611. いろんな角度から嗜虐心を煽って来る
「本物だぁ……本物の琴音だぁ……ッ!」
「他に誰がいると言うんでっ、むぐう!?」
「ちゃんと服着てるゥゥ!!」
「あっ、当たり前ですッ!?」
平静を取り戻し、酸欠状態の彼女に気が付いたのは暫く経ってからのことである。
瑞希へ「琴音に見つかった」という趣旨の連絡を送り銭湯からの脱出。
「つまり、私と背格好の似た変質者に襲われたと」
「うん」
「信じません」
混浴で起こった出来事を包み隠さず話すと琴音は更にへそを曲げてしまう。
相手があの日比野であるとまでは伝えなかったが、早足で温泉街を練り歩く背中を追い掛けるに機嫌は宜しくないご様子で。
結局ご飯を食べさせただけでロクに相手をしてやれなかったルビーへのフォローは後々考えるとして、まずは膨れっ面の理由を聞いてみるとしよう。
「……お二人と混浴をする気満々だったんでしょう。要するに。交際関係にあるわけでもないのに、なにを考えているのですか」
「冷静に考えればごもっともな指摘ではある」
「反省の色が窺えません」
「アタマ瑞希状態なんで」
「……だとしても、ですっ」
彼女にすれば真剣さに欠けた説明だったようで。声色も呆れを通り越して、街並みを彩る湯気に混じって宙へと消えていく。
仕方ないことだ。琴音と遭遇出来て尋常じゃない安心感に浸っている俺とでは釣り合いが取れない。諸々の。なにがと問われれば、分からないけれど。
「一緒に入りたかったとか?」
「ばっ、馬鹿なんじゃないですかっ!」
適当なジョークでお茶を濁すが効果は見られない。何かと無防備である一方、貞操観念は部内で最もしっかりしている彼女のことだ。
いくら俺たちの間柄とは言え、この手の話題には関わり合いになりたくないのだろう。
指先まで真っ赤にして全力で否定する辺り、興味が無いわけではなさそうなのがまた。
いろんな角度から嗜虐心を煽って来る。つまり琴音だ。いつも通りの琴音だ。
「結局何時に起きたんだ?」
「……それがなにか?」
「いや、よくよく考えれば琴音と愛莉には不利なルールだったなって」
「私がこんな意味不明のゲームに進んで参加していると、本気で思っているのですか?」
「でも俺のこと探してたんだろ」
「…………これを渡したかっただけです。他意はありません。貴重な睡眠時間を削って貴方を探し呆ける意味が無いので」
「俺との時間より寝るほうが大事なのかよ。悲しいわ。泣きたい気分だわ」
「真顔で言われても説得力に欠けます」
流石に調子に乗り過ぎたか。瑞希と一緒にいるノリで進めると一向に状況が好転しないのでこの辺りにしておこう。
プイッと顔を逸らし右腕を突き出す。握られているのは長細い券封。どうやらこれが誕生日プレゼントらしい。
「映画のチケット?」
「ドゲザねこのアニメ映画です。観に行くと約束したじゃないですか」
「あー……あったなぁそんなこと」
「本当に覚えているんですか?」
「忘れるほうが無理やろ逆に」
家出騒動のときに俺の部屋でアニメを見て、そんなことを言っていたな。確か年明けに映画をやるとかなんとか。
勿論覚えてはいる。ドゲザねこの映画という激しく気乗りしない内容なのはさておき、他でもない琴音に誘われて断る理由など一つも無い。
でも、分かっているのだろうか。この人。
デートの取り付け以外の何物でもないんじゃ。
「なにが俺より寝る時間のほうが大切だよ。結局誘ってんじゃねえか」
「そ、それはっ……仕方ないんです、比奈はどうせ断るでしょうし、貴方以外に誘える人がいないんですから……」
珍しくシュンとしているが、言葉通りに受け取るべきではないと思った。誰もドゲザねこの映画に興味が無いのも事実だろうが。
「まっ、タダで映画観れるってならなんでもええわ。じゃあこの日は二人でデートな」
「で、デートじゃないですっ。ただ映画を観に行くだけです。勘違いしないでくださいっ……」
「もはやその言い分もどうかと思うで」
「う、うるさいですっ!」
券封を無理やり押し付けまたも先を急ぐ彼女。
どうやら鬼ごっこに積極的でないというのは本当のらしい。自身に不利な条件だったことも、彼女にしてみればどうでも良いことなのだ。
早起きも探し物も、琴音の得意分野ではない。自分のフィールドに引き込んで、しっかり準備をしたかったのだろう。
いや、なにその高度なツンデレ。
ちゃっかり解析している俺も俺で凄い。
褒めて欲しい。気持ち悪いよって。
「取りあえずさ、ルール上は琴音の時間やし。別にデートやなくてもええから、適当にその辺ゆっくり歩こうぜ」
「……まぁ、それは構いませんけど」
「暖かそうな格好してんな。右手貸してくれよ」
「お断りしますっ」
手は握らせてもらえなかった。元々そういうのは積極的じゃないし、含めていつも通りか。
