191. 最低だろ


 膝上辺りをギュッと掴み、潤んだ瞳でこちらを見たと思ったら、すぐに逸らしてしまう。緊張していますと全身に書き連ねているようで、見ているこっちまで心拍数に影響を及ぼすほど。


 今や二人のみのプライベートな空間と同義になってしまった以上、その言葉を遮るのは、ひたすらに彼女自身の意思のみに他ならない。滲むような暑さも、頬を掠める夜風も、なんら弊害にはならない。



 予想はしていた。

 この広場で、なにが起こるのか。

 彼女が、なにを話すつもりなのか。


 有希もこの広場が世間一般でどのような呼び名で呼ばれているか。施設そのものがどのような関係性の人間たちを呼び込もうと銘打っているのか、知らない筈がない。


 事実、先ほどまで広場に群がっていた若者の多くが、男女二人のカップルばかりで。そんななかに紛れ込んでしまった俺たちが、周りからどんな風に見えているのか。


 知らないとは言えなかった。

 気付かないフリも、出来なかった。



「……ゆっくりでええよ」

「…………はいっ……」


 大きな深呼吸を一つ、二つと挟んで、彼女は姿勢を正し、再びこちらを見据えた。まん丸で、澱みが無くて、大きな瞳だ。どんな装飾よりも説得力がある。彼女の美しさを。勇気を示すには。


 なら、ここで言葉を挟むのは、あまりにも邪道で、実に気が利かない。最も、これから起こる出来事をそう手軽に流してしまうほど、俺とて愚鈍では無かったが。


 

「……初めて、廣瀬さんが家庭教師として、私の家に来たときのこと。まだ覚えてます。背が高くて、髪の毛で目が見えなくて、ちょっと怖いなって、思いました」

「……そりゃ悪かった」

「でもっ……お母さんからすごく頭が良い人だって聞いてたからっ……私が嫌がって、伯父さんに迷惑を掛けるのも駄目だって思ったし……それに、廣瀬さんにも失礼だと思って……」


 俺と有希の関係は、彼女の母親と、俺が暮らしているアパートの大家である老紳士が親戚同士であり。偶々バイトを探していた俺が大家の計らいで、早坂家への家庭教師を頼まれたことから始まったものだ。


 俺と大家、有希ママの三者の間でとんとん拍子で話が進んでしまい、実際に有希と顔を合わせたのは初めて早坂家を訪れた日が初めてだった。


 確かに、当初はここまで仲良くなんて無かった。むしろ彼女が話す通り、得体の知れないおっかない男が突然現れて、だいぶ緊張というか、警戒している様子さえあって。



「…………でも、私が思っていたより、廣瀬さんは、ずっと……ずっと優しい人で……ちゃんと問題が解けたらしっかり褒めてくれることも……私の他愛ない話を真面目に聞いてくれることも……テストで良い点を取ったら、一緒に喜んでくれたことも……すっごく、嬉しくてっ……!」


「わたしっ、初めてだったんですっ……! 廣瀬さんみたいな、年上の男の人とお話しするのっ……私の知らないことをたくさん知っていてっ、でもっ、私の知っていることを、廣瀬さんはあんまり知らなくてっ……廣瀬さんと過ごす時間がっ、わたしにとっては全部が新鮮でっ、幸せでっ……!」


「……わたしっ、一人っ子じゃないですか。ずっと、お兄ちゃんか、お姉ちゃんが欲しいなって、思ってたんです。だからっ、本当にお兄ちゃんが出来たみたいで……嬉しかったんです……っ!」


「……でもっ! やっぱり違うんですっ!! わたしっ、もう廣瀬さんのことっ、お兄ちゃんの代わりとは思えないんですっ! そう思っていた方がっ、ずっと楽だって分かってたけど……! でも、やっぱり違うんですっ……!」


 溢れ出す涙の理由まで、察する気にはなれない。


 正確に言えば、俺だって彼女と似たような心境で。喜び半分。戸惑い半分。その僅かな隙間を縫って現れる、罪悪感。



「…………廣瀬さんはっ、わたしのこと、子ども扱いしますけど……妹みたいだなって、思ってるかもしれないけどっ……こんなこと言われて、馬鹿だなって思うかもしれないけど……っ! でもっ、私は違うんですっ……! ちゃんとっ、廣瀬さんの隣に立っていても、馬鹿にされないようなっ…………妹じゃ、ただの先輩後輩じゃ、イヤです…………ッ!」


「……でもっ!! 廣瀬さんにはっ、フットサル部の皆さんがいるからっ! わたしっ、きっと邪魔者なんじゃないかって!! 私なんかより、お似合いの方がいるって、分かってますっ! 分かってますけど! でもっ、もうっ、分かんないんですっ……! 自分がどうすればいいのかもっ、なにも……っ!!」


