06 レイン家の醜聞
「実はユウリスに話があった。ここで会えたのは
「俺に――?」
キーリィが話を続ける前に、正面へさっと片手を上げる。彼の従者がジョッキを抱えて戻ると、ユウリスが立ち上がって人数分の杯を受け取った。ひとつ余分なジョッキは、従者自身のものだ。議員のお供がジョッキを煽りながら馬車へ戻る姿を見送り、ユウリスは感心した。
「キーリィは部下を大切しているんだね」
「ああ、飲み物か。私は当然だと思うが、貴族のお歴々は良い顔をしないね。教会法で奴隷制度が撤廃されて久しいというのに、彼らの従者に対する態度はひどく前時代的だ」
「レイン家を訪れる諸侯も、従者を玄関先に放置するなんて当たり前だよ。でも食事や水をあげても文句を言うわけじゃないから、関心がないのかな。レリンのいい香りだ、いただきます」
全員分を配り終え、ユウリスは杯を煽った。仄かな甘い香りが気分を和らげ、酸味のある清涼な水が喉を潤してくれる。白狼のジョッキは、芝生の上に置いた。
「白狼、キーリィがお水を買ってくれたよ」
「このワンコ、コップじゃ飲めないんじゃないかしら?」
飲みやすいようにとカーミラが屈んで傾けようとするが、白狼がその手を前脚で叩いた。そして自らの肉球で挟んで杯を前へ倒し、舌を伸ばして水を味わいはじめる。気遣いを踏み
「ユウリス、このワンコ、可愛くない!」
「ワンコ呼ばわりするからだろ。それでキーリィ、俺に用って?」
「この和やかな空気なら話やすいな。ユウリス、実は君について調べてみた。忌み子のユウリス。僕も噂には聞いていたが、実際にどんな凶事があったのかは知らなくてね。これは、カーミラお嬢様の前で続けてもいい話かな?」
自分の噂話を調査されたことに驚いたユウリスは、キーリィの問いかけに反応するのが少し遅れた。代わりにカーミラが、当たり前でしょう、と語気を荒くして答える。白狼が興味深そうに顔を上げると、そのしぐさはキーリィが驚いた。
「この魔獣は人の言葉がわかるのかい?」
「たぶん、しゃべれないだけで普通に理解してると思う」
「議員、ワンコのことはいいから話をしてくださらない?」
「ああ、失礼。君たちの周りには、個性的な顔ぶれが多いな。さて、ユウリス。君の出生について、おさらいをしようか」
そしてキーリィは、十五年前の出来事に言及した。
まずはユウリスの父であるセオドア・レイン公爵の動向だ。
結婚後、数ヶ月で懐妊した妻を置いて、セオドア・レイン公爵はブリギットから国外へと旅立った。市の公務記録には神聖国ヌアザへの召喚に応じたとある。しかし公爵は、そのまま夫人の出産時にも戻ることはなく、長姉イライザが産まれてから数ヶ月を経て、赤子のユウリスを連れてブリギットへ帰還した。母親については一切語らず、ただ自分の子だと宣言してレイン家の籍へ名を連ねたのだ。
「この時はずいぶんと大変だったみたいだね。ヌアザの姫だった夫人はお怒りのまま、イライザ嬢を連れてご実家に帰られた。そして神聖国で調停裁判だ。ここでユウリスは、永久的に家督の継承順位が一番下になると決定した」
自身の出生について、ユウリスも経緯のおおよそは承知している。しかし客観的に事実へ耳を傾けると、
「それについて責められるべきは、レイン公爵よね。なにも知らずに産まれてきたユウリスに、なんの咎があるというの?」
カーミラの怒気を孕んだ声は嬉しかったが、ユウリスは困ったように眉を下げた。イライザに続き四人の子宝に恵まれたことを
「誰が悪いとか、そういう話はいいよ。でも気にしてくれてありがとう、カーミラ」
「ユウリス……」
つらそうな幼馴染の少年を覗き込んで、カーミラはなんとか慰めようとした。しかしキーリィが先に口を開き、話を続けようとする。不満そうに睨みつけてくる少女には目を向けず、彼はユウリスだけを見据えた。
「ユウリスの生い立ちは、まさに公然の秘密だ。認識の差は多少あれ、ブリギット市民の多くが知っている。ただこれが忌み子の噂になると、急に怪しくなった。忌み子のユウリス。その忌むべき凶事とは何か――夫人が出産をしてすぐに、別の女に孕ませた赤子が現れた。それこそが不吉なのだといえば、その通りだろう」
「でもそれって、貴族にはよくある話ではなくて?」
「うん、カーミラお嬢様のおっしゃる通りだ。
ユウリスは果実水でちびちびと舌を湿らせながら、胃の奥が痛くなるような不快さに表情を険しくする。いつ、なんど聞いても、慣れはしない。
