142 青と赤

 公園の池を思わせる広い水面に湯気が沸き立つ。

 この間俺がチェリーの裸を見て鼻血を出した場所だ。奥には着替え用の小屋も並んでいる。


 岩場までの一本道を塞ぐように、親衛隊の二人が地面にうつ伏せに倒れていた。


「先生っ!」

「ちょっと誰にやられたの?」


 俺とチェリーはゼストに駆け寄って辺りを警戒するが、人の影もモンスターの気配もない。


「起きろよ、先生!」


 叩きつけられたように砂塗れになった顔を覗き込んで、俺はヒタヒタとゼストの頬を何度も叩いた。

 まだ温かい。ぐったりと目を閉じているが、まだかすかに息をしている。

 マーテルの脈を確認した美緒が、「まだ生きてるよ」と俺たちに伝えた。


「生きてる。生きてるけど、何で……」


 二人は何の反応も示さない。剣もさやに入ったままだ。

 目に見える怪我がないのも不思議だった。辺りに戦った形跡もなく、魔法師の二人が一方的にやられてしまったというのだろうか。


「リトさんは……」


 肝心の治癒師がいなければ、今の俺たちにはどうすることもできなかった。


「あ……」


 ゼストの唇が震えた気がして、俺は唇に耳を近付ける。


「先生?」

「…………」


 ゼストが何かを言おうとしている。しかしそれは声にならず、息が漏れるだけだ。


「クラウ様……?」


 ふと美緒がその名前を呟いて立ち上がる。俺たちは一斉に顔を起こして、困惑顔を滲ませる彼女の視線を追った。

 緑に囲まれた温泉の方向だ。


「貴方たちは誰ですか?」


 ふいに掛けられた男の声は、クラウと同じ音がした。

 さっきは誰も居なかったはずなのに、湯船の手前に一人の男が立っているのを見つけて、俺は「えっ」と声を詰まらせる。


「どうしてそんなに怖い顔をしているんですか?」


 薄く笑みを浮かべるその男は、クラウと同じ顔をしていた。

 しかし本人でないことははっきりとわかる。表情がどこか他人を思わせていることと、結び目の解けた髪が黒や赤ではなく青色の光を帯びているからだ。


「アンタは魔王じゃないだろ?」


 顔を強張らせたヒルドが訴えると、「そうかもしれないね」と返事が返ってくる。

 顔のパーツも背格好も同じ。濃グレーの上下に黒マントの組み合わせは、祭の為にクラウが着ていたものだ。

 それなのにただ髪が青いだけで、俺の思考がクラウを否定し恐怖を掻き立てる。


 青い色が何を表すのか、俺以外の三人も気付いているはずだ。

 経緯がどんなものかは分からないけれど、この男はきっと……。


「ワイズマンなのか?」

「私のことではなく、貴方たちが誰かという事を聞いたんですけどね」

「否定しないのか……」


 穏やかな口調の中に、不安を誘うとげを感じて、俺は足元に倒れた二人を一瞥いちべつした。


「お前が二人をこんな目に遭わせたのか?」

「最初に襲ってきたのはそちらですよ? 歴然とした力の差ということです」


 剣を抜くことも魔法を放った痕跡もない事実は、そう納得せざるを得ない。恐らく勝敗は一瞬で決まったのだろう。


「貴方がワイズマン? あのドラゴンがそうなんじゃなかったの?」


 ここにドラゴンの姿はない。

 けれど俺たちを見下したように笑う彼の首筋に鱗のような模様を見つけて、俺は「やっぱり」と背筋を震わせた。


「変装……いえ、そうじゃない。魔王を取り込んだって言うの?」


 俺の不安をみ取ってチェリーが鋭い口調で尋ねると、男は「美人は察しがよろしいようで」と笑ってこっちへ近付いてきた。

 彼がワイズマン本人だというのなら、元々城に居た人間という事になる。ハイドのように国の為を考え、それが彼をドラゴンにしたのだ。だからハイドと同じように、自分の理想の為ならば手段を問わない男なのかもしれない。


 俺は美緒の手首を掴んで、咄嗟とっさに自分の背中へかばった。

 「ちょっと待てよ」と眉をひそめたのはヒルドだ。


中央廟ちゅうおうびょうの地下に眠っていたあの巨大なドラゴンが、魔王の身体を取り込んだって言うの? ありえないよ。魔王の意識はどこに行ったの?」

「この男の意識は、深い場所に眠っています。竜の姿の有無なんて、私の力でどうにでもなるんですよ。それに貴方たちが言っているこの男は、本当の魔王なんかじゃないんです」

「それは、クラウがずっと聖剣を抜けなかったから? 無理矢理抜いたからそんなこと言ってるの?」


 ニコリと満面の笑みを浮かべたワイズマンが、青い瞳を細める。

 彼が右手の人差し指を口元に立てて、フッと息を吹きつけると、赤い炎がボオッと灯った。


「えっ?」


 彼が何を考えているのか、どうしようとしているのかなんて俺たちに予想する隙も与えず、ワイズマンは炎の揺らぐ指先を、頭上の木々へ向けて親指で弾いたのだ。


「ええっ?」


 気が触れたのかと思わせる現実。とち狂った行いに俺たちは言葉を失った。

 炎は導線を伝うように斜め上へと走り、葉の先端へ着火した。


「ここは少し狭いですね。見晴らしを良くしましょうか」


 木から木へと次々に引火する炎に、空気が熱をはらんでいく。

 呑気のんきに言ったワイズマンの顔が炎に照らされ、不気味に赤く浮かび上がった。



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