エピローグ

戦いの終わりに

 魔法で先に戻る魔法師たちを見送って、俺達剣師組はゼストの動かすトード車で城へと向かった。

 俺たちがエルドラに来るときに使った荷馬車タイプのものだ。箱に揺られながら、俺は横になってリトの治療を受け続けた。


 まだギリギリで明るい夕方の空の下、城門の入り口に彼女を見つけて、俺は「行かせて」と立ち上がり移動中の箱から飛び降りた。


「ユースケさん! 危ないですよぉ!」


 慌てて声を上げるリト。もちろん怪我が治りきっていない俺は、華麗な下り方などできずに片膝をついてしまう。けれど勢いのままに立て直して、歩み寄る彼女に駆け寄った。

 セーラー服を脱いで、赤チャイナに戻った美緒の涙を受け止める。


「美緒!」

「佑くん、ぶ、無事で良かったっ!」

「お前もな」


 ひくりひくりとしゃくりあげる顔がぐしゃぐしゃだ。こんな風に泣く美緒なんて、子供の時以来な気がする。


「終わったから、もう心配するなよな」


 美緒の髪を撫でながら彼女の頭を胸にぎゅうと抱きしめると、涙の温度で熱くなった。


「ユースケ、お疲れ様」


 美緒と一緒に居たチェリーが「はぁい」とやって来る。二人とも怪我はないようだ。


「チェリー。本当にありがとうございました」

「私はただ一緒にここへ戻って来ただけよ。美緒は見た目より大分タフだし、大したモンスターにも遭わなかったから楽勝だったわ」


 俺たちの横に停まったトード車からヒルドたちも下りて来る。

 戦いが終わって晴れ晴れとしている筈なのに、みんなどこか控えめだ。


「佑くん怪我したんでしょ? 平気なの?」

「あぁ、これくらい何でもねぇよ」


 心配する美緒に強がって答えると、トード車からリトがヒラリと舞い降りてきて、


「何でもなくありません! 治療はまだ終わっていませんよ!」


 と怒り気味に主張した。


「えっ、そうなの? リトちゃん」


 半泣きで口を横に開いて、眉間にしわを寄せる美緒を可愛いと思ってしまう。

 リトもクスッと笑いながら、「けど、明日には治りますよ」と太鼓判を押してくれた。


「あれ、そういえば城が……」


 ふと顔を上げたヒルドの視線を追う。

 城門の奥が騒々しいことに気付いて首を傾げると、「祭の続きよ」とチェリーが説明した。

 そう言えば昨日からこの国は建国祭が行われている。白いワンピースを着た美緒を追い掛けてから、まだ一日しか経っていないのだ。


   ☆

 ワイズマンにグラニカの魔王を認められたクラウの戴冠式が行われる。

 クラウは昨日部屋で見た黒い正装を纏って、腰に聖剣を携えた姿で皆の前に現れた。

 昨日よりも庭に集まった人の数が多くて圧倒させられてしまう。俺はゼストに誘導されながら舞台横へと出ることができた。

 肩書きは『魔王の弟』。貴賓席の一番端が俺の場所で、美緒を含む赤ドレスのハーレム組とヒルドが後ろを陣取っている。


「きゃあ! クラウ様ぁ!! おめでとうございまぁす!」


 エルドラへ行く前、クラウの為に戦場へ行きたいと言っていたエムエル姉妹が、人一倍華やかな声を上げて壇上の魔王へと歓声を上げた。

 クラウの保管者が美緒だという事が分かって事実上魔王ハーレムは解散だけれど、彼女たちはもう少しこの世界に残るらしい。

 もちろん俺にもその選択肢を選ぶ権利はあるけれど、俺は改めて美緒に確認し向こうへ帰ることを決めた。


「あっ、ほら! 佑くん、メルちゃんだよ!」


 クラウを追い掛けて壇上に現れた小さなメルに、美緒が興奮して俺の腕を掴んだ。

 国民の前でクラウの横に立つ、フワフワのドレスを着たメル。その姿に観客は少なからず動揺を見せる。

 彼女が前王メルーシュだということはもうみんなにバレている。クーデターの時、彼女は暴走したまま国民に手を掛けてしまったのだ。

 だから、この場所に戻りたくはないと彼女は言っていた。

 じっと下を向いたままのメルの背に、クラウがそっと手を掛けて国民に思いを告げた。


「僕は、彼女が守るべきだったこの国を引き継いで魔王になります。批判もあるかもしれないけど、彼女にも力を借りたいと思っている。しばらくの間だけでもいいから、僕たちを見守ってくれませんか?」


