154. 条件が整い過ぎている


 多少の食べ物と一通りのアメニティ、余計な小物を購入。


 まさか二人分必要になるとは思ってもいなかったし、本来なら一人分でさえ不要な買い物の筈である。最近、本格的に出費が激しいな。これはもう必要経費だから、しょうがないけど。



 大雨のなかを駆け足で飛び回ったこともあり、愛莉の着ていた服は雑巾の水分を捻って絞り出すそれに匹敵するほどズブ濡れになってしまった。


 風邪を引かれても困ると少々遠慮がちの彼女を無理やり風呂に叩き込む。ユニットバスの狭い空間は彼女のような若い女性にすれば不便極まりないだろうが、この際どうしようもないことだ。



(マジかよ…………)


 水滴の垂れる音があちこちから飛び込んで来て、どうにも居心地が悪い。

 自分の家であることに間違いは無い筈だが、ベッドに寝転んでも、スマホを滑らせても、一向に気は落ち着かない。


 別に、さっさと帰って欲しかったとか、そういうことではないのだ。彼女といる分には退屈しないで済むから、それはそれで全く構わない。

 構わないのだが、一夜を共にするともなれば、話はだいぶ変わって来る。


 一応にもハッキリとした境界を敷いていた合宿とはワケが違う。六畳ワンルームの狭い空間で、あろうことか長瀬愛莉と寝床を共有しなければならないのだから。



 百歩譲って、同じ空間で寝るのはまだいい。

 二人きりというのが何よりも問題だ。


 合宿での琴音との一件でさえギリギリだったというのに、もし余計なことを考えて気が触れたらどうなってしまうのか。

 そのとき、俺を止める人間は誰も居ないのだ。もっと言えば、なんらかの理由で愛莉が暴走したとして、止められる自信も無い。



「上がったわよ……その、ありがとね、ほんと」

「おぉっ……サイズ、合ってる?」

「ちょっと大きいけど、大丈夫だと思う……っ」


 シャワーから上がり、バスタオルで長い髪の毛を掻き上げる愛莉。


 まるで開封する気のなかった余りの白ワイシャツに、これまたほとんど使っていないトレーニング用のショートパンツを着ている。上下共に、彼女の身体にはやや大きすぎるようだ。


 下着もびしょ濡れで使い物にならなかったことから、コンビニで購入した安物を身に着けている。普段着ているものが何一つ揃わない状況に、俺以上に居心地悪そうにしていた。ワイシャツの端を掴んで、少し前屈みになり身体を捻らせる。

 


 恐ろしい光景が広がっている。


 しっとりと濡れた髪の毛と白ワイシャツの驚異的な親和性。第二ボタンまで開けられた開放的な胸元。ダボダボのショートパンツから覗く真っ白な素足。チラチラと顔を見せる少し筋肉質な内腿。


 言いたいことは山ほどあるんだけれど。まず、全体的に無防備すぎる。無理だよ。俺、こんなのと一晩明かさないといけないの。無理だって。



「……お風呂、入ったら?」

「えっ……あ、あん。そうするわ」


 この状況に耐え切れないのは彼女とて同じらしく。先に出て来た言葉に堂々と甘えることとする。



「あー……洗濯、もう回すか」

「近所迷惑にならない?」

「最近見掛けねえし、今日もいねえだろ、多分」


 アパートは全部で六部屋あるが、一階の角部屋に大家さんが住んでいる以外、ここ最近ほかの入居者を全く見掛けないんだよな。俺が入ったときも二人しか住んでなかったけど。


 加えてこの部屋と大家さんの部屋はちょうど対角線上にある。よほど派手に暴れ回らない限り、騒音でどうこう言われる心配もない。夜中に洗濯機を回しても怒られやしないだろう。



「…………ハルト? どうしたの?」

「……あ、いや、なんでもねえ」


 思わずドア付近で立ち止まっていた俺は、愛莉の気の抜けた一言でようやく覚醒する。


 まさか、口が裂けても言えやしない。今日、ここで彼女と何をしたところで誰にも気付かれない、なんて一瞬でも考えていたなんて。


 条件が整い過ぎている。

 手を出すための条件が。


 いや、違う。違うんだ。そんなつもりは一切ない。仮に揃えられてもそんな気はない。本当に。


 一時の気の緩みでこれまで築き上げてきたものを壊したくはない。この状況はあくまでレアケース。少なくとも、チャンスではない。むしろピンチなのだ。



「なら、ハルトが入ってるあいだに私がやろっか?」

「いい。これ、型古くて設定とか面倒やし」

「そ、そうっ……なら、いいけど」

「大人しく髪乾かして待ってろ」

「…………見ないでよねっ」

「見ねえよ」


 なにを見ないで欲しいのか、わざわざ聞き返す必要も無い。洗濯カゴには俺の服も、彼女の服も一緒くたになって叩き込まれているのだから。


 これに関してはあまり心配していなかった。

 今までも散々見てきたし。或いは見せられてるし。


 洗濯ネットをカゴに被せて丸ごとひっくり返す。本当ならあまり褒められた行為ではないと思うけれど、玄関のすぐ横に置かれた洗濯機の様子はドアに阻まれ彼女のいる場所から窺えないだろうし、気にも留めない。