 涙と鼻水でグチャグチャになった顔を、両手で必死に抑えながら言葉を紡ぐ。言いたいことが上手く纏まらなかったのか、そのまま涙を流しながら顔を隠すように俯いてしまう。


 これ以上、任せることもないか。



「……よしよし。よう頑張ったな」

「……そうやって子ども扱いしてぇっ……ッ!」


 髪の毛を掬うように撫でた俺の右手とは対照的に、胸元に収まる彼女はやや乱暴に、心臓の辺りをぽかぽかと叩く。


 子ども扱いしていることは、全面的には否定できないけれど。でも、それだけではない。それ以上に、お前に思うところがあるってことも。しっかり、伝えないと。



「……大丈夫。有希、お前はちゃんと、お前が思っている以上に、可愛い女の子だから。馬鹿になんてしねえよ。俺だって、普通に緊張してんだから」

「…………ほんとうですかっ……?」

「本当だって。ほら、この辺触ってみろよ」

「…………すごいっ、バクバクしてますっ……」


 手を取って、心臓の近くにまで持って行く。彼女の言い表しようのない感情を納得させるには、これが最善だろうし、これしか無いのだろう。


 右手はそのまま、彼女の頭を撫でながら。左手は、肩に置いて。すっかり縮こまってしまって、いつもよりずっと距離の開いた身長差を埋めようとする。


 胸元から見上げる潤んだ瞳に、こっちだって目を逸らしたくもなるけれど。でも、悠長なことは言っていられない。彼女は勇気を出したのだから、俺だって同じ熱量で答える義務があるだろう。



「……ありがとな、有希。お前がそういう風に、俺のこと考えてくれてるって、ちょっと信じられねえけど。でも、嬉しいよ」

「…………はいっ……」


 決定的な一言こそ彼女の口からは出てこないが、わざわざ声に出すまでもないことである。大袈裟なくらいにハッキリと頷いたその反応だけで、十分過ぎる。



「……俺の話、聞いてくれるか」

「……はい、聞きますっ……」


 これだけ落ち着いているのにも、理由があった。

 この胸の高鳴りを緊張と呼ぶなら、少し語弊はあるが。



「……俺さ。自分でも、分かんねえんだわ。なにをもって、人を好きになるのかとか、どうすれば、恋とか愛とか、そういうもんになるのか……有希だって、同じかもしれねえけど」

「私だって、初めてです、こんなのっ……」

「そうだよな…………だから正直に言えば、有希が望んでいるような答えは、まだ言えねえよ。ただ、お前が可愛くて、俺のことを好きでいてくれるからってだけで……それだけで安易に答えるのは、有希にも、俺にとっても良くないことだろ」


 結局、俺が抱いているこの感情は、フットサル部の連中一人ひとりに抱いているものと、何ら変わりは無くて。そこに優越や、優先順位なんてものも、やはり存在せず。


 ただ大事なものを、大切に思う。それだけ。

 なら、彼女が出した答えと、俺の答えは、恐らく一致しない。



「……でも、嬉しいのは本当だから。まぁ、妹みてえってのもあながち嘘じゃねえけど……それ以上に、お前のこと、可愛い女の子だって、思ってる。それは分かってもらえると有難い……かな」

「……はいっ……分かってます……分かってます……っ!」


 手繰り寄せた小さな身体から、悲鳴が零れる。


 あまりに残酷な仕打ちだと、理解している。

 でもこれより優れた回答は、持ち合わせない。


 分かっているなんて、きっと嘘も良いところだ。結果的に、彼女の気持ちを。勇気を、すべて裏切ってしまったのだから。



 対して俺はなんだ。自分自身への不勉強を理由に、あっさり逃げ出して。


 最低だ。最低だよ、お前。


 彼女をこれだけ傷つけて、大切だなんて。

 良く言えるよな。本当に、最低だわ。


 これだけ最低なら、もう、許される気がする。

 もう少しだけ、彼女にも。

 アイツらにも、甘えさせて欲しい。 



「だから、ごめん。答えはイエスじゃねえ、けど、ノーでもない…………って、これじゃ答えになってねえよな……」

「……いいんですっ。なんとなく、そう言われるんじゃないかなって」


 すべてお見通しってわけか。つくづく、思った通りの結果にしかならねえな。図らずとも。



 涙を裾で拭き取って、一歩、二歩と後ろへと離れる有希。どうしたって、零れ落ちるものはあるけれど。


 それでも、彼女は笑ってみせた。

 この空間には、それが必要だから。


 ちょっと天然で、おっちょこちょいで、あわてんぼうで。でも、確固たる意志を持っていて。それを伝えるのに、一切の遠慮も無く、何事にも狼狽えない。


 お前のそういうところに、本気で惹かれている。


 こうして、無知で凡庸な俺という人間が。

 性懲りなく。またしても、救われる。 



「一つだけ、確認させてくださいっ」

「……ん」

「これからも……好きでいていいですか?」

「…………そりゃ、勿論」

「だから廣瀬さんも、努力してくださいっ」

「……出来る範囲でな」

「ダメですっ! ちゃんと、勉強してくださいっ!」


 果たして彼女の言うところの努力が、どこからどこまで指しているのか。今の俺には、答える力が無かったけれど。


 いつかは、必要になるものだ。


 知らなければ良いことなんて沢山ある。けれど、知らなければ分かり得なかった喜びも、きっとあるんだろう。無論、それが悲劇的な結末を迎えることだって。想像できない話じゃない。


 それでも、彼女は踏み出したのだ。

 だったら答えなきゃ。それこそ、最低だろ。



「――――わたしっ、諦めませんからっ!!」


「廣瀬さんがっ、わたしのこと好きだって言ってくれるまでっ! ぜーったいにっ、諦めませんからねっ!!」



 晴れやかな笑顔で叫ぶその頬に、涙の跡は映らなかった。



 そうだな、有希。俺も諦めねえよ。

 いつかちゃんと、答えを出すから。


 やっとの思いで絞り出した、その偽りの笑顔が。

 いつものような、本物になるように。



 ハーフタイムなんかじゃない。

 俺たちの関係は。


 いま、初めて。

 キックオフの笛が鳴ったばかりだ。


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