 反応などなかった。沈黙が起きて、俺たちは顔を見合わせる。

 そこに居る国民の目には、クーデターの時の緋色の魔女が映っているのかもしれない。

 壇上の小さなメルは、そんな猟奇的な様子は微塵も見せずに肩を震わせていた。


 俺が最初に手を叩くわけにはいかないと思ったけれど。

 沈黙を破ってパチリパチリと誰かが最初の賛同を示した。

 音の先に視線が集まる。

 俺とは反対側の舞台横。ティオナの傍らに立つ青髪の男が最初の祝福を送ったのだ。


 彼が誰かと騒ぎだす人はいなかった。ただその音に合わせて喝采かっさいが広がっていく。


「兄貴……」


 俺は前が見えなくなるくらいに泣いて、何度も何度も手を叩いた。

 その後、聖剣を持って壇上を舞った魔王の姿を、俺は一生忘れないだろう。


  ☆

 リトが言った通り、彼女の懸命な治療の末、俺の身体は翌日すっかり元通りになった。

 熟睡した俺の横で一晩中魔法をかけてくれたリトは、「もうフラフラですぅ」と美緒の目の前で俺の胸に崩れて、そのまま寝てしまった。


 彼女をベッドに入れて眼鏡を横に置くと、何だか別人のように見えてしまう。

 その寝顔に「ありがとう」と「さよなら」を伝えて、俺は美緒と城の外へ出た。


 祭の後片付けに追われる庭とは反対側の広場に、皆が集まってくれた。

 マーテルが駆け寄って来て、「そんな格好で帰らせないわよ」と俺のボロボロな制服を直してくれる。

 彼女は『修復師』。目に見えるスピードでほころびが消え、俺の制服は新品同様になった。


 そこには思った以上の数の人がいて、鍛冶屋のシーラは猫耳バージョンのまま何故か美緒のセーラー服を着ていた。どうやらそれが気に入ったらしく、美緒が「もう着ないから」とプレゼントしたらしい。

 どこかのアニメヒロインのようで、「ありがとうですにゃん」といまだにゼストの言いつけを忠実に守って猫語を話している。


「向こうに戻るなんて、懐かしい気がするわ」

「私もです」


 逆に旅行にでも行くような口ぶりのチェリーとちさは、俺たちと一緒に向こうの世界へ戻ることを決めた。

 この世界に残る決断をしたのは、エムエル姉妹と佳奈先輩だ。

 先輩はタキシード姿のゼストの腕に絡みついて、この世界に残りたいと必死に訴える。


「私はぜっったいに帰らないから! 私が向こうに行ったら、鉄平さんはあっという間におじいちゃんになっちゃうじゃない! 私は一緒に歳を重ねたいの!」


 魔王親衛隊・ゼストこと、俺の担任平野鉄平ひらのてっぺいは、彼女をこの世界に残すことを躊躇ためらっているようだ。いつになく困った顔をしているが、どことなく嬉しそうにも見える。


「いいか、佳奈。例えばお前が俺と一緒になって結婚して子供ができたとする。そしたら魔王の親衛隊になっちまうかもしれないんだぞ?」


 親衛隊は世襲制だ。魔王の為に命を捧げなければならない。

 けれどそんな例え話も、佳奈先輩は嬉しそうに聞きながら「いいじゃない、かっこいいでしょ」と言い切った。

 「いいのかよ」と苦笑して、ゼストは佳奈先輩を抱きしめる。


「馬鹿だな、お前は。けど、帰りたくなったらいつでも帰してやるからな」


 まだもう少し、向こうへ戻れる可能性を残して。

 泣き顔をゼストの胸に埋めて、先輩は「うん」と返事する。

 時間の流れの差。そんなことも俺はすっかり忘れていた。

 この世界では地球の二倍のスピードで時間が進む。そういえば前に、俺も先輩と同じ理由で向こうへの帰還を断っていた。美緒とこの世界で再会して「帰れ」と言われたすぐ後のことだ。


