401. Boyhood 1-2
「それじゃあ一の段から九の段までしっかり覚えたら、先生のところに来てね。はい、スタート!」
女性教師の号令と共に、教室には子どもたちの元気な話し声が一斉に響き渡る。近くの席の子らと九九を言い合いながら覚えていく。二時間目は算数の授業だ。
目いっぱいに広がる微笑ましい光景に、女性教師は思わず頬を綻ばせた。ところが、教室の奥で一人、ノートへ一心不乱に何かを書き込んでいる少年の姿を見つける。
隣の席の子と協力して、という言い伝えを守っていないわけだから、少年の隣で困った顔を浮かべている女の子の様子を顧みても、注意をしないわけにはいかなかった。
「廣瀬くん。今はなんの時間ですか?」
「…………んむ?」
「学校に音楽プレーヤー持って来ちゃだめって、前にも言ったでしょ! イヤホンも外す!」
「むっ……」
女性教師は机に置いてあったプレーヤーを回収し、耳に着けていたイヤホンも強引に取り外す。あからさまに不満げな表情を浮かべた少年。
「今は算数の、九九の勉強の時間でしょ? みんなやってるんだから、廣瀬くんだけ別のことだけしちゃだめ。いい?」
「…………もうおぼえとるし」
「ならもっとだめ。先生のところに来て、しっかり暗唱しないと。まったく、授業中に音楽聴くなんて高校生じゃないんだから……」
取り上げたプレーヤーを起動させイヤホンから流れる音楽に耳を傾ける。予想もしていない意外な選曲に、女性教師は思わず眉を顰めた。
「……英会話のレッスン?」
「んっ」
「廣瀬くん、英語の勉強してるの?」
「……こっちのほうが、しょうらい役に立つ」
「うーん……確かに英語の勉強も大切だけど、今は算数の時間だからなあ。それはちょっと困るんだよねえ」
悪びれもせず、授業に参加しようとしない不真面目な態度はともかく。少年の意外な一面に女性教師はやや尻込みしてしまった。
この春から受け持つことになったクラスのなかで、少年は一際浮いた存在であった。
授業はいつも上の空。休み時間も誰とも会話を交わさず、ただ一人で黙々とサッカーボールを蹴るか、ノートに何かを書き込んでいる。
帰りの会が終われば、ランドセルとは別に持ち込んだ体格に似合わぬエナメルバッグを引っ提げ、一目散に教室を飛び出ていく。
まだまだ2年生だというのに、周りの子どもたちがあまり興味を示さない電子機器の類を当たり前のように持ち込み、それに没頭している。傍から見ても不思議な子だった。
それでいて、まさか先立って英語の勉強をしていたとは露にも思わず。女性教師はついに気になってしまい、少年の話を聞いてみることにした。
「ごめんね、相沢さん。お隣のグループと一緒にやっててくれないかな? 廣瀬くんには、私から言っておくね」
「はーい」
少年とペアを組むはずだった女の子に声を掛け、女性教師は少年と同じ目線のところまでしゃがみ彼に話しかける。
「廣瀬くん、どうして英語の勉強を?」
「…………外国でしゃべるから」
「将来は海外に行きたいんだ?」
「……行くだけじゃない。かつやくする」
「活躍?」
「サッカーのほんばは、ヨーロッパだから。えいご、スペインご、ドイツご、イタリアご……ポルトガルごもしゃべらないと。コミュニケーション、とれない」
「そっかぁ……サッカー選手になりたいんだね」
クラスを受け持ってから日の浅い女性教師は、他の教師から常々聞いていた噂を思い出した。この代の男の子で、サッカーでとても有望だが少々手の掛かる子が居ると。
しかしどうにもコミュニケーション能力に難があり、口数が少ない割には、刺々しい態度で同級生をよく泣かせている。
なるほど、廣瀬くんのことだったのか。女性教師は一人ごちると、優しくも厳しい瞳を向け少年に問い掛ける。
「ねえねえ廣瀬くん。確かにいろんな国の言葉が話せるのは、とっても大切なことだけど……それよりももっと大事なことがあるよ」
「…………なんそれ」
「ちゃんと人の目を見て話すこと。今はノートじゃなくて、先生とおしゃべりしてるんでしょ?」
「べつに先生としゃべってるつもりない」
「あ、そうっ……」
間違いない。手の掛かる子だ。
改めて噂に納得した女性教師であった。
「いい廣瀬くん。言葉が通じても気持ちが通じなきゃコミュニケーションにはならないよ。だって廣瀬くん、いま先生とお喋りしてると思ってないんでしょ?」
「…………むむっ」
「外国の言葉が話せても、日本語ができないって言われちゃうよ。それは嫌じゃない?」
「……ちょっといやかも」
「なら先生の目を見てお話しようね。ほら、もう九九言えるんでしょう? 先生のところに来て、教科書にはんこ押してあげるから。そうしたら英語の勉強してていいから。ねっ?」
「…………めんどくさ」
なんて不機嫌に呟きながら、席を立ち黒板横の教諭机に向かう少年。女性教師はホッと息を吐くのであった。
ただ遊んでいるだけならともかく、しっかりと目的を持っているのであれば。それほど強く注意をしなくても、彼なら分かってくれる。そんな確信を得てこその態度だった。
ともすれば、あまり真面目に参加しようとしない算数の授業も。彼が興味を持ってくれるように努めるのが先生の役目。そう考えれば、なんてことはない。
女性教師は「九九覚えました!」の文字が刻まれたはんこを片手に、少年へ笑い掛ける。
「さあ、廣瀬くん。どうぞ!」
「…………いんいちがいち、いんにが、に……」
「うんうん、その調子!」
「にいちがに、ににんがし、にさんが……」
「にさんが?」
「……………………あれ。なんやっけ」
「ひーろーせーくーん?」
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