3
オルフェウスが早々に城を辞したのは理由がある。
城のサロン。メイナードはいつになく険しい表情を浮かべて、目の前に座る男に視線を向けていた。
ソファに座るメイナードの背後にはバーランドと、そしてオルフェウスの兄であるジオフロントが控えている。
本来ジオフロントの場所はオルフェウスのものだったが――、今回はさすがに分が悪いと、オルフェウス本人がジオフロントを呼びつけた。
そう――、メイナードの前にゆったりと座る男――、教皇ユーグラシルを相手にするのならば、ジオフロントの方が適切だ。
教皇の赤いローブをまとい、肩をいくらかすぎるほどの長さの髪を無造作に束ねているユーグラシルは、教皇という立場であることを考えると驚くほどに若い。確か、三十七のはずだ。歴代最年少で教皇の座に上り詰めた男だった。
そしてユーグラシルの背後に控えているのは――聖騎士ファーマン・アードラー。メイナードにしてみれば、アイリーンの心をもてあそんだ憎き相手である。
この二人を前に、メイナードの神経はジリジリと焼ききれそうだった。メイナードは教皇が苦手だ。そこに忌々しいファーマン・アードラーまで加われば、苛立ちで頭がおかしくなりそうだった。
バーランドも警戒しているようで、教皇がこの部屋に入ってから一度も口を開いていない。
「猊下、そのお召し物は暑くありませんか?」
メイナードとバーランドが押し黙っている横で、笑みを浮かべたジオフロントがユーグラシルに訊ねる。
ユーグラシルはジオフロントに視線を向けたのち、小さく笑い返した。
「暑いな」
「お脱ぎになればよろしいのに」
「殿下の前でそのような無礼は働けないだろう」
「殿下はそのような狭量な方ではございませんよ。ねえ、殿下?」
ジオフロントに水を向けられて、メイナードは反射的に頷く。
ユーグラシルは「殿下がよろしいのでしたら」と真っ赤なローブを脱いで、無造作にソファの上においた。ファーマンがそれを取り上げて丁寧に畳み、再びソファの上に戻す。
「それで、陛下ではなく殿下をご指名されたのには何か理由が?」
ジオフロントがにこやかな表情のまま、ユーグラシルに質問する。
ユーグラシルが言葉を探すように視線を下に向けると、ジオフロントはさらに重ねた。
「紅茶には毒など入れておりませんからご安心してお飲みくださいね」
さすがにこの発言にはメイナードたちもファーマンも驚いたが、ユーグラシルは苦笑を浮かべるだけだ。
「……さきほどから、棘があるな」
「そうお思いになるということは、猊下の方こそ心にやましいことがおありなのでは?」
「手厳しいな。……お前がいるとは思わなかった」
「俺の妹を傷つけてくれたので、ご挨拶をと思いまして。そこの聖騎士は猊下の飼い犬でしょう? 飼い主が責任を負うのは当然かと」
にこにこと微笑みながら言うジオフロントにメイナードもバーランドも胃が痛くなってくる。オルフェウスが「教皇相手ならうちの兄貴の方がいい」と言っていたが、胃に優しいのはオルフェウスだった。間違いない。
ユーグラシルは黙ってジオフロントの顔を見つめていたが、やおらティーカップに手を伸ばすと、中身を一気に飲み干してから口を開いた。
「確かに毒は入っていないようだ」
「二杯目はいりますか?」
「やめておこう」
教皇は苦笑を浮かべた。
「殿下にお時間をいただいたのは、陛下よりも殿下の方が聖女に詳しいからだ」
メイナードは眉を寄せた。
「アイリーンが、どうかしたのか?」
「最近、聖女の周りで変わったことは起こっておりませんか?」
変わったことと言われて、メイナードとバーランド、それからジオフロントの脳裏に小虎の姿がよぎった。
変わったことと言えば聖獣らしい小虎が現れたことくらいだが、それをわざわざ教皇に教えてやる必要はない。
「特に思いつくことはないな」
メイナードが答えると、ユーグラシルはそうですかと小さく頷いて立ち上がる。
「もし聖女の周りで何かあったら教えてください」
「なぜ、妹の周りで何かが起こると思われるのです?」
言いたいことだけを言って立ち去ろうとする教皇の背中に、ジオフロントが声を投げる。
教皇は肩越しに振り返った。
「杞憂であるならそれでいい。ただ少々……、気になることがある」
ユーグラシルはこの場で詳しいことを告げるつもりはないらしい。
ジオフロントは笑顔のまま答えた。
「お約束できかねます」
「……聖女のためだ」
「手の内を明かさないものの言葉を信じられるとでも?」
ユーグラシルは微かに眉間にしわを寄せるが、ジオフロントは微塵たりとも笑顔を崩さない。
やがてため息をついた教皇は、何も言わずにサロンから出て行った。
「疲れた」
教皇ユーグラシルが退出してしばらくして、メイナードが大きく息を吐きだしてソファの上にぱたりと倒れた。
バーランドもぐったりと近くの椅子に腰を下ろす。
「あの教皇は昔から苦手なんだ。何を考えているのかさっぱりわからない」
「同じく」
ユーグラシルが教皇の座についたのは今から三年前のことだ。以前の教皇は気難しい年寄りだったが、考えていることが読めないユーグラシルよりはいくらかマシだったとメイナードは思う。
「狸ですからね」
ジオフロントがのんびりと言って、手を付けていなかった紅茶を飲みはじめると、メイナードとバーランドは顔を見合わせた。
狸。確かにそう評されてもおかしくない教皇であるが、何を考えているのかわからないという意味ではここにいるジオフロントも「狸」である。
「アイリーンの周りで変わったことと言っていたが、小虎のことを言っているのかな?」
「可能性はゼロではないでしょうが、あの言い方だと別の何かがありそうな気がしますね」
ジオフロントは教皇の口調が何か引っかかるようだ。
顎に手を当てて考え込んだジオフロントは、バーランドに視線を向けた。
「バーランド、ジェネール公爵家が抱えている諜報部隊を動かしてほしいんだが」
コンラード家もそれなりに諜報に長けた人間を雇ってはいるが、ジェネール公爵家の抱える訓練された彼らには遠く及ばない。
だが、ジオフロントが他家の諜報部隊を貸してほしいと言ったことははじめてで、バーランドは怪訝がった。
「何を調べるつもりですか?」
ジオフロントは先ほど教皇に見せたのと同じ微笑みを浮かべた。
「教会の隠している巫女たちを」
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