680. 天丼


 その流れで『晩ご飯はわたしが作りますっ!』と世にも恐ろしいことを言い出した有希。止める猶予も無く調理を始めてしまった。


 期待はしていない。なんせ包丁を両手で握ったり野菜を洗濯用洗剤で洗おうとしたり、デスソースを常備して持ち歩いているような奴なのだ。まともな飯が出て来るとは思えない。



「お待たせしましたっ! 早坂家代々伝わる、秘伝の麻婆豆腐ですっ!」

「わーいうれしいな~」


 現実逃避でもしなけりゃやってられん。

 自らの意志で地獄へ両脚突っ込むのだから。


 と思っていたが、姿かたちだけなら想定していたよりもだいぶマシに見える。

 唯一の得意料理である麻婆豆腐。ピリッと鼻を突く刺激的な香りが食欲をそそる。修行して来たのは本当みたいだな。


 とはいえ油断は禁物。有希がどれだけ努力を重ねようと、食べ物の好き嫌いまでは……。



「辛い……ッ゛!」

「えっ、えっ!? あれっ!? ちゃんと香辛料抑えめにしましたよっ!?」

「ごめん、有希。嫌な思いさせたくなくて、今まで黙っとったんやけど…………オレ辛いの苦手っぽいんだわ」

「……エェーーーーッッ!?」


 最近気付いた。小さい頃から健康に気を遣って刺激物を取らないようにしてきたのが原因なのか、辛いものや酸っぱいものがどうにも駄目なのだ。


 梅干しなんて特に食えたモンじゃない。偶に愛莉がお弁当に入れて来ると本気でキレそうになる。無理やり食わされて小競り合いが始まるまでお約束。



「そっ、そんな……ッ!? わたしの好物が廣瀬さんは嫌い……!?」

「ホンマごめん。でもアレや、苦手ってだけで嫌いなわけちゃうねん。めっちゃ薄味にしてくれたら全然イケるから。麻婆豆腐は普通に美味い。なっ」

「うぅ~っ……! 夫婦で味の好みが違うなんて大問題じゃないですかぁ~!」

「落ち込むポイントそこ?」


 仮にそのような間柄になったとして、有希に台所を預けることは絶対に無いから安心して欲しい。全力で阻止する。専業主夫でもなんでもなったるわ。


 味そのものは決して悪くは無かったので、ちょっとだけ砂糖を入れて我慢すれば問題無く完食することが出来た。

 久しぶりの手料理披露でとんだケチを付けられた有希ではあったが、空っぽになった皿を見つめホッと胸を撫で下ろす。



「お水、どうぞっ」

「あんがとさん。いや、美味かったで普通に。上達したな。偉いエライ」

「うぅー……あんまり嬉しくないですよぉ~」

「こればっかりは好みの問題やからなぁ……」

「……前からちょっと思ってたんですけど、わたしと廣瀬さん、そもそもの趣味があんまり合ってないのかもです……っ」


 不味い。ガッツリ落ち込んでしまった。


 言わんとすることもちょっと分かる。家庭教師と教え子という接点を除けば、俺と有希にはこれといって共通点が無い。


 小さい頃からサッカー一筋だった俺と一般的な家庭環境で育って来た有希では、常識や価値観、生活のペースもだいぶ差があるような印象だ。


 でも、そんなものだと思うけどな。他の連中にしたって趣味や共通点が丸被りというわけではないし、噛み合わない場面は多々ある。


 俺が合わせたり、逆に合わせて貰うことだって少なくはない。そういう微妙な認識の差異を擦り合わせて、ちょっとずつ絆を深めていくものだ。別に男女に限った話でもないと思う。



「でもさ有希。これで俺の苦手なものが一つ分かって、詳しくなれたやろ」

「……そう、です、かね?」

「最初から相性抜群なんてこと無いんだよ。俺だって有希の知らないことは沢山あるし……ちょっとずつお互いを知っていけばええ。料理やって、俺のために努力してくれたんだろ?」

