――それは、十日前に遡る。


 リオノーラは、ダリウスのはからいでニコラスの妻リリーの部屋付きのメイドとして仕事をしていた。

 ニコラスやヴィンセントに近付くのは危険だが、リリーの周辺ならば探れるのではないかとダリウスが判断したからである。


『リアースの祟り』のせいで、城の使用人の数も足りない。幸いにしてリリーの部屋付きメイドの一人がやめたばかりだったので、王妃の侍女を勤めていた実績のあるリオノーラは、希望を出すだけであっさりリリーの部屋付きメイドに抜擢された。


 と言っても、リリーの部屋付きメイドはさほどすることがなかった。

 彼女は日がな一日、ぼんやりと椅子に座ってすごしていて、メイドを呼びつけることはなく、することと言えば部屋の掃除と、定期的にお茶を出すくらいのことしかなかったからだ。


 リリーは、まるで人形のような女性だった。

 どこを見ているのかもわからない焦点のあっていないような目をして、ぼんやりと窓の外を眺めている。話しかけても、たいていは「そうね」としか返事をしないから、リオノーラのほかの部屋付きメイドたちは不気味がって、リリーに近づきたがらないほどだった。


 リオノーラはダリウスからリリーの様子と、彼女の部屋の様子を探るように言われたけれど、リリーはずっとぼんやりしているし、部屋の中にもこれと言って不思議なものはない。


 ダリウスがリリーの近辺を探っても意味がないかと判断しかけたのは、リオノーラがリリーの部屋付きメイドになって三日が経過したころのことだった。

 いつもぼんやり窓の外を見ているリリーが、何を思ったのか、リオノーラを残してほかのメイドたちを部屋から追い出した。


 それは、雪がちらつく日の夕暮れのことだった。

 リリーはいつも夕食をニコラスとともに取るのだが、この日はニコラスとヴィンセントは夜遅くまで城に残っていた数少ない大臣たちとの会議が入っていた。そのため、リオノーラたちはリリーの部屋に夕食の準備をしている途中だったのだ。


 リリーが他のメイドを下がらせてしまったから、仕方なく一人で彼女の夕食を準備していたリオノーラは、突然「ねえ」と話しかけられて驚いて顔をあげた。思い出すかぎりリリーに話しかけられたのはこれがはじめてである。


「ねえ、あなたの顔、見たことがあるわ。フィリップ殿下の乳兄妹のリオノーラ……そうよね?」


 リオノーラはぎくりとした。もしかしてリリーを探っていることに気づかれたのだろうか。

 けれどもリリーは、咎めるのではなく、ただじっと青い瞳でリオノーラの顔を見つめている。


 普段人形のように焦点のあっていない目をしていたリリーとはまるで別人だった。もしかして、今までのあれは演技だったのだろうか。

 リオノーラは緊張を覚えて、思わず一歩後ろに足を引いた。ここでリオノーラがダリウスの指示で動いていると知られるのはまずい。


「お願いがあるの」


 しかし、リリーは、リオノーラの警戒とは裏腹に唐突にそんなことを言った。


「時間がないの。黙ってわたくしの話を聞いて、そしてお願い……あの人を止めて」


 そう言ったリリーは、縋りつくような目をしていた。



     ☆



「つまりリオノーラは、リリーの指示でここに来たの?」


 ダイニングに場所を移し、リオノーラの話を聞きながら、マディアスが訊ねた。

 ろくに食べ物も食べていなかったと言うリオノーラは、温かいスープを少しずつ飲みながらゆっくりと首を振る。


 リオノーラが乗ってきた馬をつないで、食事を与えて戻ってきたバーランドが、馬に括りつけられていたリオノーラの荷物をダイニングテーブルの上に置いた。

 リオノーラはその荷物から三冊の本のようなものを取り出した。


「わたしをここに遣わしたのはダリウス殿下よ、兄さん。ロレンソさんが馬の手配をしてくれたの」


 それを聞いて、マディアスの表情が険しくなった。


「……真冬に単身、早馬でここに行けと、ダリウス殿下がそう言ったの?」


 マディアスの怒りはもっともだった。早馬は馬を乗り継いで全速力で移動する。この真冬のさなかにそのようなことをすれば、命を落としてもおかしくない。


「兄さん、ダリウス殿下は悪くないわ。そうしなきゃ、わたしは捕えられていたかもしれないの。殿下はわたしを逃がしてくれたのよ」

「どういうことだ?」


 フィリップが訊ねると、リオノーラは彼に荷物から取り出した三冊の本を渡した。


「これはリリー様が意識のある時にまとめたものよ」

「意識のある時?」

「時間がなくて、わたしも詳しくは聞けていないの。詳しいことはそこにまとめてあるから、それをフィリップ殿下と、そして……」


 リオノーラの視線がキャロラインに向いて、それからアイリーンに移動した。アイリーンの膝の上の小虎を確かめて、言う。


「リアースの聖女に届けてほしいと、そう言われたの。ニコラス殿下を止めてほしいって、リリー様はそう言っていたわ」

「ニコラスを止めてほしい?」


 フィリップが眉を寄せて、三冊ある本のうちの一冊を開いた。

 リオノーラはスープを飲む手を止めて真剣な顔をすると、フィリップとマディアスを交互に見る。そして、思いもよらぬ爆弾を落とした。


「兄さん、フィリップ殿下……信じられないかもしれないけど、リリー様はリリアーヌ様よ。ニコラス殿下とヴィンセント様がリリアーヌ様を生き返らせたの」

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