「平気、ユウリス?」
彼の背を、カーミラの手が柔らかくさすった。白狼もいつのまにか、少年に脚にまとわりついて鼻を寄せている。ユウリスは胸を温かくして、口を閉ざしたキーリィへ続きを促した。
「キーリィ・ガブリフ。あなたのことだから、もう噂の真相に辿り着いたんだろう?」
「ああ、残念ながら、君が忌み子と判じられる事件が実際に起こっていた。最初の情報源は市庁舎占拠事件の調書を担当した、オスロット警部だ。彼が言うには、レイン公爵の腕に抱かれて君がブリギットへやって来た夜、教会で凶事が起こったらしいい。そして司祭がひとり、亡くなったのだという」
その夜のことは、赤子だったユウリスの記憶に存在しないが、知識としては断片的に有している。見知らぬ大人や同級生から、何度も
「その現象を教会へ報告したのは、宿直の若い司祭だ。彼は数日後に行方不明となった。自宅からは燃えた聖書とロザリオが発見され、壁には邪神の印が鶏の血で描かれていたらしい。礼拝堂の件は教会の公式な記録にあり、司祭の失踪については警察に調査資料が残っている」
「けれどガブリフ議員、それがユウリスと関係あるなんて証拠もないのでしょう?」
不満を露にするカーミラに、キーリィは落ち着いた表情で首肯した。実際、教会で起こった災禍の兆しと司祭の失踪を、ユウリスに結びつける根拠はない。それでも民衆は噂に尾ひれをつけたがるものだ。
当時は
「行方不明の司祭は君に殺されたのだと、オスロット警部は吹聴していたよ。もちろん軽挙妄動は慎むようにと言い含めた。だが彼のような輩がひとり大きな声をあげるだけで、
「無垢なんて言い方おかしいわ。ただ残酷で、無責任なだけじゃない!」
「僕には次の選挙もあるんだ、言動には注意をしないとね」
ウインクするキーリィに、カーミラは大きく鼻を鳴らしてそっぽを向いた。彼は残った果実水を一気に飲み干すと、意を決したように強い眼差しをユウリスへ注いだ。
「ユウリス、噂の調査をしたこと、事後報告になってすまない。だが僕はこれからも、君の噂について調べるつもりだ。その上で真相をはっきりさせたいと思っている。そして悪評が間違いであるなら、それを市民に訴えるつもりだ」
ユウリスは不可解そうに眉を寄せた。白狼を連れて必要以上に目立っている現状ですら、居心地が良いとは言えない。更に衆目の目を集めるようなことは御免だと伝える。
しかしキーリィは声に熱を帯びて、頑固に首を横に振る。
「ユウリス、君こそブリギットの将来を担う人物だ。僕にはわかる、これは女神ダヌの
「また戦争がはじまるってこと?」
「そこまでは断言できない。だがそのときが来たら、君は間違いなくブリギットに必要な男になるだろう。その足を引っ張らないために、邪魔な汚名はそそいでおきたいんだ。もちろんただの厚意じゃない。僕が市長になったとき、君はきっと力になってくれる。そう信じている」
「キーリィは市長を目指しているの?」
「ああ、そうだ。できればそのとき、君が公爵の座を継いでくれるのが理想だよ。まあアルフレド君がいるのだから、それはさすがに高望みかな」
とんでもないことを言う男だと、ユウリスは呆れた。そんな妄想のために彼は、貴重な時間を割いて忌み子の噂を調査するというのか。しばらく黙っていたカーミラが、そこで不意に首を伸ばした。
「ガブリフ議員。もし仮に噂が真実で、すべてがユウリスに関係していたら――あなたはどうするの?」
「それも考えたよ。もしそうなら、黙っているさ。ユウリスには本当のことを話すが、秘密はダヌ神の
「いまから考えておくわ。わたしはユウリスの味方だけれど、ユウリスの味方の味方ではないの。覚えておいてくださる、ガブリフ議員?」
「これは手厳しいな」
思わず苦笑するキーリィの視線が、不意にあさっての方向へ飛んだ。ちょうど彼の秘書が、野次馬の群れから帰還したところだった。
ユウリスが火災現場に視線を向けると、建物に突入する警官隊の姿が見える。その後方には
「領邦軍、なんで?」
ユウリスは怪訝そうに顔をしかめた。領邦軍はブリギット市ではなく、ブリギット国全体の治安維持や、外国の脅威に対抗するための軍隊だ。街のボヤ騒ぎに出動することはない。その疑問には、帰還したキーリィの秘書が答えてくれた。赤毛を短く刈り込んだ、若い男性だ。
