M.-9; 停滞

    †  †


 次の日も図書室のパソコンは空いていた。あたしは受付で使用申請を行い、パソコンの前に座る。

 それでもあたしの根底にある自分を知ることに対する恐怖心はあたしの向う見ずな知的欲求に怯んではくれず、あたしは今日もクリックすることを断念した。


 エミはいなかったけれど、いつものテーブルに座ってエミが紹介してくれた面白い方のゲームブックを開き一人で唸っていると、いつの間にか隣に座ってにこにこしていた。


「これもお勧めだよ」


 言われ差し出されたのは、よくあるファンタジーゲームでザコ敵と称されるゴブリンが魔法のアイテムを手に入れて強力なモンスターへと変貌を果たしながら人間に復讐する、という物語だった。

 途中鶴亀算つるかめざんの問題が出てきたり、レベルアップ毎に選べるモンスターの種類をミスってしまい何度もゲームオーバーになりながら漸くクリアしたことを覚えている。


 その頃には、あたしが図書室で借りる5冊の割合は、医学書1:小説1:漫画1:ゲームブック2、という感じになってしまい、もともと少ない種類しか置かれていなかったゲームブックはあたしが本を借り出して十日が経った頃に全てをクリアしてしまった。


 エミと一緒にゲームブックを作ろうと息巻くことになったのは、強い雨が中庭を濡らして人を散らす日のことだった。

 あたしはコンビニでノート2冊と筆記用具を購入し、それを図書室に持ち込む。

 1冊はアイデアノートだ。思いついたことや物語のプロット、そういったことを書いてまとめ、そしてもう1冊に清書する。


「どういうのがいい?」

「わたしは、やっぱりファンタジーっぽいのがいい」

「ファンタジーね。じゃあ定番の、勇者が魔王を倒しに行く感じ?」


 エミは喜々として首を縦に振る。あたしはアイデアノートに勇者が魔王を倒しに行く、と書いて、それを丸で囲った。


「途中途中で仲間を増やしていくのにしようよ」

「お、桃太郎方式ね。あ、じゃあさ、その仲間を増やして行く時に、ちょっとした試練っていうかテストがある感じは?」

「すごくいいと思う!」


 仲間にするキャラクターにそれぞれ“戦士”“魔法使い”“賢者”という名前を与え、やはり丸で囲う。

 勇者が魔王を倒しに行くと決意し、出発する。そして魔王の居城にたどり着くまでに、ポイントポイントで仲間を増やして行くのだ。仲間との合流は一筋縄ではいかない、必ず敵とのバトルがあり、勝利してはじめて仲間が手に入る他、伝説の武器を手に入れるために迷宮を踏破したり、秘術を教えてもらうために仙人の無理難題に答える、なんていうイベントも二人で考えた。


 時間はあっという間に進んでいって、しかしエミはどこかそわそわしている。


「メイちゃん……メイちゃんは、……わたしといて楽しい?」

「え?」


 しばらくすると、おどおどとしながらエミはそんなことを聞いてきた。

 あたしは全く、つまらない素振りなど見せていないはずだ、と思い返したところで――そうだ、あたしは笑えないんだった、と思い出した。

 あまりにもエミがにこにこしているもんだから、あたし自身すっかり忘れてしまっていた。それは傍から見れば、片方が一切笑うことが無いんだ。つまらないなりに付き合ってあげてる、と取られてもおかしくないのかもしれない。


