406. Boyhood 2-1
「はーくん。卒業おめでとさん」
「…………なんこれ」
「なにって、卒業祝いに決まっとるやろ? まぁ買うたのはウチやなくてオカンやけどな。せやかて今のはーくんに必要や思て、ウチが選んだんよ?」
例年を遥かに下回る平均気温の影響か。3月下旬には見頃を迎えている筈の桜が、蕾のまま冷たい風に揺られていた。
小学校の卒業式を迎えた今日。目元にまで伸びたバサバサの前髪を指で掬い、痛みにも似た厳しい表情を浮かべる。
同級生たちが家族や友達と記念写真に講じる最中。やや薄汚れたブカブカのワイシャツを靡かせ、そさくさと学校を後にしようした陽翔少年を、文香とその家族が呼び止めた。
「まずはこれね。幼稚園の頃からずっと貯めていた写真が結構な数になったから、どうせならアルバムにしちゃえばって文香に頼まれたの。今日の写真を加えればついに完成よ」
そう言って文香の母が陽翔へ手渡したのは、学校から配布された卒業アルバムの半分にも満たない薄手の冊子であった。
「陽翔くんのことだから、卒業アルバム、買わなかったんでしょう? 必要かどうかはともかく、やっぱり小さい頃の写真って、幾らかは持っておいた方が良いわ。大人しく受け取って? ねっ?」
「…………すんません。色々と」
「いいんだよ。気にしないでくれ。陽翔くんはもうウチの家族同然なんだから……今日くらいご両親とお話したかったんだけれど、やっぱり来ていないのかい?」
「仕事です。今日も。普通に」
吐き捨てるように呟いた陽翔を前に、文香の両親は物憂げに顔を見合わせる。分かり切っていることを今更聞くな。そう言いたげな彼の表情が、これ以上の追及を留まらせた。
最後に学校行事で顔を合わせたのはいつだっただろうか。彼が5年生のときの三者面談で、偶然にも校内で出くわしたことを文香の母は思い返す。
その時でさえ彼の母親は足早に立ち去ろうと話を急かすばかりで。会話らしい会話をした記憶も見当たらない。
以前にも増して笑わなくなってしまった。
居心地悪そうに佇む彼を前に、文香の母は物思いに耽る。
旦那は大手商社。自身はコンサル業界で働いている。出先での仕事がほとんどで、自宅に戻るのは月に一度か二度。息子の面倒は自身の両親、陽翔の祖父母に任せ切りになっている。
家族の関係を蔑ろにしているつもりは無いが、陽翔も自分より祖父母に懐いているし、自身も旦那もあまり好かれていない。
解決しようにも、時間があまりにも足りていない。彼が娘と出逢ったばかりの頃、陽翔の母親はそう語っていた。
もっとも、文香の母はそんな陽翔の母親の言葉をあまり信じていない。陽翔が小学校へ上がる少し前に祖父母が他界し、家族ぐるみでの付き合いはほとんど無くなった。
娘の文香が彼をあちこちに連れ回そうとしても、母親は「いつも任せてしまってすみません」と一言メールを入れるばかりで、それ以上は干渉しようとして来ない。父親にしても同様だ。
意図的に陽翔の存在を避けようとしていることに、文香の母も父親も、示し合わせる必要も無く気付いた。
陽翔がどれだけサッカーの大会で結果を残そうとも、一度だって会場に顔を出そうとしない。彼を応援するのは、いつだって試合を観に行きたがる文香と、その両親の役目だった。
人の家は、人の家だ。
それぞれに事情がある。
易々と他人が踏み込んで良い領域でないことは、文香の両親も重々理解している。それでも疑念は、不満は尽きることは無かった。
試合を終えた彼に声を掛けると、陽翔は深々と頭を下げたのち、いつも他の誰かを目で探している。そして忌々しそうに顔を顰め。人知れずため息を残しその場を去っていく。
あれだけ無愛想で大人びた少年が求めている数少ないモノが、たった二人の存在に起因することを分からないわけがなかった。
前日に彼の母親へ送ったメールには、いよいよ返信が来なかった。彼だけではない。陽翔に纏わるすべての要素を、あの二人は徹底して自身から遠ざけようとしている。