「お待たせしました、議員。共同住宅二階の一室が出火元です。ただどうもその部屋、魔獣の密猟業者が隠れ家にしていたようで――捕まえていた魔獣だか怪物だかが暴れて、火を吐いたそうです。部屋は全焼、部屋にいた四人の男のうち、三人の死亡が確認されています。ひとりは運よく息があるようで、いまからそいつを取り調べるようですね。どうも
「ご苦労。領邦軍が動いていたということは、国際的な組織かもしれないな。領邦軍が突入を譲ったのは民衆の手前、警官隊を立てたのだろう。市庁舎の占拠事件では、美味しいところを白い英雄に持っていかれたからね。警察への風当たりは強い。それで、その魔獣は?」
「どんな魔獣かは不明です。ただ気になる情報が二つ。まず生き残った男の証言によると、竜の
「なるほど。竜種なら、魔獣ではなく怪物の分類かな。≪ゲイザー≫への依頼になるかもしれないね」
含むようなキーリィの視線を受けながら、ユウリスは意外そうに瞬いた。魔獣と怪物。どちらも人間の脅威になる存在だが、分類の違いをユウリスは理解していない。議員であるキーリィが熟知しているのは、少し驚きだ。キーリィは気にした様子もなく、秘書へ続きを促した。
「二つ目は?」
「現場から女の子が逃げた、という目撃証言です。身なりの汚れた、十にも満たない幼児だったそうです。情報は以上。ああ、そういえばユウリス様、白狼様。先の市庁舎事件では、助けて下さり本当にありがとうございました。自分は一階の議事堂で捕まっていたのですが、ガブリフ議員は薄情にもひとりで逃げてしまって。あのときは秘書なんて辞めてやろうかと思いましたよ」
「その話は、夏の休暇を延長することで決着がついたはずだ。それに僕は≪リッチ≫にやられて、病院送りになった。良いことなど、なにもない」
「ええ、でも女の子にこの話しをすると盛り上がります。みんな、ひとりで公爵の救出へ向かった貴方を褒め称えるばかりで、誰も私に同情はしてくれませんがね」
ユウリスは返す言葉が思い浮かばず、曖昧に肩を竦めた。幸い、秘書の男性は自分の話のオチまで口にして満足したようだった。
「議員、そろそろ行きませんと」
「そうだな、秘書の恨み言は馬車の中で聞くとしよう」
キーリィは長椅子から立ち上がり、空になったジョッキを秘書に渡した。ユウリスたちは自分達で戻すと遠慮したが、まとめて秘書が露店へと返却してくれるという。
「さて、野次馬も警官隊が整理をはじめたようだ。僕はそろそろ行くとしよう。先程の話、進展があれば必ず君に伝える。ただ、できれば僕が調査している件、公爵閣下には内密に願いたい」
「父上――レイン公爵に、どうして?」
「あの御仁は、ご子息のことを心から大切にされている。この調査は、そんな君の傷を抉る結果になりかねない。公爵閣下に止められたら、さすがの僕も従わざるを得ないからね」
「そんなに過保護じゃないと思うけど」
「どうかな。君が≪リッチ≫に腹を撃たれて命を落としかけたとき、公爵閣下はブリギットの末来と君を天秤にかけていた。それほどのことだよ、ユウリス」
「ちょっと待って、死にかけたってなに?」
そこでカーミラが急に立ち上がり、語気を荒げて二人の会話に割って入る。ユウリスは彼女に、市庁舎の戦いで≪リッチ≫に殺されかけたことまでは伝えていなかった。あくまで手伝いで潜入し、怪物退治をしたのはウルカと白狼だと話したのだ。心配をかけまいとした配慮のつもりだったし なにより自分が怪物退治に大きな貢献をしたとも思っていない。≪ゴーレム≫に到っては事実、白狼の手柄だ。
「ユウリス、どういうこと!?」
「お、落ち着いて、カーミラ!」
普段の比ではないほどに彼女の目はつり上がり、瞳が熱を帯びていた。いや、潤んでいる。カーミラは血の気を失うほどに両手を握り締めて、ユウリスをじっと見つめた。
「か、カーミラ?」
たまらずに視線をさまよわせると、キーリィが、すまない、と唇だけ動かすのが見えた。彼は秘書を伴い、逃げるように立ち去っていく。白狼は
「わたしに、嘘をついたの?」
「いや、嘘は……その、話していないことは、あったかもしれない」
「それをわたしは、あなた以外の人から聞かされたのよ。どんな気持ちかわかる?」
鼻水をすする音が聞こえ、カーミラはとうとう大粒の涙をこぼしはじめた。
「ユウリスの馬鹿」
彼女が泣くのを、ユウリスははじめて目にした。
とっさに伸ばした手は、カーミによって乱暴に振り払われてしまう。
「知らないっ!」
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