まだ混浴の件を消化し切れていないだろうし、これは仕方ない。
「……こっちの気も知らないで、まったく……」
「え、なんて?」
「眼鏡が似合ってないと言ったんです」
「マジかよ。瑞希のプレゼントやで」
「だったら尚更です……それより、ヘアゴムは持っていますか。目が見えない人と一緒に歩くのは嫌です。ちゃんと纏めてください」
「お、おう」
前髪の長さに関してはお前もどっこいどっこいだろ、と喉の先まで出掛けたが一旦手前に引き取る。
大人しく腕に着けていたヘアゴムでざっくばらんに髪を纏め上げると、琴音はいつもに増してボーっとした目で俺の顔を凝視していた。
「なんやジロジロ見て。惚れたか」
「馬鹿言わないでください…………でも、そっちのほうが良いと思います」
「珍しいな、琴音がそういうこと言うの」
「……気紛れです、ただの。ジョークです」
「だとしたら面白くはねえぞ」
「少しは黙っていられないのですか」
気紛れ、ジョーク、ね。冗談の一つも言わないお前がおいそれと使う言葉ではないな。ここは表面通りに受け取ってやるとするか。
ホント、気付かない間にお前も変わるし、ドンドン成長するよ。すっげえ分かりにくいけど。朝と夜で身長が変わるくらいの軽微な差だけど。
それが分かるのが俺だけだなんて。
調子に乗るのも仕方ない話だ。
「で、どこ行こうかね。昼飯は?」
「愛莉さんと食べました。お互い朝ご飯を食べられなかったので」
特に目的も無く温泉街をほっつき歩いている。やはり愛莉も朝食の時間には起きれなかったらしい。ついさっきまで二人で行動していたのか。
「結局別行動してるのか」
「私は構わなかったのですが、一人で行きたいところがあったみたいです。別れてすぐに温泉を見つけて、貴方を発見しました」
「なるほど」
なにか目的があるのだろうか。実は誕生日プレゼント買い忘れてお土産屋に走ったとか。まぁなんでもええわ。今は琴音の相手に集中しよう。
硫黄の匂いに釣られてそちらへ近付いてみると、川に小さな橋が架かっている。何やら案内板があるな。ここも観光名所なのか。
「見返り滝。悪いことをした子どもがこの橋の上から川へ投げ捨てられる伝統が……なんそれヤバ。可哀そう」
「現代では虐待に該当しますね」
「琴音も行っとくか?」
「投げ飛ばされるのは間違いなく貴方のほうです」
「反論の余地もねえわ」
橋を渡ってもう一本ある大きな通りへ。地図とかなんも持ってないから、どこになにがあるのかサッパリ分からない。計画性など皆無。
ラーメンや蕎麦の良い匂いがする、おやつには早いけど、もうちょっと食べておくのもアリか。
結局お昼ちゃんと食べてないしな。二人に奢ったせいでセットのサラダだけだったし。
「心なしか子連れが多いな」
「あっちに大きなホテルがあるので、そちらへ泊まっている観光客の方では」
「みんな川へ投げ捨てに来たとか」
「気味の悪い流行ですね……」
手を繋いで温泉街を練り歩く三人家族を、琴音はなんとも言えぬ微妙な顔で眺めていた。
教育一家の楠美家ではこのような経験があまり無かったのだろう。
思えば文化祭で子どもの相手をしていたときも似たような顔をしていた。今なら分かる。ちょっと羨ましいとか考えているんだ。
「ええよな、ああいうの」
「…………そう、ですね」
「なんや否定せんのか」
「今更ですから……現状に不満があるわけではありませんが、過去の私には縁の無かった光景ではありますね」
「……甘えるくらいは出来んだろ」
「実に難しい相談です」
「でも、ちょっとずつな」
「検討はします」
家出騒動の頃と比べればだいぶ改善されて来た楠美家の内情だが、親子で手を繋いで旅行なんて柄でも、そんな年でもなくなってしまったからな。
なんだったら琴音の場合、自分がお母さんになって子どもと出掛けるほうが現実味のある話だったり。
と、良からぬ妄想でヌクヌクしていた矢先。出店のすぐ脇で一人座り込んでいる女の子を発見する。
買い物をしている両親に待ち草臥れた……というわけではなさそうだ。お気に入りと思わしきぬいぐるみを抱き抱え涙を流している。もしかして。
「迷子でしょうか?」
「見て見ぬ振りは出来ねえな」
「少し待っていてください。事情を聴いて来ます。貴方が声を掛けても逆効果ですから」
「そんなおっかねえ顔してねえよ」
「鏡を見てから言ってください」
「キッツ」
女の子のもとへ駆け寄る。昨日キッズパークで遊んでいるときもそうだったけど、子どもに対しては面倒見が良い。母性に満ちた見てくれの影響か。
さて、偶には見返し無しの人助けでもしてみよう。頼り甲斐のある琴音を隣で拝めるだけでもお釣りは来そうだけど。
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