 大丈夫だ。なんも問題も無い。


 この特異な状況下において、たかが布一枚視界に入ったところでどうということはない。既にバグっていると言われればその通りかもしれんが。



(…………下はともかく、上は初めて見るな……)


 カゴの最下層に取り残されていたピンキーなそれが目に入る。サイズ、どれくらいあるんだろう。女性物のサイズの見方とか知らんけど。


 見事にカゴに引っ掛かってしまったわけだから、取り出さないわけにもいかない。嗚呼、どうしては俺は同級生のブラジャーを手に取って洗濯機に放り込んでいるんだろう。


 意味分かんない。誰か助けて。そして「全面的にお前が悪い」と誰か罵倒してくれ。




*     *     *     *




 毎日使っているシャワーヘッドも、ほんの数十分前に誰かに使われていたものだと考えれば冷静ではいられなかった。途中から冷水を死ぬほど被り頭を冷やしていたことなど、彼女が知る由もない。


 白ワイシャツに部屋用の短パンという、愛莉とさほど変わらない格好に着替え部屋に戻る。閉められていたドアを開けると。



「ひぅッ……!」

「……あ? なんや」

「お、お帰りッ! あ、案外早かったわねっ!」

「男の風呂なんぞこんなもんやろ」

「そ、そうっ、そうなのね……あ、あはははは……っ」


 なんだこの白々しい反応は。キショいな。


 少なくとも風呂に入るまではこんなわざとらしい態度じゃなかっただろう。もっと緊張気味というか、僅かばかりの申し訳なさも籠った慎ましやかなレベルで。


 だというのに、何を焦っているんだ。変なモノでも隠しているような、そういう類の反応だぞ。


 …………隠している?



「…………あっ、ちょ、おまっ、読んだなッ!!」

「よっ、読んでないっ!!」

「嘘こけッ! あの本どこやったッ!!」

「知らないッ! 知らないもんっ!!」


 やられた。まさかあれに手を出すとは……ッ!


 愛莉に限って本なんて読み出そうとしないと思っていたが、浅はかだった。ここまで暇を持て余せば自然と手が伸びると、容易に想像できただろうに……!


 不味い。不味すぎる。


なまじ中途半端に読み始めて栞も挟んであるだけに、日常的に官能小説を読んでいるような奴というレッテルだけは、なんとしてでも回避しなければ……ッ!



(いや…………逆に攻めるか……ッ?)


 めちゃくちゃ賭けだけど、価値はあるかもしれん。


 何せコイツ、あんなものを目の当たりにして俺に対して追求するということをしてこなかった。むしろ「自分がエロ本を読んでいた」という事実をひた隠しにする方を優先している。


 となると、ここは敢えて逆転の発想。


 奴の反応を利用し「エロ本を持っていた俺」から「エロ本を読んでいた愛莉」という状況に変換してしまえば良いのではないか。


 これだ、これしかない。



「…………うん。なんだ。愛莉もな。年頃やし。そういうの興味あるよな。しゃーないな。うん」

「……はっ、はぁぁぁぁァァッッ!?」

「すまん邪魔して。続き、読んでええから。な。俺のことは気にすんな。なんなら貸してやるから」

「ちっ、ちがうっ!? そうじゃないっ! 違うってばぁっ!!」


 本当に効いている。

 なんで俺よりテンパってんだよおかしいやろ。



「だっ、だ、だいたいっ、なんでこっ、こんなもの持ってるのよっっ!! 18歳未満は買っちゃダメなんだからッ!」


 そこかよツッコミどころ。


 しかし、ここで攻勢を止めるわけにはいかない。というか止めたら死ぬ。社会的に。割とギリギリの攻防であることだけは理解して欲しい。



「男なん誰でも持っとるわこれくらい。別に可笑しなことちゃうで」

「そっ、それはっ……! そうかも、しれないけど……っ!」

「で、読んだんやな。感想貰っていい?」

「ばかぁぁっっ!!!!」


 投げつけられた勢いで本体からブックカバーが離脱する。ちゃっかり読んでいる癖に酷い扱いだ。比奈から貰ったことは絶対に言わないでおこう。


 取りあえず勝負には勝ったということで、良いのでしょうか。分からん。愛莉を辱めるという一点においては圧勝だが、今後の関係性を加味すると駄目かも分からん。



「…………まぁ、うん。悪い、調子乗ったわ」

「……もう、いいしっ」

「どうすっかな、もう遅いし、さっさと寝……」

「あの、さ……ハルト………っ」


 強引な会話の展開は、彼女の消え入りそうな呟きにさえ押し負ける。


 シャワーを浴びたばかりだというのに、彼女の息は妙に荒っぽい。たかが本一冊ブン投げただけで息が切れるほど軟じゃないだろうに。



「…………やっぱり、ハルトも……その……っ」

「……え、なに?」

「……あっ、あるのかなって……ッ」

「………なにが?」

「……そういうこと、興味あるのかな、って……」


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