600. 無限の彼方へ、出発だ


 あり得ない方角から彼女の暴走を塞き止める鶴の一声が飛び込んで来た。振り返った先には、窓をこじ開けて颯爽と部屋へ飛び込んで来た……。



「助けに来ましたっ、陽翔センパイ!」

「ノノちゃん!?」

「どっから入って来てんねん!?」


 やっぱりノノだった。

 背中に何故かリュックサック。


 ベランダは柵で仕切られているだけで隣の部屋と繋がっているから、二つ挟んだこの部屋まで辿り着くことが出来たらしい。が、そうは言ってもではある。着ている浴衣が既に雪でビショビショだ。



「さあセンパイ、ノノの手を! ベランダの下はふかふかの雪です! 飛び降りてもなんら問題はありません! 安全は保障されています!」


 スパイ映画さながらの脱出方法を提案しこちらへ来いと手招きをするが、そうするまでもなさそうだ。

 いつの間にか比奈は掴んでいた腕を離して、馬乗りのままガックリと大きなため息を吐く。



「はぁーっ……見つかったら交代ってルールだもんね。ここで終わりにしよっか」

「えっ……いやでも比奈っ」

「なあに? ノノちゃんに見られながらするの? わたしはそれでも良いけど」

「急に冷めるやん……」


 着崩れていた浴衣を着直してその場へちょこんと座る。雰囲気をぶち壊しにされたのが相当堪えたのか、これ以上続きをするつもりは無さそうだった。


 ……ちょっと惜しいことをした気分だ。というか、このタイミングに限っては邪魔して欲しくなかったかも分からん。



「ごめんな、また今度、必ず。なっ」

「……うん。待ってる。抜け駆けしようとしたわたしが悪いんだから、気にしないでね。でも代わりにノノちゃんとするのはイヤかも」

「そんな流れにはならへんから安心せえ」


 この間ずーっと手招きをしているノノを見る辺り、どう考えても危うい方向へは転がらないことは分かっている。

 見れば分かるのだ。今のノノはおもしろムーブに振り切っている。あり難いのかどうかはさておき。



「すみません比奈センパイ。流石に一回部屋に戻って来た時点で起きていたのです。こうなることは予想の範疇でしたので、敢えて止めました。ここでヤられたら今日のセンパイはずっと煩悩まみれなのです。それだけは勘弁です」

「あははは……ごめんねえ」

「代わりと言ってはなんですが、ベランダから侵入する方法はノノしか知らないので、どうぞ好きなだけ一人で発散してください! これ、お土産ですっ!」


 俺の手を掴んだと同時に、反対の手からなにかを比奈に向けて投げ付ける。それは……宿の枕?



「センパイが一晩使っていた枕です! たっぷり匂いが染み込んでいるのでお供にはちょうど良いのかと!」

「そんな頭皮匂わんわッ!」

「……ありがと。使わせてもらうね」

「使うなッ! 当人を前に宣言するなッ! 顔を赤らめるなッ! まだっ、まだ脱ぐなって! ああもうせっかく着直したのに!?」


 受け取った枕を大事そうにギュッと抱き抱える比奈。収まり掛けていた昂ぶりが再び目を覚ましたのか、枕を懐へ忍び込ませるように……。



「おっと、女の子の情事を盗み見ようなどとお天道様が許しても市川ノノが許さないのです! さあさあセンパイ、ビッグフライトですよ!」

「いやっ、普通に玄関から出れば……」

「そしたら比奈センパイの横を通過するじゃないですか! その僅かな時間にタップリ視姦しようという魂胆ですね! 許しませんよっ!」

「待て待て待て待て待て待てッ!」


 腕を引っ張って寒風の吹き込むベランダへと連れ出される。柵は意外にも低く、少し身を乗り出したら簡単に飛び越えられそうなほどだった。


 助走を付け雪の積もった柵へ足を乗り出し、そのままホテルの外へ……えっ、待って!? 冷静に解説してる場合じゃなくない!?



「無限の彼方へ、出発だああああ!!!!」

「ヴえええ゛えええ゛ええエエエエ゛ェェァァ゛ー゛ーーー゛ッッ!゛?」


 柵を飛び越え空中へダイブ。待って。ヤバいって。一回落ち着こうよ。三階だよ。いくら雪でふかふかだからって、ダメだって。いやもう飛んでる時点で落ち着くもなんもないけどね!? 無理、死ぬッ! 落ちるッ!?



「バゥゥッフ゛!!!!」

「ひゃっほおおおお!! つめてエエー!!」


 ベランダの下は凄まじい降雪量だった。駐車場の壁と隣接しているのか上手いこと高く降り積もっていて、飛び降りた勢いそのままに身体が埋まっていく。


 布団へ飛び込んだかのように身体を柔らかく受け止める。まぁ、メチャクチャ冷たいんだけど。だって浴衣に着替え直してるから! 寒いッ! 凍え死ぬッ!!



「ぷはぁっ! あー、楽しかった! っと、センパイセンパイ、こっちですよこっち! 意外と動けませんっ!? 凄くないですか!?」

「……ホンマ死ぬかと思った……ッ!!」

「あははは! 眠気覚ましにピッタリじゃないですか!」

「んなモンとっくに済んでんだよッ!」


 雪のなかをごろごろと転がりながらゆっくり下へと降りていく、という言い方は正しくない。転げ落ちていく。


 仮にも三階の高さから地面に向かって落ちていくのでこれもこれで結構恐ろしいミッションなのだが、馬鹿みたいにケラケラ笑っているノノを見ていると恐怖もいつの間にか影を潜め始めた。


 というか、すべてが馬鹿らしく思えて来た。生きてるし。寒いだけで生きてるし。なんでもええわ。ちょっと楽しいわ。なんなんこれ。



「はい、といちゃーく! いやー、アクション映画みたいで興奮しました! ジャッキー・ノノと呼んでください! またやりましょうね!」

「二度と御免や……ッ!」


 ようやく地面と再会を果たす。ビショビショの浴衣を絞りながら、ノノは幼子のように無邪気に笑っていた。


 どういう頭の作りしてんだよ。ネジ外れ過ぎやろ。仮にアクション映画だとしたら、絶対にまた似たような危機に陥るだろ。滅多なこと言うな。



「あー、さっむぅ……ッ」

「起きたらお二人だけ居なかったので、逢引中なのはすぐ分かりました。比奈センパイが鍵を持って出て行ったので、これは間違いなくそのつもりだと、あらかじめ雪山の硬度を確認して颯爽とベランダから駆け付ける! 完璧なプランニングです!」

「余計なことしてくれたよホンマに……!」


 忘れようにも忘れられない最高にイカレた思い出が一つ出来たところで。


 確か部屋を飛び出たのは7時前。あと少しで朝食の時間なわけだが、ノノはこれからどうするつもりなのだろう。

 あんな派手なアクションで飛び出しておいて、着替え直してノコノコと食事処へ戻るつもりか?



「すぐ近くに朝から空いてるうどん屋さんがあるんですよ。せっかくなのでそこで食べましょう」

「いや、この格好で? 財布は?」

「勿論このリュックの中です。用意周到と褒め尽くしてください」

「だから恰好は?」

「着替えも入ってます! センパイのも!」

「どうやって調達したんだよ」

「センパイがご自分の部屋から出て行ったあとに駆け付けました! こうなることはすべて予期していたのです!」

「すげえけど褒めたくねえよ……」


 リュックを広げガサゴソと荷物を取り出す。って、靴まで回収済みかよ。本当にここまでの流れを予測していたのか、怖いよ逆に。


 どうやら宿へ戻るつもりは無いらしい。外へ出る準備だけは出来ているみたいだから、取りあえず付き合ってみるか……どちらにせよ見つかったら交代というルールなわけだし、それに則れば今はノノの時間だからな。



「さあさあゴーゴーです! あっ、タイム。流石に着替えさせてください。寒すぎ……ヴぇっくしゅッ!!」

「着いてけねえ……」

「ちょっと待っててください。着替えるんで」

「ここで? ここでですか?」

「誰もいないですし、今更センパイに見られて困るものもありません。むしろすべて見てください」

「もう好きにせえ……」


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