「楽しいよ」

「……でもメイちゃん、わたしとお話しても笑ったこと無いよ」

「わ、笑うよ!そんなことないって、笑うって!」


 あたしはついそんなことを言ってしまって、自分で言って自分で慌てふためいた。


「本当?」


 心の中で両頬を叩き、あたしは意を決して笑うことに挑戦する。

 もう、楽しいと思う気持ちが無いわけではなかった。それから目を背けていただけで。

 エミやヱミと会う時間を、心の底から待ち望んでいたし、もう今のあたしには無くてはならないものだと感じていた。

 楽しくて、嬉しくて、幸福だ。なら、笑えるはずだ。気持ちがあるのだから、身体がそこに追従しないのはおかしい。


 目を閉じて深呼吸を一回。

 目の前にあるエミの顔を見据えながら、口角を持ち上げようとして――泣いた。


「メイちゃん?」

「ぅあ――ぁっ」


 笑顔を作ろうとするたびに、嗚咽が喉の奥から湧き上がった。

 笑い声を上げようとするたびに、二つの目からぼろぼろと涙が溢れていった。

 あると信じていた楽しい・嬉しい・幸せな気持ちは、その仮面を剥ぎ取って申し訳なさ・不甲斐なさ・情けなさという正体を表した。

 ダメだった。

 あたしは笑えなかった。

 それどころか、エミの目の前で号泣してしまった。


「――っ」


 そしてエミは、青ざめた泣きそうな表情で走り去ってしまった。

 あたしは「待って」と叫んだけれど、それは言葉にはなっていなかった。

 そうして独りになってしまうと、こみ上げてくる嗚咽と涙はより強くなってしまい、あたしは過呼吸気味になってその場に倒れ込んでしまう。


 そして、目が覚めたあたしは病室のベッドに横たわっていた。


    †  †


「そう言えば、また悪夢を見ました」

「また殺される夢?」


 頷く首に力がうまく入らない。口を開くのがひどく億劫だ。

 それでもどうにか、訥々と悪夢の内容を女医さんに話す。


 この前は椅子に縛り付けられて首を切りつけられる夢だったけれど、今回のは追いかけられる夢だった。

 出口の無い寂れた洋館のような場所で、延々とあたしは逃げていた。

 調度品を薙ぎ倒しながら狭い廊下を走り抜け、時々後ろを振り返っては、なたのようなものを手に追いかけてくる人影から逃げようとしていた。

 でも逃げ込んだ部屋が袋小路になっていて、あたしはクローゼットに隠れた。

 息を殺して身を潜めるけれど、結局怖くて声を漏らしてしまい、クローゼットを開け放った黒い人影は、手に持った鉈を振り上げて、狂ったように叫び上げながらあたしの頭めがけて振り下ろした。

 あたしは死んで、そして目を覚ました。


「たとえば切られたりぶつかったりしたところが痛むとか、そういうことはある?」

「……いえ、無いです」

「そう。もしそういうことがあったらすぐに言ってね」

「わかりました」


 女医さんはエミに嫌われたかも知れないと言ったあたしのことを抱き締めて、「大丈夫」とだけ言った。

 それでもあたしの心を支配している不安が消えてはくれなくて、その日は晩ご飯を食べることが出来なかった。

 一口だけでも、と再三言われたけれど、咀嚼そしゃくした瞬間に吐き気が込み上げて来そうな予感があった。


 雨は未だに降り止まないで窓を叩いていて、その音をただぼんやりと聞きながら消灯時間が来るまでを過ごした。

 頭の中では色んなことが渦巻いていたけれど、考えることが億劫だったから渦巻いた様々な疑問や問題は紐解かれることのないまま、未だに頭の中を巡り続けている。

 それなのに、眠気は一向に来なかった。眠ってしまった方が楽なはずなのに。


 そして消灯時がやって来ると、あたしはやっぱり怖かった。

 ヱミに会いたい。会って、エミのことを聞きたい。

 でも怖い。エミに拒絶されてしまったんじゃないかって、もしそうだよ、なんて答えを聞いてしまったらあたしは――


 会いたい。でも怖い。会いたくない。でも会いたい。

 葛藤が脳内で暴れ回り、何も無いのにすでに泣きそうだ。

 眠った振りをしていれば、会わなくても済むだろうか――考えたと同時にあたしは毛布を頭まで被っていた。


 雨が窓を叩く音に混じって時計の針が秒を進める音が耳に痛い。

 一秒一秒がひどく長く感じられ、その時が通り過ぎるのをただ只管ひたすら待ち続けた。

 心の奥では、そんなあたしの弱さなんかどうでもいいと言うように、被った毛布を剥ぎ取ってヱミが現れることを期待していたのかもしれない。


「……じゃあね」


 直後、カタンとドアの閉まる音が聞こえ、あたしは慌てて飛び起きた。

 今、確かにヱミはこの部屋にいた。でも、あたしのところまでは来なかった。


 しまったと思った時には遅かった。

 やっぱり起きて待っていれば良かったと、何にもならない後悔だけが逡巡して、あたしはまた泣いてしまった。

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