(こんなに素直で、可愛らしい子なのに)
廣瀬陽翔という人間と真正面から向き合った、正直な感想だ。感情表現に乏しい一面はあるが、見た目よりもずっと分かりやすくて、冷静を装うようで案外感情的。抜きん出たサッカーの才能を除けば、どこにでもいる、普通の少年だ。
そんな彼のことを、文香の両親も自分の娘へ対するモノとそう変わらず接して来た。娘がこれだけ信頼を置いているほぼ同世代の男の子と来れば猶更。
だが、それでは足りないのだ。
彼に必要なのは、世界にたった二人。
誰にでも与えられる、無償の愛情。
ただそれだけのことなのに。
一番必要なものだけが、彼には欠けていた。
「それと、これな。ウチが選んだんや」
「…………腕時計?」
「これからも色んなところ行って、仰山試合するんやろ? 中学なん上がったら海外遠征とかもあるんやってな。ほら、活躍すればテレビの取材とかされるかも分からんし、時計の一つ着けとらんとカッコが付かへんで?」
「……時差あるやろ。いちいち設定直すのメンドイやんけ」
「とにかく、ええのっ! プレゼントなんやから!」
「…………まぁ、そういうことなら」
「ほら、ウチが着けたげるわ」
強引に押し切って、文香はケースから時計を取り出し陽翔の右腕へ巻き付ける。
左利きやねんから、時計は右に着けなアカンな。楽しそうに呟いた文香の姿を見て、母親は思わず笑みを溢した。本当に彼のことをよく理解している。
そして彼が自分を思う以上に、彼のことを愛している。脳裏を巡る、幼馴染を一途に想い続ける娘の逞しさと、それに準ずる少年への複雑な感情。
自分を愛してくれる人が、すぐ目の前にいる。
なのに、彼は気付いていない。
当たり前だ。
彼は知らないのだから。
人に愛されるということを。
愛情とは何か。
彼には、理解出来ない。
「私たち、なにも出来なかったわ」
「……そんなこと無いさ」
「いいえ。文香にも、陽翔くんにも。伝える勇気も無かったのよ、私たち……でも、どうしようも出来ない。どうすることも、出来ないのよ」
「……文香なら大丈夫さ。彼にどう思われようが、それは重要じゃない。大切なのは、彼に寄り添い、隣に居ること。彼を心から想い続けること。それだけだよ。彼もいつか、気付いてくれる」
夫の優しい言葉に、文香の母親はそっと肩を寄せ。無邪気に笑う娘と、少し迷惑そうに眉間へ皺を寄せる少年の様子を暫し見つめていた。
まず初めに教えるべき、与えるべき人間が、彼を見ていない。認めようとしない。そんな状態で、分かる筈が無いのだ。
娘の想いは、きっと届いていない。
それでも、いつか。いつの日にか。
彼を本当の意味で「救う」ときが、必ず来る。
そうでも思い込まないと、誰も彼も、やっていけなかった。
小さな少年を覆い隠すあまりにも暗い影は、陽の落ち始めた春の夕暮れと似て。終わりが見えない闇のように、どこまでも伸びている。
「なぁ、写真! 写真撮ろうやっ! パパっ!」
「ああ、いいよ。陽翔くん、良いだろ?」
「…………お好きにどうぞ」
「じゃあ、私も写っていい?」
「あったりまえやろ! ママ、早く早く!」
文香の父親がカメラを持ち、文香は猫のように陽翔へ身体を預け満面の笑みを浮かべる。
そんな娘の姿を母親は微笑ましく見つめ、二人の頭を優しく撫でていた。
まるで本物の家族のように写真へ納まる三人は、周囲に散見される姿と何一つ変わらない。ありふれた卒業式の一幕が、間違いなくこの場所にも存在していた。
気休めにしかならないだろう。
傷を癒すには、足りないだろう。
それでも、彼には必要だ。
例え笑うことが出来なくても。
いつかこの写真を笑って見返す日が来る。
フラッシュが焚かれ陽翔は目を曇らせた。
少年は、相も変わらず不満だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます