655. 尻尾を掴んだ
玄関まで荷物を運んでやった夏休みの来訪を初回に数えれば、楠美家へやって来るのはこれで三度目。
上大塚駅から徒歩十分と少し。閑静な住宅街においても一際インパクトを放つ小綺麗な戸建て住居だ。市川邸と比べれば一般的な部類だが。
「合図を出すまで絶対に入らないでください……絶対ですよ……!」
さしもの琴音も、なんの用意もせず自室へ招き入れるのは抵抗があったのか。部屋の前で暫し待機中。
ゴリ押しでここまで来てしまった手前如何な言い分かとは思うが、両親不在の隙を縫って自宅へ男を上げる不用心さと言ったら。俺が春休みの間、他の連中とどこで何をして来たか知らないでもないだろうに。
なんて、今更論ずるに値しない議題だ。それらを重々承知した上で、ただ一人、俺にだけ権利が与えられている。
もっとも、琴音がどこまでその危険性を理解しているかは分からない。琴音の難しいところはこれだ。当人にどこまで自覚があるのか今一つ読み切れない。
「……ど、どうぞ」
「悪いな気ィ遣わせて」
「お構いなく……」
五分ほど経った頃、琴音は半開きのドアからひょっこり顔を出す。一応警戒はしているようだ。この期に及んで、という気もしなくもないが。
整理整頓の行き届いた綺麗な部屋だ。少し殺風景にも見えるが、ベッド上にデカデカと鎮座するドゲザねこのぬいぐるみが程良いアクセントになっている。改まって掃除や下準備が必要だったとは考えにくい。
「お茶とお菓子を持って来ます、少し待っていてください……変なところ触ったりしないでくださいね。すぐ分かりますから」
「はいはい」
小走りで部屋を出ていく。視線は気持ち学習机に向かっていた。なるほど、そこに何か隠したいものがあるんだな。早速荒してみよう。
縁もゆかりもない大量の参考書が並んでいた。その下に写真盾、小学校時代のものと思わしき比奈とのツーショット。
前に聞いたことがある。富士登山に行ったというアレだ。二人とも全然変わらないな……そして着込んでいても分かる胸部の存在感。この頃から健在か。
っと、それも良いけどお目当てはこっちじゃない。やはり引き出しだ。一段だけ厳重に鍵が掛けられている。間違いなく何か隠してある。
詰めの甘い彼女のことだ、鍵そのものを見つけるのは容易い所業だろう……と高を括っていたら本当にすぐ見つかった。開いていた引き出しのすぐ手前。
「実は隠す気無いのか……ッ?」
諸々心配になって来るところではあるが、ここまで来て善人ぶるつもりは毛頭無い。さてさて、どんなものが入っているのやら。
(これは……日記か?)
B5判のコンパクトな冊子だ。表紙は傷が付いていて、長いこと使い込んでいるのが分かる。今どき真面目に日記を付ける人間も珍しい。マメな性格はこんなところにも表れる。
パラパラと捲ってみる。
一番古い日付が去年の四月か。
『4/20 晴れのち曇り
八冊目。今となっては惰性で続けている側面も否定出来ないが、日々のルーティーンとして今年も続けてみようと思う。中身は年々薄くなっている。私のような空っぽの人間には相応しい凡作である』
「お、おぉっ……」
日記は三日に一度のペースで綴られている。琴音らしい簡素でお堅い文章だ。これは興味深い、琴音の内面を知れるまたとないチャンスだ。戻って来るまでに全部読み切れるかどうか……。
『5/14 快晴
今日も今日とて退屈な学校生活。自身の不甲斐なさを恥じるばかり。比奈が居なければ誰かと会話さえ出来ない。比奈と一緒に居たいがために山嵜へ来たのに、どうしてこうなってしまったのか』
『5/17 曇り
比奈の教室を覗いてみた。去年同じクラスだった長瀬さんと仲が良いらしい。体育の授業では余り物同士、何かとお世話になった。良い人だとは思う』
『5/20 晴れのち曇り
放課後。やたら比奈が浮かれていたので何事かと問い詰めてみる。結局はぐらかされてしまった。怪しい』
『5/22 曇り
ついに尻尾を掴んだ。なんでも男と二人で出掛けるそうだ。絶望。比奈に色目を使った下種野郎はいったい誰だ。必ず突き止めてみせる』
『5/25 快晴
よく分からないことになった。予想通り、比奈を連れ回していた男はどことなく冴えないヤンキーであった。いかにも女慣れしていそうな下種野郎である。
しかし、当の比奈が満更でもない。更に話の流れで、フットサル部というものに加入することになった。意味が分からない。
とはいえ、比奈と同じ部活という一点において吝かではない。山田か佐藤か忘れたが、あの男の存在に目を瞑れば我慢出来ないことも無い。
上手く説得して二人で退部する機会を窺うとする。負けっぱなしで終わるのも気に食わない』
出会った頃の印象の悪さを物語る一文である。比奈を説得して辞める気満々だったんだな。ちょっと悲しい。名前すら覚えられていない。
この頃から日記は一日一回のハイペースで綴られている。琴音はまだ戻って来ない。もうちょっと読み進めてみよう。
『5/26 曇りのち雨
フットサル部の全貌が見えて来た。長瀬さんに加え、金澤さんも部の一員であることが分かった。これならあの男も迂闊に比奈へ手出しは出来ないだろう。一旦様子見とする』
『5/27 雨
金澤さんにやたら絡まれる。面倒。とはいえ、比奈以外の女性とここまで話したのは久しぶりだ。良い人だとは思う。でもやっぱり煩い』
