季節の変わり目と共に色々変化したり進展する章

72. 国語やれ国語


 シャーペンを持ったまま身体をグッと伸ばしたら、指から零れ落ちてしまった。



 もう二時間は図書室の自習スペースでペンを走らせている。流石に遅すぎる時間のせいか。或いは試験を明日に控えたが故の「もういいわ」的な妥協精神の表れか。


 夕日が差し込むこの部屋には、俺含め二人しか学生が残っていない。我ながら真面目によくやるものだ。柄でもない。



 それを拾い上げ、眼鏡を掛け直した視線の先には、黙々と問題集を叩き伏せる真っ黒な影。横からでは表情も確認できない。


 そろそろ髪切れよ、というお小言はそのまま帰ってきそうで口も動かないが。



「……まだやんの」

「…………あ、はい。なんですか。聞こえませんでした」

「いや、そろそろ下校時間だな、と」

「あぁ、もうそんな時間ですか」

「そんな時間や」


 一週間ほど前から自習スペースを使い出した、俺、廣瀬陽翔ヒロセハルトが最近知ったこと。この部屋の主は、間違いなく彼女。楠美琴音クスミコトネであった。



 と言っても、彼女はひたすら問題集を解いていて会話をすることもほとんど無い。ほぼ毎日のように顔を合わせているが、本当にそれだけ。隣の席に座っても文句を言われなくなったことは、まぁともかくとして。



「毎日欠かさず来るとは、貴方も物好きですね」

「おめーに言われたかねえわ」


 教材を片付ける彼女の一言に、ほぼ同等の威力を持って返す。


 凄いだろう。比奈が居なくても会話が成立しているんだぞ。俺たちの出会いを思い出せば、奇跡と呼ぶに相応しい。



「意外でした」

「なにが」

「比奈から聞いていたので。ロクに授業も出ないのに、試験は大丈夫なのかと」

「赤点さえ取らなきゃ問題ねえやろ」

「それすら不安だから言っているんでしょう」

「心配すんな。瑞希よりマシだ」

「…………否定する根拠が見当たらないのが、とても残念です」


 呆れ顔でため息をつく琴音の脳裏では、ケラケラと笑ういつも通りの彼女が踊っているのだろう。


 二人の心配は最もなのだが、試験に関してはほとんど問題視していない。範囲さえ把握していれば、大して難しくもないし。



「……大丈夫と言うのであれば、構いませんけど。補修だけは勘弁してください」

「そりゃ勿論」

「貴方がいないと活動もままならないですから……愛莉さんだけでは不安ですし」

「ハッキリ言うな。瑞希じゃダメなのかよ」

「今更ですね」

「慎めって」


 なんだかんだフットサル部の心配をしているのが笑いどころ。変わったなぁ。人のあれこれ気にする奴じゃなかっただろうに。



 相変わらず、俺と彼女の距離感は近いようで遠い。いや、近付いたつもりも無ければ、遠ざけたわけでもないのだけれど。


 フットサル部の仲間という、それだけの関係で繋がっている。筈だった。なのに、ここ毎日隣り合って机に向かっていて。それがどうしたと言われれば、俺はなにも言えなくなってしまうわけだが。


 友達なのかもよく分からない。

 少なくとも、まだ違う。俺はそう思う。


 けれど、フットサル部の良心を自称したい、或いはならざるを得ない俺たち。謎の連帯感のようなものが生まれているのは、疑いようもなかった。



 チャイムが鳴り響く。

 もはや出来ることも多くない、さっさと帰るか。



「試験の前日って、思いのほか暇だよな」

「まぁ、計画通りに進めれば、普通は休息日になりますからね」

「……琴音の言う休息ってなんだよ」

「…………範囲の見直し、とか」

「国語やれ国語。休むの意味を調べ直せ」


 詰め込みで勉強していた俺とは違う。ここにいる意味も大して無いだろう。フットサル部のことを除いては、いよいよただのガリ勉だよなコイツ。



「…………私としては、ここで気を休めているつもりなんですけど」

「えっ、なんて」

「いえっ、なんでもありません。帰りましょう」


 慌てて準備を終わらせる。

 まぁ、聞こえてるけどね。可愛いかよ。



「……どっか寄る?」

「どっかとは何処ですか」

「…………買い食い的な」

「ハッキリしませんね。原付でしょう。貴方」

「修理中や。バスで帰る」

「…………駅前のドーナツ屋がいいです」

「あいよ」

「最近値上がりしたとか」

「はいはい、出せば良いんだろ」


 明日はバスで通学か。メンド。

 まぁ、代償としては悪くないかもな。



 蝉の声が、窓ガラス越しでも聞こえてくる。汗ばむワイシャツと、乾き切った喉。居心地は悪い。


 夕日と重なった琴音の影が、長く、長く廊下に伸び続けている。特別な何かがあるわけでもない。それなのに、頭は妙にボーっとしていた。



 暑さでやられてしまった脳は、こんなことさえ鮮明に焼き付けてくる。だから夏は嫌いだ。何もかも、思い出になってしまう。



 この街で迎える、初めての夏が近付いていた。

 誰よりも軽快で、どこまでも不快な足音と共に。

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