第65話

 英雄に成る筈だった者。

 英雄に至らなかった者。

 いずれにしても、英雄を名乗ることは出来ないという点では変わりなく。

 彼の者は英雄と呼ぶには知られなさすぎた。

 彼の英名を聞く者は多くなく、彼らの生き様も英雄には到達し得なかった。


「…………」


 眠る少女は英雄になれるだろうか。

 知られざる怪物から生み出されたたった一つの答えは、果たして英雄になれるのだろうか。

 どうでも良いのかもしれない。

 ただ生きてほしいと、クロエは願う。

 培養器の外側にそっと右手で触れる。


「クロエ、大丈夫か?」

「あ、すみません……」


 他の皆が書類の整理に忙しなく手を動かし、凍結処理に動く中、傍目からはぼんやりとしているようにも見えるクロエの目はエンジェルに釘付けとなっていた。

 泡沫の立つ液に浸り込み、彼女は一体どんな夢を見ているのか。或いは赤子のように待つだけなのか。


「この子、殺すんですよね……」

「そう、だな」


 ケインにも思うところはある。

 エンジェルの見た目は自身の娘と同じ程度に成長してしまっている。だからこそ、経過を見守ってきた彼だからこそ情という物も湧きつつあった。


「私たちって勝手ですよね」

「ああ」

「いつだって、人間は自分本位で」

「──救いようが無い」


 研究者という立場で人倫にもとるような事をしていながらに、愛するモノを持つ事になればどこか自虐的な精神も作られてしまうだろう。

 許されざる悪へと加担している。


「別に僕は正義であろうとは思ってないんだよ。科学の信徒はきっと地獄に落ちた者が殆どだろう」


 どこか言い訳のような苦しさもある。

 ケイン自身も堕ちていくはずだ。

 分かっている。

 こんな研究をしていれば碌な死に方をしない事くらい。


「ケイン、これは何処に持ってけばいいの?」


 紙の束を抱えたカティアがやって来て尋ねると、ケインは彼女の方へと振り返る。


「ああ、それはだね……」


 白衣の背中は去っていく。

 再び瞼を閉じたままのエンジェルにクロエは視線を向けた。


「罪滅ぼし……にはならないか」


 生み出した彼女が生かそうとすること。

 それはただの彼女の押し付けの偽善。だから罰を受けるということにもなりはしない。


「クロエ! こっち手伝ってくれー!」


 男性研究員に呼ばれ、「わかりました」と返事をしてからエンジェルの入る培養器に背を向けて駆けていく。


「どうしました?」


 気さくな態度で問いかける柔和な態度の彼女は、研究室の仲間からの人気も高い。誰も彼女の思惑に気がついた様子はない。

 研究室の外はもう夜だろうか。

 外の様子はこの場所からは確認できない。

 疲労から溜息を吐こうとした瞬間に、クロエの視界の端で何かが爆ぜた。


 瞬間、轟音。


 耳をつんざいた。


「な、に……これ?」


 焦げるような臭い。

 顔を顰め、耳を抑えながら辺りを見回す。

 エンジェルは。


「大丈夫……」


 ただ、何人かの研究員は爆発に巻き込まれてしまった様だ。通路へつながる扉も吹き飛び、ひしゃげてしまっている。

 研究室にも轟々と炎が燃え上がる。

 侵入を知らせるけたたましい警報が鳴り響いた。


「誰……?」


 直ぐにクロエはこの爆破の犯人がユージンでは無いと考えた。

 ユージンと言う男に対しては何も持っていない事は確認済みであり、さらにはこのエンジェルのいる室内に研究員以外が出入りした覚えもなかったのだから。

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