、あの色は何とかならないのかしら。普通のお薬もそうだけれど、もう少し飲み易い形状や味にしてほしいわね」


「ブレイク商会でそういう薬を売ればいいのに」


 ユウリスとカーミラは顔を見合わせ、アルフレドの災難を小さく笑った。


「ちなみに味は、アルフレドの反応をお楽しみに」


 小皿を受け取ったナダが、痛み止めの薬だと説明する。しかし、その液体を口元にあてがわれたアルフレドが腕を乱暴に振るった。


「こんなもの!」

「きゃっ!?」


 短い悲鳴と、陶器の割れる音が響き渡る。諌めようとしたユウリスの声を、義弟の癇癪かんしゃくが呑み込んだ。上半身を起き上がらせたアルフレドが、ナダへ威圧的な眼差しを向ける。


「アルフレド――!」


「うるさい、うるさい、黙れ黙れ、だまれえ! 変なもの飲ませようとしやがって、なんなんだよ、お前ら! 臭いし、汚いし、風呂にも入らない浮浪者の薬なんか飲めるか! もしも僕が死んだから、どう責任をとってくれるんだ!」


 しまった、とユウリスは自身の迂闊を悔いた。アルフレドには旧下水道の住人達について、なにも説明をしていない。義弟の性格を考慮しなくても、この場所は日常からは切り離された特殊な環境だ。


 ボイドがこめかみをひくつかせ、表情を険しくする。


 ナダは耐えるように、じっと俯いていた。


 アルフレドの暴言は留まることなく、ユウリスが伸ばした腕も弾かれる。


「僕はアルフレド・レインだぞ! ブリギットの次期領主なんだ。僕の身になにかあってみろ、お前らなんか領邦軍が一網打尽にして――」


 次の瞬間、カーミラの平手打ちが放たれた。アルフレドの頬が、乾いた音を響かせる。振り抜かれた腕の力強さは、気絶した彼を起こしたときの比ではない。寝違えるように曲がった彼の首と、見る見るうちに腫れ上がる頬。


「……カーミラ?」


 アルフレドが滲ませた涙は、しかし正面のカーミラを見てすぐに乾いた。彼女の目は叩かれた本人以上の熱を帯び、瞳の虹彩が霞むほどに潤んでいる。


 そうして紡がれる声は感情を抑えるように酷薄で、突き放すように。


「アルフレド。あなたはこの人たちが、どうしてここに住んでいるかなんて知りもしないでしょう。それはいいの、みんなが秘密にしていることだから。でもアルフレドがもし、なにも知らないから今みたいなことを言っていいと思っているのなら、わたしはあなたを軽蔑するわ」


「か、カーミラ、僕……」


「ユウリスに意地悪はするし、いつも威張り散らして、子分を連れていい気になっているあなたが大ッ嫌い。それでも、友達だとは思っていたのに」


 アルフレドが表情を凍らせた。助けを求めるように視線をさまよわせるが、誰もなにも発しない。カーミラの肩は震えていた。呼吸も荒い。ユウリスからは彼女の表情こそ見えないが、その背中はひどく寂しそうに見える。


 ひとつ、ふたつと落ちていく雫が、少女の赤い靴を濡らす。


「あなたがナダにしたことを後悔していないのなら、もう絶交よ、アルフレド。さようなら」


 カーミラは目元を袖で拭うと、そのまま踵を返した。穴から出て行ってしまう彼女に、ユウリスは呆然として手も伸ばせない。


 静観していたボイドが、吐き棄てるような言葉を残して去っていく。


「アルフレド・レイン。次期公爵か。ユウリス、君が妾腹の子であることを心から残念に思うよ」


 いつものアルフレドなら、顔を真っ赤にして怒声を上げるところだ。しかしいまは悄然として、反応すらしない。カーミラのことは気になったが、ユウリスは先にナダへ寄り添った。おそるおそる肩を抱いて、ごめん、と謝る。アルフレドが義弟であること、地下で暮らす人達について説明をしていなかったことを伝え、理解を求めた。


 ナダは顔を上げると、困ったように表情を和らげてくれる。


「ユウリス君が謝ることじゃないわよ。でも確かに、あの薬は色もアレだしね。びっくりさせちゃったか。驚かせてごめんなさいね、アルフレド君」


 助けようとした相手から、心無い言葉を浴びせられたナダ。彼女の心は想像よりもずっと傷ついているだろうと、ユウリスは胸を痛ませた。


「ナダ……」


「もう、そんな顔は禁止!」


 それでもナダは大人だった。

 そしてアルフレドも、それがわからないほど愚かではない。


「その、僕こそ、ごめんなさい。あんな振る舞いは、するべきじゃなかった。いまさら取り消せないだろうけど……」


「いいわ、許してあげる。カーミラお嬢様には、悪いことしちゃったわね。でも、絶交なんて嘘よ。あの子、優しいもの。いまみたいにちゃんと謝れば、きっと仲直りできるわ」


「そんな簡単に、許してもらえない。いや、カーミラじゃなくて、その、ナダ、さんに。僕は、ほんとうに、とんでもないことを」


「そう思うなら、いつか恩返しをしてちょうだい。そうね、公爵様になった暁には、ここへお風呂でも引いてほしいな。待っているからね。臭いとか、気にしてないわけじゃないのよ?」


