第109話

 走り出したのは同時だった。

 アスファルトに赤い液体を垂らしながら、熱く感じる身体で、拳を、蹴りを彼らは衝突させた。

 火花は散らない。

 距離が開いて、赤が飛び散った。


「かぁっ!」


 阿賀野が吼えた。

 ひびの入った身体は、悲鳴をあげている。満身創痍の肉体で、それでもミカエルは舞踏の様に戦い続ける。

 動きににぶりが見えなくなった。

 寧ろ、動きは格段にキレが良くなった。破壊力が増幅され、それは阿賀野の左腿を打ち抜く。


「ぐっ」


 その仕返しとばかりに、阿賀野はミカエルの右足に手を伸ばす。


『俺は今、最高の世界に生きてる……!』


 そんな言葉がミカエルの口から出たかと思うと、曲芸師の様に阿賀野が伸ばした左腕の上にフワリと立ったのである。

 そして、横に回す様な右足での攻撃が行われる。


「……っ」


 それを阿賀野は上体を逸らすことによって、スレスレで避けた。ミカエルの爪先が目と鼻の先を通り抜けていく。

 左腕を振り上げると、ミカエルは空中で後方に向けて回転をしながら跳んだ。

 片腕がないと言うのに驚異のバランス力。そもそもにして、失ったのはつい先程だと言うのに。

 完璧な着地。

 隙を見せることなく、左足を前、右足を後ろにした構えの形が取られている。


「俺は今ならなんだって出来るような気がする……」


 ミカエルを満たすのは多幸感だけではない。本来以上の実力が後押しをされ、発揮されているかの様に感じたのだ。溢れ出る、全能感。

 死に際の狂言などではない。

 ミカエルとは無縁と思っても良いだろう、火事場の馬鹿力という言葉。それが今の彼の状況を正しく表している。


「クソが……」

「負ける気はしないね……!」

「それは──」


 阿賀野は目を鋭くさせて、ミカエルに向けて踏み出した。


「──俺もだっつぅの!」


 負けるつもりで戦う筈がない。

 最強が負けを想定するなど間違いだ。最悪は想定するが、それでも負けは否定する。阿賀野は勝ちだけを信じて、拳を握り、振るうのだ。


「かはっ……ぅ」


 ミカエルの鳩尾みぞおちに阿賀野の左膝が吸い込まれる様に入った。拳はフェイント。呻き、前のめりになったミカエルの背中をダブルスレッジハンマーで叩き、下がってきた身体を右足の横蹴りで吹き飛ばす。


「おいおい、いつから俺が足技苦手だって思ったよ」

「……勘違いさせないでほしいな」


 血を吐きながらもミカエルは立っている。先程の攻撃は喰らってしまえば、ほぼ確実に人生をそこで終わらせるほどの威力のものであった。


「……勝手に勘違いしたのはテメェだ」


 倒れることなく立ち続けるミカエルに辟易としながらも構えを取る。


「ハハっ、ハハハハハハ……。良いね、楽しい」


 夜の空というにはもう十分なほどに明るくなり始めた空。

 ただ、戦う彼らには時間と言うものを気にかける余裕はなかった。

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