第84話

「ねえ、おかあさん」


 幼子の声だ。それも男の。

 しかし、その見た目には似つかわしくない、いや、戦場においてはこれも仕方なしか。発せられた声はアルトボイス、ただトーンが低い。

 いまいち状況が理解できていないのか、疑問と不安に埋め尽くされた表情のまま母に連れられて、家を出たのだ。


「どうしたの?」


 母の声には焦りが見える。何を焦っているのか。仕事に遅れそうなのか。いや、いつもの朝以上に、幼い少年の母は取り乱していたことだろう。


「どこにいくの?」


 齢、十にも満たない彼には何もわからない。普段通りに学校に行くものだと思っていたのだ。


「ジョンもおいてきちゃったし……」


 彼の疑問に答えるほどの余裕が彼の母親には無かった。少しだけ強く手を握って、幼い少年の手を引いて歩き出す。

 母も息子も茶髪の、一目見れば家族だと分かるほどに似ている。


「マルコ。今はママについて来て」

「おとうさんは?」

「お願い」


 蹲み込んで、母は息子の両肩に手を置いた。何も聞かずに信じて欲しい。


「帰ってくるから。また会えるから、今は我慢しなさい」


 母にも不安があるが、それを目の前の息子に見せるわけにはいかない。彼女は、少しでも気丈きじょうに振る舞わなければと、心理的な重圧を感じている。


「うん……」


 マルコも従わざるを得なかった。母に心配をかけるのは幼心でありながらも、気が引けたのだ。

 陽光が差し始める早朝、普段以上の忙しなさが渦を巻いている。

 人の波が我先にと前へ進む。


「ジョンは?」


 マルコは気になったのだ。尋ねられずには居られなかった。


「マルコ」

「ねえ、おかあさん……」


 唇を噛み締めるような顔を見せてから、母は歩き始めた。


「大丈夫、また会えるから」


 母は言い聞かせることしかできない。息子を叩き起こして、避難する。戦争に巻き込まれて死にたくなどない。不安と責務がのしかかる。

 敵国の陽の国は容赦がない。などと言った情報が出回っていた。無防備な者も殺して、兵士など関係なく蹂躙している。

 この地もいずれ戦場になる。その前に安全な場所へ逃げなければ。


「マルコ!」


 名前を呼ばれてマルコは歩き始める。戦争の脅威が音を立てて近づいていた。

 子供心にはわからない。

 何が迫っているのか。何が起きているのか。母が大人たちが眠たい朝に家族を叩き起こして、可愛がっていた犬のジョンを置いて家から逃げるように出た理由も。


 そして、マルコはもう父と会うことができないということも。

 知るのはきっと今ある全ての最悪が過ぎ去った後だ。もう少しだけ、大人になってからだ。

 マルコは一抹の不安を抱きながらも、家の方へと向けていた顔を、母の背中に向けて、駆け足で追いかける。

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