 ナダの気遣いに、アルフレドが唇を強く噛む。義弟の目頭からぼたぼたと熱いものが落ちるのを、ユウリスは見ないように顔を背けた。涙に暮れる少年の背中を、ナダが優しくさする音だけが柔らかく耳に届く。


 ユウリスはなんでもない風に声をかけた。


「アルフレド、地上に戻るにはまだ時間がかかる。脚、そのままにして悪化したら大変だ。それこそ適切な治療もしなかったなんて、ここの人たちが言いがかりをつけられるかもしれない。大丈夫、薬に毒はない。なんなら俺が先に一口飲んで、証明する。だからいまは――」


「ちゃんと飲むよ、ユウリス。それよりカーミラを追いかけてくれ」


「……ひとりで平気か?」


「僕はアルフレド・レインだぞ。お前みたいな甘ちゃんとは違うんだ――いや、悪い。ほんとに、お前にしか頼めない。僕、カーミラを泣かしちゃった」


「わかった、カーミラは任せろ。ナダ、薬をもう一回だけお願い。次はちゃんと飲むから。サヤも、ちゃんと探してくれるよ」


「ええ、私は大丈夫よ。カーミラお嬢様に、ありがとうって伝えておいてね。よろしく、ユウリス君」


 ユウリスは振り向かないまま、手探りに伸ばした拳でアルフレドの胸を叩いた。ナダの厚意に心から感謝しながら、横穴を出る。視線をさまよわせる必要もなく、カーミラは入り口のすぐ真横に佇んでいた。白狼の背中を所在なさげに撫で、しょげている。


「カーミラ」


 ユウリスが姿を見せると、彼女は鼻水をすすった。赤くした目元を袖で拭い、遅い、と唇を尖らせる。


「アルフレド、ちゃんとナダに謝ったよ」


「聞こえてたわよ。ああ、なんだか今日は泣いてばかり。しょうがないから、絶交だけは勘弁してあげる――アルフレド、いい子にしてなさいよ。戻ってきたら、いっしょに帰ってあげるわ。あと、あなたが駄目にした薬、ここでは貴重品なんだからね! 覚えておきなさい!」


 カーミラは一方的に穴のなかへ声を届けた。アルフレドの返答は待たず、ユウリスの手首を掴んで歩き出す。向かう先では、ボイドを含めた数人が深刻にサヤの行方を案じていた。そのなかのひとりが、白狼様だ、と一人が声をあげた。


 カーミラが物怖じせず、堂々と割って入る。


「ボイド、お話中に失礼。先程は連れが騒がせてごめんなさい。サヤのこと、聞かせてくれるかしら?」


「ああ、カーミラお嬢さん。サヤのほうは、少し面倒なことになっている」


 それから言い淀むような仕草を見せると、ボイドはちらりとユウリスを見た。しかしすぐにカーミラへ向き直り、腰を折って懇願する。


「カーミラお嬢様、手間をかけて申し訳ない。どうか娘を助けるために力を貸して頂きたい」


「気にしないで、お互い様よ。アルフレドも、あんな奴だけれど友達なの。面倒を頼むわ」


「ああ、気に食わんガキですが、レイン公爵のご子息だ。悪いようにはしません」


「ありがとう。さあ、時間が惜しいわ。まずは情報の整理ね。もう一度、順を追って話してちょうだい?」


 発端は道すがら聞いた通り、ボイドの娘サヤが怪物の子供を匿っていたことからはじまる。


「サヤはここ何日か、自分の朝食を服の下に隠して出かけることが多かった」


 ボイドも気づいてはいたが、あえて追及はしなかった。食べ物が満足に行き渡る環境ではない。心優しい娘のことだから、他の子供にでも分け与えているのだろうと黙認していた。


 しかしそれが何日も続けば、心配にもなる。


「今朝、サヤを尾行したら洞窟で怪物に餌を与えているのを見つけてしまって……」


「それで思わず怪物を殺そうとしたら、サヤに逃げられたのね?」


「ええ、それからサヤは一度、地上へ逃げたらしいのです」


「地上へ?」


 カーミラが意外そうに瞬く横で、ユウリスは不意に嫌な予感に襲われた。


 シオン自然公園の傍で起こった、火事騒ぎだ。


 密猟者に捕まっていた怪物が、火を吐いたのが原因だったはずだ。現場からは、身なりの悪い幼女が逃げたとも聞いた。


 そしてボイドは、サヤが連れている怪物の子供が、火を吹いたと証言している。


「だが、けっきょくは地下へ戻ってきたらしい。地震の少し前、この集落の南側でサヤを見たという仲間がいた。ただ南側と言っても広い。手分けして探している最中に、お嬢たちと遭遇したわけです」