 昨日クラウと話した内容では、俺達帰還組は出発の日の時間近辺へに戻ることになるらしい。

 帰還地点は『ティオナ』がうまくやってくれるとのこと。俺はあの暑い公園を思い出して、懐かしいなと思ってしまう。


 向こうの世界に戻ったら、俺はこの世界を懐かしむことができないのだろうか。

 戻った時点で記憶が消えることを、忘れたわけじゃない。ただここで過ごす日々が俺にとって大切な記憶として刻まれていって、消えて欲しくないと事実を記憶の底へ押し込んでいた。


「ユースケ、私は絶対に忘れないから」


 メルがクラウの手を離れて俺の前に飛び出してくる。


「兄貴を頼むぞ」


 「うん」とサファイヤの目を潤ませるメル。その小さな手も、ふわふわの髪も、背中にしょった大きな剣も。まだ出会って一か月にも満たないのに、そこに居ることを当たり前のように感じてしまう。


「俺だって忘れたくねぇよ」


 小さく呟いた本音。その声をかき消すように、背中からヒルドが大声で俺を呼んだ。


「ユースケぇ!!」


 そういえば、ここに奴の姿がなかった。

 城の中から走り出てきたヒルドは、顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、見慣れたあの額を抱えてやって来てバンと俺の胸に突きつけたのだ。