『5/28 晴れのち雨
練習は雨で中止になった。顧問を探したのち、比奈、金澤さん、あの男の四人というよく分からない構成で晩食へ。長瀬さんはアルバイトらしい。
金澤さんはすごく煩い。比奈は楽しそうにしていた。私と一緒にいるときより楽しそう。不満。比奈の計らいで、何故かあの男の隣に座らされた。不快』
『5/29 快晴
初めての活動。そこそこセンスがあるようだ。当たり前である。縁の無いスポーツだろうと誰かに劣るなどと決して許されない。
例の男だが、ここまで比奈にちょっかいを掛ける様子は無い。むしろ長瀬さんや金澤さんと一緒にいる時間が多い。比奈が目当てでは無かったのだろうか。鞍替えしたのか。芯の無い男だ』
まだまだ評価は低い様子。だが瑞希のゴリ押しで、ちょっとずつ部内の空気には慣れて来ているようだ。
その後も似たような文面が続くが、早くフットサル部を辞めたいという記述は以降一切見受けられない。順調に絆されている。
『6/2 曇り
比奈がお二人と馬鹿騒ぎしている間、基本的に私はほったらかしである。同様に暇そうにしている彼と必然的に二人になる機会が多い。
名前をまだ覚えていない節を明かすと、結構本気で落ち込んでいた。見た目はヤンキーそのものだが、案外普通の人間である。廣瀬陽翔。画数が多い』
『6/3 快晴
サッカー部と揉めて、何故か試合をすることになった。どう考えても勝ち目はまったく無いが、長瀬さんの熱意に免じ協力することとする。
ところで彼は、どうやら私と仲良くなりたいらしい。私を可愛いなどと抜かす。理解不能。きっと比奈との仲を取り持って貰いたいだけだ。そうに決まっている』
『6/4 快晴
試合に向けた本格的な練習が始まった。なんとなく気付いてはいたが、長瀬さんと金澤さんはもの凄く上手い。もしかしなくても、私が足を引っ張ることになるのだろう。困った。
私と比奈の面倒は彼が見ている。意外にも面倒見が良い。比奈に良く思われたい一心だろうが、嫌な気分でもない。良い気分でもないが』
『6/5 曇り
学校のコートが使えず、校外での活動。ゴレイロというポジションを任されることになった。一番下手くそな私でも少しは貢献出来るかもしれない。でも、二人のプレーを見て自信を失った。同じ女性とは思えない。
彼が付きっきりで練習を見てくれた。態度は厳しいが、私の体力に合わせてくれる。いけ好かない男だが、根っからの悪人というわけでは無さそうだ。
偶に見せるどこか寂しそうな表情は、いったいなんなのだろう。気にならないと言えば嘘になる』
『6/10 雨のち曇り
キャッチングが見違えて上手くなったと、彼は手放しで褒めてくれた。成績以外のことで人に褒められたのは随分と久しい。悪くはない気分。いや、こんなところでくらい正直に言おう。少しだけ嬉しかった。
上手くなったご褒美だなんだと言って、帰りにジュースを奢ってくれた。見ず知らずの男性に物を与えられ、素直にありがとうなどと口にした自分に驚いた。
廣瀬陽翔。前髪で目が見えない点を除き、案外真っ当な男である。しかし、すべて明け透けというわけでもない。なにかを隠している。そんな気がする』
『6/11 晴れのち曇り
練習中、長瀬さんと喧嘩して彼はコートを飛び出して行った。嫌な予感がする。彼はなにを悩んでいるのだろうか。聞きたくても、深入り出来るような関係ではない。モヤモヤする。
今日はセービングの練習だと言っていたのに、結局戻って来なかった。約束を破られた』
『6/12 雨
練習は中止。彼は談話スペースに現れなかった』
『6/15 雨
練習を強行。彼は今日も姿を見せない。
四人で晩食。どことなく空気が重い』
『6/16 雨
本格的に梅雨入りの兆し。練習は一時間で切り上げ。学校で廣瀬さんを見掛けたが、無視されてしまった。声を掛けるべきだっただろうか』
『6/17 雨のち曇り
今日も練習に現れなかった。
最近、彼のことばかり日記に書いている』
『6/18 雨
長瀬さんが強豪だという学校を辞め、山嵜へやって来た話を聞かされた。彼女が時折垣間見せる不安や焦燥の一端を知った。
成り行きで加入したフットサル部だが、ここまで来ては部外者を気取ることなど出来ない。サッカー部に勝つため、私なりに出来ることをしたい。
どうすれば彼は戻って来るのだろうか。友人ぶるつもりは毛頭無いが、フットサル部にとって、そして私がプレーヤーとして少しでも貢献するために、彼の力が必要だと思う』
『6/19 雨
ラインでメッセージを送った。彼は読んでくれるだろうか。余計なことを書き過ぎてしまった。やっぱり読まれたくない。でも、読んで欲しい』
『6/24 曇りのち雨
試合に勝った。彼は戻って来た。色んなことがあって、ここには書き切れない。だが今日起こった出来事を、私は生涯忘れないだろう。
試合に勝ったこと。少しだけ貢献出来たこと。比奈がゴールを決めたこと。彼が戻って来てくれたこと。私と友達になりたいと言ってくれたこと。
私みたいな人間でも、こんなに幸せな気持ちを抱くことが出来るのだ。ずっと足りなかった何かが、いとも簡単に埋まってしまった。そんな気がした』
綴られた日々は夏休み、そして秋へと向かう。
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