「でも、わたしたちはサヤを見ていないわ。洞窟はもう片方にも続いていたから、そっちのほうかしら?」


「どうですかね。時間的に考えても、お嬢様たちより先に進んでいるとは考えにくいんですが……」


 ユウリスは白狼へ視線を向け、洞窟で進路を決めたときのことを思い返した。白狼に他に人の気配があったかと尋ねると、相棒は首を横に振る。まるで言葉が通じている様子に、下水道の住人たちが驚嘆した。


 ボイドが脂の浮いた顔を指で何度も擦り、南側は調べ尽くしたのだと嘆く。


「もうほとんどの道を調べたが、サヤはまだ見つからない」


「ほとんどってことは、全部じゃないのよね。わたしたちが進んできた通路以外に、まだ調べていない場所があるってこと?」


「ええ、ひとつだけ調べていない道があります。占い師が言うには、サヤはそこへ逃げたらしいのです」


「占い師ですって!?」


 あからさまに胡散臭そうな声を上げるカーミラに、ボイドは生真面目に頷いた。彼以外の住人も、同じく占い師を信任している様子だ。


 占術師に依存する彼らに、カーミラは信じられないばかりに表情を歪ませた。


「じゃあ地震のことも、その占い師が事前に教えてくれたのかしら?」


「……いや、そういわれると、そんなことはないですが」


「大丈夫かしら、その占い師?」


 責め立てるようなカーミラに、ボイドが困り顔で頭をかいた。


 そこで不意に、煉瓦の地面を叩く音が響き渡る。

 集落の者たちが少しだけざわめいて、一斉に振り返った。


 片脚を引きずり、杖をついた壮年の男が近寄ってくる。鳥打帽から伸びる、白髪の交じった紫の長髪。伸ばし放題の無精髭。襤褸ぼろ外套がいとうを纏った長身の男が、億劫おっくうそうに低い声をこぼす。


「俺の噂かい。まあ、情報は確かだよ。サヤちゃんは、例の地下へと潜った。形跡から見るに、迷ったわけじゃあない。まっすぐに進んでるよ。だが、早く連れ戻したほうがいいよ。相変わらず、あそこはやばい臭いがプンプンとしやがるからね」


「あなたが占い師?」


「そう呼ばれちゃいるが、べつに占いばかりするわけじゃないね」


 ユウリスはそこでハッとした。


 以前にこの集落を訪れたとき、ウルカはここに闇祓いがいる可能性を示唆した。アルフレドが服用した霊薬は、基本的に≪ゲイザー≫が精製するものだ。


 その答えを得る方法は難しくない。

 ユウリスは占い師の足元へ視線を移した。篝火に照らされた男の足元に、影はなかった。


 その視線に気付いた男が、無造作に人差し指を振る。


「坊や。誰にでも秘密がある」


「え……あ、はい。カーミラ、この人は信用できると思うよ」


「なに、どういうこと?」


 怪訝そうなカーミラに、どう納得してもらうのがよいか。困ったときの癖で、傍らの白狼へ助言を乞うように顔を向ける。しかし魔獣は占い師と視線を交わしていて、すぐには気付いてくれなかった。


「クラウ?」


 どこか緊張した空気を孕んだまま、白狼が占い師から意識を外した。


「おや、フラれてしまったかね」


 占い師は自嘲するような笑みで、首を左右に振った。

 不思議そうに瞬くユウリスの前で、ボイドが真っ青な顔を両手で覆う。


「まさか、本当にサヤがあんな場所へ――」


「落ち着いて、ボイド。わたしたちがサヤを連れ戻すわ。そうよね、ユウリス」


「え、ああ、もちろん。俺も闇祓いである前に、サヤの友人です。どこにいるのだとしても、必ずあの子を助けてみせる」


「ああ、すまない、こんなことを年端もいかない君に、頼んでもいいものかわからないが――」


 ボイドが沈痛そうな面持ちを向けた先は、カーミラではなくユウリスだった。


 父親が娘の危急を告げる。


 サヤが足を踏み入れたとされるのは、地下に住む人々すら立ち入らない怪物の巣窟だ。ブリギット建国以前から存在する、ドワーフの遺跡。旧下水道の更に下層。ボイド達は畏敬の念を込めて、その地下世界をこう呼んだ――スットゥング地下迷宮と。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る