「僕の事忘れないでよ!」


 金縁の額に入った笑顔満開の自画像は、両手で抱える程の巨大なものだ。


「忘れないで、って」


 これを持ち帰らせようというのか。どうしたものかとクラウへチラリと視線を送ると、「持ってって構わないよ」と予定外の答えが返ってきてしまった。


「お、おぅ」

「僕たちは戦友だろ? 絶対ユースケに会いに行くから。ゼストに連れてってもらうからね」


 片手で額を抱えると、俺の空いた左手をヒルドが力強く両手で掴んで「忘れないで」と何度も記憶に刷り込んでくる。

 俺はコイツのことなんて絶対忘れないだろうと思っている。その髪型も顔も、一緒に戦った記憶だって他の誰よりもインパクトが強い。


「向こうの世界の穴は塞がるわけじゃないから、これは永遠の別れじゃないよ」


 クラウのその言葉に期待してもいいのだろうか。

 見送りの人垣の向こうから、いつも通りの際どい衣装を着たティオナとワイズマンがやって来た。

 ワイズマンはその正体を明かさないまま、しばらくこの城に居るらしい。国民には、再びドラゴンが中央廟の底に沈んだという事になっている。


「忘れたくないだろう?」


 ティオナが思わせぶりにそんなことを言ってきた。


「忘れたくない。そんなこと言って、期待してもいいのか?」

「ふっふ。最強と言えど、魔王には記憶を消す能力しかないが、私なら残すことも可能だぞ」


 ほくそ笑むティオナに、クラウが「ティオナには敵わないよ」と肩をすくめた。


「本当なんですか? なら、残して下さい!」


 その提案に、俺だけでなくみんなが沸いた。


「凄いね、ユースケ。良かったね!」


 ヒルドが「やったぁ」とまた泣き出して俺の手を握ってきた。

 俺は美緒と目を合わせて、「良かったな」と感激し合う。


「私、もう無理だと諦めてたのに」


 「チェリーさん!」とちさも、ぱあっと笑顔を見せて仲良しのメルと抱き合った。


 「貴方がたがこの国に関わった功績を認めた特例ですよ」とワイズマン。


「あぁでもね、やったことないから覚悟はしといて」

「えっ、覚悟?」


 ティオナがボソボソとそんなことを言った。


「初めてのことだから、うまくいかないかもしれないってことだよ。……けど、まぁ大丈夫だろう」

「ちょ……命に係わるとかいう話ではないんですよね?」

「当たり前だ。私はそんなヘマしないよ」


 たとえそれが無謀な賭けだとしても、可能性がゼロでないなら試す以外の選択肢はない。


「やって下さい」


 「お願いします」と頭を下げると、ティオナは「他のみんなもいいね」と帰還組一人一人に確認した。

 もちろん、全員オッケーだ。


 ティオナは手に青黒い光を沸かせて、俺たち一人一人の頭にその光をかざしていった。

 熱も何も感じない一瞬のことで全く自覚はなかったが、「完璧だね」と彼女が平たい胸を張って自信満々に言ったから、俺はそれを信じることにした。


「瑛助さん、ありがとうございました」


 美緒が改まって挨拶すると、クラウが「じゃあ、そろそろ」と俺たちの所にやって来る。


 この世界に別れを告げる。

 俺はいまだにそんなことないと思っている。

 きっとまた来れると信じて、俺たちは『次元の扉』を経て光の向こうの世界へと戻っていった。


   ☆

 夏休みまであと数日に迫った朝。

 昨日は熱帯夜だとニュースで言ってた気がするのに、閉めっぱなしの窓のせいで俺はいつもより一時間も早く目が覚めてしまった。

 暑さで熟睡できなかったせいか全身が酷くダルいが、壁に向かって寝返りを打ったところで、目に飛び込んできた恐怖に全身が瞬時に覚醒してしまったのだ。


「うわぁぁああ」


 見知らぬ男の顔が俺を見て笑っていた。

 いや、正確に言うとそれはやたらデカい金縁の額に入った絵だった。

 ナルシストの肖像画か? と思わせる、花に囲まれたツッコミどころ満載の笑顔。

 こんな絵と添い寝した覚えはない。第一、俺はこの絵に描かれたおかっぱ頭の男を知らなかった。


「どうしたの、兄貴」


 俺の悲鳴に驚いた弟の宗助そうすけが、バタバタと階段を駆け上がって部屋に飛び込んできた。

 思わず飛び起きた俺と額縁の絵を見比べて、不審そうな目を向けてくる。


「何、それ。恋人?」

「違う。俺にもわからん」


 ふるふると首を振って、俺はそれを床に下ろし壁に立てかけた。

 あまりにもリアルに描かれた絵には、怪しげな怨念でも籠っていそうで、無下に処分する気にもなれなかった。


 リビングに下りて両親にも聞いてみたが、やっぱり分からないらしい。

 朝食を済ませた俺はじいちゃんとばあちゃんの仏壇に線香をあげてから、少し早めに家を出た。


 美緒と待ち合わせの公園へ迎う。

 いつも通りの真夏の日差しに、一時限目が体育のサッカーであることを呪いたい。女子だけがプールだなどと、許されるわけはないのだ。


 きっと俺の方が早く着くと思っていたのに、美緒は既に公園のベンチで俺を待っていた。

 俺を見るなり勢いよく立ち上がって、「佑くん!」と暑さも吹き飛ぶ笑顔で駆け寄ってくる。


「おはよう、佑くん」

「おぅ、おはよ。元気いいな?」


 昨日一緒に本屋へ行ったばかりだというのに、美緒は感慨深い顔で俺との再会を喜んでいる。


「久しぶりだから。戻ったら自分の部屋だったね。佑くんもそうだった? 普通に朝起きたから、ちょっとびっくりしちゃった。まさか同じ日に戻れるなんてね」


 いつもはそんなに喋らないのに、話したいことがたくさんあるのか、美緒は次から次へと言葉を躍らせた。けれど彼女が共感を求めているだろう内容を、俺には理解することができなかった。


「ちょっと待って。何の話だ? 戻ったら、って。久しぶりじゃないだろ? 昨日本屋にも行ったし……」

「えっ……佑くん? 覚えてないの?」


 きょとんと勢いを失った美緒が急に泣きそうな顔をして、俺は「どうしたんだ?」と慌ててしまう。けれど「何でもない」とそれ以上の説明を断られてしまった。


「ごめん、佑くん。私の夢の話だったよ」

「あっ、そっか。夢の話か」


 彼女の言葉の不自然さに疑問を抱かなかったわけではないけれど、美緒がその後何事もなかったかのように本の話なんて始めたものだから、俺は完全にタイミングを逃して最後まで話を聞くことはできなかった。