「はいっ……廣瀬さんに喜んで欲しくて、褒めて欲しくて……っ」

「そしたら今度は甘めの麻婆豆腐を作るんだよ。俺も嬉しいし、有希も俺が喜んでいて嬉しい。それで十分やって。時間はたっぷりあるんだから」

「…………分かりましたっ。次はもっと、もっと美味しい麻婆豆腐作りますっ! 愛莉さんに負けないくらいのお料理上手になりますっ!」

「んっ。その意気や」


 なんとか調子を取り戻してくれたようで一安心。あまりの単純さに不安な要素もゼロではないが。

 この切り替えの早さと良い意味での楽観主義は、他の奴らには無い部分だ。そういう有希を俺も気に入っている。


 子どもっぽい、大人っぽいなんて安易な括りで彼女を語るのも相応しくない。

 有希は有希のペースで、等身大の早坂有希を持って全力で今を生きている。俺がなにを心配したところで彼女は止まらないのだ。



「っと、もうこんな時間か……洗い物だけ手伝うわ。悪いけど、ちゃんと自分の部屋で寝るからな。それ以上は勘弁してくれ」

「じゃあ、お願いしますっ。ワガママは言いませんよ、お隣さんですからっ。会おうと思ったらいつでも会えちゃうんです! 問題ナシ、ですよっ!」


 つまり、ここから先の進展は今のところ考えていないと。修学旅行でのやり取りを思い出すに、まだまだその手の関係は時期尚早みたいだ。


 勿論、彼女が良しと言うのなら俺も受け入れるつもり。早坂有希は年齢相応の可愛らしい少女である。彼女に劣らず小柄な琴音やノノに出来て、有希に出来ないことはない。


 だが有希との関係は、もうちょっとだけプラトニックなままで居た方が良いと思う。何度も言うように、年相応の女の子だ。

 勢いや雰囲気で押し進めるような真似は宜しくない。もっと有希のことを知ってからじゃないとな。



「このコップはどこにしまう?」

「こっちの棚でお願いしますっ。あっ、洗剤はこれですよ! 洗濯用の洗剤なんて、使っちゃダメですからねっ!」

「その心配は万に一つも不要や」


 並んで食器を洗ったり後片付けをしたり。ワンルームの玄関兼台所だからメチャクチャ狭いけど、それはそれで面白かったりする。


 似たようなことを考えていたのか、鼻歌混じりに食器を洗い随分と楽しそうだ。

 こうして眺めていると、後ろ姿は有希ママに似て来たかも。おっちょこちょいが治れば本当にママそっくりの美人奥様になりそう。



「んっ」

「お客さんですかねっ?」

「こんな時間に?」

「見てきますねっ」

 

 インターホンが鳴った。とっくに夕飯時だというに誰だろう。真琴が忘れ物でもしたのだろうか。だとしても来るのが遅い気はする。


 安アパートの癖にドアホンはちゃんと付いているので、一旦リビングに戻って来客の姿を確認する有希。話し声が聞こえて来る。



『すんませ~ん、自分隣に引っ越して来たモンなんですけど~』

「あっ、はいっ! お隣さん、ですかっ!?」

『ご挨拶ついでに夕飯のおすそ分けを~と思いまして~。もしかしてもうご飯食べちゃいました~?』

「あー……ちょうどいま……あっ、でも、全然大丈夫ですっ! わたしいっぱい食べるのでっ!」

『ホンマですか~? いや~ウチも自分で作るのは慣れてへんとさかい、ちと作り過ぎてもうてなぁ、助かるわ~』

「じゃあ、いま開けますねっ!」


 やたら耳に着く関西弁だ。声のトーンからして間違いなく女性と思われる。有希の隣……ということは階段の手前の部屋に引っ越してきた人か。


 近くに大きな大学があるから、進学を機に上京して来たのだろうか。気さくなお隣さんで有希も良かったな。俺も近所付き合いは程々にやらないと。こっちも明日辺り挨拶に来るかな。



「関西弁?」



 ちょっと待て。


 普通にスルーしちゃったけど、すっごい聞き馴染みの声だったような。割と最近聞いたぞ。あんな特徴的な撫で声、忘れられる筈無いだろ。


 いや、待て。待て待て。落ち着け。そんな馬鹿な話があるか。関西から上京して来る女性が毎年何人いると思っているんだ。

 ちょっと声が似ているというだけでなにを大袈裟な。無い無い。あり得ないって。



「廣瀬さんもご挨拶しますかっ?」

「…………いや、やめとくわ。あとで同じアパートの住民って知られたら色々とややこしいし。奥に隠れ……」

「はいは~いお待たせしました~っ」

「話聞けッ!」


 なんだお前。彼氏がいますよアピールでもするつもりか。初対面からマウント取ろうとするな。調子に乗るな。



「どもども~。あっ、これ言うとったおすそ分けな。ウチの得意料理、天丼……って、随分と若い姉ちゃんやな」

「初めまして、早坂有希って言います! 春から高校一年生ですっ!」

「えぇっ、ホンマに若いやん! って、ウチも同じか。あ、ウチは世良文香、高校二年生や。おおきになぁ」

「わあ! じゃあ一つ上の先輩さんですねっ! すごい偶然……むむっ?」

「同世代の子がお隣さんとか気楽でええわぁ、これからよろしゅう頼んま…………にゃにゃっ?」



 ……………………



「…………部屋、間違えてへんよな?」

「わたしの部屋ですよっ?」

「せやなあ?」

「この人は、先輩の廣瀬さんですっ。一緒の部活なんですよっ。中学の頃からずっとお世話になってるんですっ…………あの、世良文香さん、ですよね? 廣瀬さんの幼馴染の……あれっ? 」

「…………ほええ~?」



 ……………………



「……なにしとんねん、お前」

「…………こっちの台詞やけどな?」

「ホンマにそう思う?」



 天丼。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る