41. すっごい憎たらしい顔
「……廣瀬さんっ?」
甘ったるい声に、思わずハッとする。
机へ向かっていたはずの早坂有希は、気付けばこちらを不安そうに見つめていた。時計の針は八時半のまま止まっている。時間としてはさほど経っていない。
夢うつつというわけでもないだろうに、頭はフワフワしたままだ。
嫌なことを思い出すのは止めよう。
目の前にあるのは、可愛らしい彼女の顔だけ。
間違っても、週刊誌のケバケバしい女ではない。
「ごめん、どこだっけ」
「いま終わりました。採点お願いしますっ」
手渡されたプリントと回答集を交互ににらめっこ。すべて、滞りなく正解している。なんの問題もない。
勉強は好きでもないが嫌いでもない。答えが必ずあるのだから、どのようなプロセスを通過しても、辿り着く先は決まっている。
素晴らしいものだ。答えがあるなんて。人生に教科書があるなら、幾らでも出して何冊分でも買いたいところだが。
「おっけー。じゃ、いい時間だし今日はここまでにしようか」
「はい……あの、廣瀬さん」
席を立った俺を、有希が呼び止める。
「今日の廣瀬さん、なんだか変ですよ。うわの空っていうか……心ここにあらずっていうか」
「……そう、かな」
「お悩みですかっ? 私、全然頼りないですけど。相談くらいなら乗りますよっ」
健気に笑う彼女の顔を、まっすぐ見つめるにも耐え難い。普段はどこかボンヤリしているのに、こういうときだけ感は鋭いな。
「……悩みってわけじゃねえけど。まぁ、困ってはいる、かな」
「それって、私が聞いてもいいことですか?」
返答に酷く困った。
彼女には、なんの関係もない話である。
つまらない男の詭弁だ。
しかし、だからといって何も話さず家を後にするのも、なんだか気が引けた。
有希になら、まぁ構わないか。
なんて、ただの甘えだけど。
「……人間関係のもつれというか、なんというか」
「えっ……廣瀬さんが、人間関係で悩んでる……ってことですか!?」
手で口を抑え、馬鹿みたいに驚いている。なんだ。俺には縁のない悩みだとでも、そう言いたいのか。失礼な奴め。
「その……廣瀬さんでも、そういうことがあるんですね。なんか、意外です」
「なんだよ。俺が友達おらんみたいな言い草だな。いねえけどよ」
「あっ、いや、ち、違うんですっ! そのっ、決して馬鹿にしているとか、そんなんじゃっ!」
慌てて弁明する有希の姿を見て、思わず笑いがこみ上げる。彼女なりに、ちゃんと俺に向き合おうとしているのだから、いろんな意味で、もう、お笑いだ。
「ええよ、別に。その……なんていうかな。例えばの話だけど」
「はいっ」
「今から、お母さんに「偏差値75くらいの高校に合格しろ」って言われたら、どう思う? まぁ、数字はなんでもええけど」
「……どうしちゃったのかなって思います」
「あ、うん。悪い、例えが不味かった」
俺でも答えづらい質問をしてどうするのかと。
まったく、これだから会話というものは。
「……目標ってさ。ソイツの身の丈にあったものじゃないと、ピンと来ないだろ」
「そう、ですねっ。高すぎても、やる気が出ないっていうか、何をしたらいいか分からないですよね」
「……だよな。まぁ、それで困ってるんだけど」
結局、フットサル部で起こっている出来事を、すべて話してしまった。
なるべく、俺個人の感情が入らないように気を付けてはいたのだが。気付けば彼女らへの恨み節のような。愚痴に近いものへ変わっていることに気付く。
有希はそんな俺の話を横やりも入れることもなく、黙って聞いてくれた。
「つまり、廣瀬さんは絶対に勝てないって、そう思ってるってことですか?」
「……確率はゼロじゃねえよ。でも、自信がねえ」
「なんだか、らしくないですねっ。廣瀬さん、いっつも自信満々なのに」
「…………んなことないだろ」
「ありますよっ。俺に出来ないことは無い、みたいな感じです。いっつも!」
悪戯に笑う彼女は、席を立ち箪笥の上にある写真を手に取って、こちらに戻ってくる。
「これ、お母さんが見つけたんです。ほら、ワールドカップのときの」
「……若っ」
「まだ数年前の写真じゃないですかっ。確かに、大人っぽくなってますけどっ」
「……嫌な顔してんな、ホンマに」
「ゴール決めたときのですよね? ほらほら見てくださいよっ、すっごい憎たらしい顔してますっ」
恐らく、週刊誌かネットニュースの写真だ思われる。サポーターが待つゴール裏へ、軽やかに走る俺。確か、準々決勝だっただろうか。
相手ディフェンスをほぼ一人で抜き去り、最後はキーパーも交わして無人のゴールへ。両手を広げ、おもむろに舌を出し笑みを浮かべるその姿は、どうしたって苛々を募らせる。
あの時ほど、自身の万能感に浸っていた頃は無いだろう。
確かに、そうだ。なんでも出来る。
そう思っていた。あの頃は、な。
「確かに、この頃の廣瀬さんと、今の廣瀬さんは違うかもしれないですけど……」
写真を机に置いた彼女は、椅子にちょこんと座って俺の手を握った。
「でも、なにも出来ないなんてこと、絶対に無いです。私、全然詳しくないですけどっ」
「廣瀬さんがボールを持ったときだけ、こう、ぶわーって……周りの空気が、変わっちゃうんです」
「映像しか見たことないから、実際どうなのかは分からないですよっ? でも、なんていうのかな……なにか、凄いことをしちゃうんだろうなって、そんな気になっちゃうんです」
「実況の人も言ってました。「ピッチに魔法をかける」って」
とっくの昔に解けている。そんな魔法。
なんて、言えなかった。
彼女の笑顔が、あまりに眩しすぎて。
故に、直視などできない。
言葉さえ、真っすぐ向けられない。
それを奪ってしまうほど、俺は残忍にはなれなかった。単純に、照れていたというだけのことかもしれないけど。
「根拠なんて、大したものじゃないですけどっ。でも、廣瀬さんなら出来るって、私、思いますっ」
「……その自信はどっから湧いてくるんだよ」
「分かんないですけどっ! でも、そう思ったんだから、しょうがないじゃないですかっ!」
どいつもこいつも、今の俺に期待過ぎだ。
あの頃の俺が、とっくのとうに消えて居なくなっていることなど、考えずとも分かるだろうに。俺が。俺自身が一番分かっているのだ。
「……そんなに強い相手なんですか?」
「んなことは、ねえけど」
「じゃあ、大丈夫ですよっ。チームメートの方も、凄い人がいるんですよね?」
「……それを数万倍に薄めた初心者もおるけどな」
「廣瀬さんなら、きっと上手くフォロー出来ますよ。それに、初心者の方も、なんとか力になれるようにって、頑張ってる筈ですからっ」
それは、分かってる。
分かってるつもりなんだけど。
むしろ、逆だ。
今の俺では、彼女らの期待に応えられない。
何をどうすれば、上手く行くのか。
何一つ、見えてこないのだ。
「……つまり、とにかく頑張れってわけだな」
「えーっと……はい、その、そういうことですっ。ごめんなさい、相談、乗れてないですよね……」
「いや、えーよ別に。最初から期待しとらんし」
「えっ、えー! それはちょっと酷いですよっ!」
「でも、ありがとな。聞いてくれて」
彼女の頭をポンと撫でると、それまでの勢いはどこへやら。
身体を丸めて、恥ずかしそうに口を摘んだ。調子に乗りよって。この。
「……あの、廣瀬さん」
「んっ」
「フットサル部、辞めちゃうんですか?」
潤んだ瞳で見上げたその先には、どんな顔が見えているのだろう。少なくとも、彼女が期待している答えを俺は持ち合わせていなくて、返答に、酷く困った。
「……分かんね。そんなの」
「辞めちゃったら困りますっ。入る部活、無くなっちゃうじゃないですかっ」
「そんなの、他んとこ入ればええやろ」
「でも困りますっ。それもモチベーションの一つですから。廣瀬さんが言ったんですよ? 廣瀬さんの後輩になるっていうのが、その……私の身の丈に合った目標なんですからっ」
「…………一本取られた」
「だからっ、頑張ってくださいっ。応援してますからっ!」
無理だ。辞める。
そう伝えるだけで、俺はどれだけ楽になれるのだろうか。
少なくとも、この笑顔を奪うことが解決方法なら。それは今は。今だけは違うのだと。そう思った。
「……ていうか、有希」
「はいっ?」
「なんで俺の写真なんか持ってんのお前」
「…………あっ、いや、あの、そそそ、それはっ、あのっ、違いますよっっっ!?!? ただ、なんとなく、飾ってただけでッ!! ホントに、それだけですからッ!!」
一際大きな声は、下の階にいる早坂母を誤解させるに十分な代物であった。
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