   ☆

 そして俺たちは今まで通りの日々を過ごして、気付くと寒い冬も終わり春を迎えていた。

 俺の部屋には相変わらず金縁のナルシストが居座っていて、毎日監視されているような気分を味わっている。

 あの夏の日のことなんてあまり気にしていなかったが、あの後美緒が俺の部屋に来た時、この絵を見て何だかものすごく喜んでいたのは覚えている。

 美緒にこの男のことを知っているのかと尋ねてはみたけれど、彼女は「知らないよ」と答えた。

 まぁ、このナルシストな顔を見れば誰でも笑うのは言うまでもない。


 そういえば最近、一つ気になることがあった。

 美緒があんなに好きだった少女向けのラノベを読まなくなったことだ。どういう風の吹き回しか、最近は熱心にミステリーを読んでいる。


「あっ、そこだよ」


 春休みに入って桜の花が満開になった。

 川向こうの小さな喫茶店を指差す美緒。彼女が行きたいと提案して連れて来られた次第だけれど、何故かその店の入り口で弟の宗助に会った。


「何でお前が居るんだよ」

「それはこっちのセリフだ。と、友達の兄貴の店なんだよ。逆に何で兄貴が美緒さんと居るんだよ」


 気まずそうな顔をする宗助を、後ろから「宗助」と呼ぶ声が聞こえて俺は納得した。

 エプロン姿でショートカットの可愛い女子が、店の扉からひょっこり顔を覗かせたのだ。


「こら奏多かなた。出てくんな」

「ええっ? ちょっと」


 何よと小さく腹を立てながら、彼女は宗助に店の中へと押し戻されてしまった。

 俺は美緒と二人きりになって、「あれ」と首を傾げる。

 彼女に会うのは初めてだろうか。


「ねぇ、佑くん」


 美緒がくるりと身体を翻して、悩み込んだ俺の顔を覗き込んできた。


「思い出して、佑くん。佑くんがみんなのことを忘れちゃったのは、何かの不具合が生じたからだろうって、ティオナ様が言ってたの。だから、みんなに会えば思い出すんじゃないかって。一緒に思い出を話そうよ」

「美緒――?」


 あの時と同じだ。俺には彼女の伝えようとしている言葉の意味が分からなかった。


「俺、ここに来るの初めてだろう?」


 看板に書かれた『カフェ桜』という文字。


『ちょうど春だったから、『春』にしようよって言ったら、そいつに猛反対されてさ。春を思わせたいなら、『桜』のほうがいいんじゃないかって言われたんだよね。桜って、みんなが集まる場所だろうってね』


 誰かが俺にそんな話をしてくれた気がする。


「あれは……誰だ? 京也さん……? いや、チェリーのことか?」


 ふと口をついた名前。俺はそれが誰か分からないけれど、美緒がその言葉に反応して目尻から涙をこぼした。


 俺はここに来たのが初めてだと思っている。

 けれど導かれるように扉を開けて中に入ると、小さな青い目の少女が俺を待ち構えるように立っていたのだ。

 動物の刺繍が入った青いワンピース姿。彼女は俺を見て目を潤ませ、胸に飛びついてきた。


「ユースケ」


 彼女は俺を知っているのだろうか。俺は訳が分からず動転しつつも彼女をそっと抱きしめた。

 「何よ、まだ思い出せないの?」とどこからか聞こえたが、俺は無言で首を横に振った。


「いらっしゃいませ」


 カウンターの向こうでコーヒーを準備する奇麗な顔の男に顔を上げると、カウンター周りに居た知らない顔ぶれがみんな俺を見ていることに気付く。外国人も混じっていて、何故か一年の時の担任だった平野までいるということは、新手のドッキリなのかもしれない。


 美緒に説明を求めようと首を回したところで、俺は店の隅に居た一人の男の顔に釘付けになった。

 俺の部屋にある、金縁のナルシストがいたのだ。


「えええっ?」

「ユースケ、会いたかったよ!」


 待ってましたと言わんばかりに、絵と同じ笑顔を作って立ち上がるおかっぱ男。その勢いを止めようと、隣に座っていたオレンジ髪の美女が流ちょうな日本語で「落ち着きなさい」と制した。


 「ユースケ、久しぶり」と俺に抱き着く少女を奪い返しに来たのは、これまたイケメンの黒髪男だった。

 片手に持ったグラスには、コーヒーではなくコーラが注がれている。

 イケメン男もまた俺を知っている口ぶりで、女子が飛びつきそうな笑顔を向けて来る。


 全く答えを出せない俺の傍らに寄って、美緒が爪先を伸ばしてそっと耳打ちしてきた。


「まだ思い出せない? あっちの世界の事」

「あっち……?」


 そんな美緒の言葉がきっかけだったのかもしれない。

 俺の頭の中でもじゃもじゃに絡まった記憶の糸が、少しずつ解けていく。


「あれ……」


 俺はヒルドの前まで行って、「そうかぁ」と感慨深く呟くと、ヤツの肩をドンと叩いた。


「お前は俺の戦友だ」


                                   END







  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

魔王と俺とお前の〇〇 栗栖蛍 @chrischris

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