第56話

 時刻は昼を少し過ぎたばかり。候補者達は教室に集められた。

 教壇の上に立った坂平は教卓の上に手をついたが、正面を向くことができない。


「川中、竹崎。お前達には戦場に行ってもらう」


 それでも、決定事項だけは連絡する。その時の教室はとても静かなものだった。

 そこにいる候補者達の呼吸音が聞こえそうなほどに静かだった。

 誰かの命を背負う。

 一人だけでも重たいというのに。何人もの命がのしかかって、潰れてしまいそうなほどだ。

 人が背負うことができる命など、結局自分のものだけのはずだというのに。

 それだけしか言うことができなかった坂平は、逃げ出すように教壇を降りて、教室から出て行ってしまった。

 ゾロゾロと竹崎と川中を残して、教室には誰もいなくなってしまった。


「…………」


 つい最近まで引き籠り続けていた竹崎は川中が手を引くことでようやく、部屋の外に出ることが出来るようになった。

 相変わらず、心はここにないようで、川中の存在が竹崎の心を現世に留める楔になっているように思える。


「真衣……」


 隣に座っていた川中は優しく、柔らかく、それでもその肌の感覚が伝わるように、竹崎の左手を握りしめた。

 竹崎の手に触れたのは、少しばかり冷たい手だった。

 竹崎がその手を見る。


「美祐に、会えるかな」


 そうして浮かべた笑みが、悲しそうに見えて目を合わせるのも辛かった。

 それでも逸らすわけにはいかなかった。


「それはっ……」


 答えられない。

 だって分からないのだから。会うことが出来るのだとしたら、その時はきっと何もかもが終わっている。


「会いたいんだ。……一緒に、街を歩いてみたかったんだ」


 窓の外を見ながら、竹崎が呟いた。


「一緒に歩いて……」


 叶わないはずだ。


「一緒に買い物をして……」


 分かり切っているだろう。


「可愛いねって言って……」


 そんな未来はあり得ない。


「そして、一緒の部屋に泊まって……」


 笑顔を浮かべた彼女の喉がひくついて、彼女の声が嗚咽混じりの声になる。


「夜更かしをして……」


 言葉にするほどに夢のような光景を思い浮かべて、現実の苦しさと比較してしまう。


「そんな幸せが、欲しかった……!」


 この世界に竹崎は奪われてばかりで、何も得ることができない。


「川中は────」


 ダメだ。

 この言葉を言ってはいけない。


「ごめん。迷惑だったよね……」


 独りになりたくない。

 そんな我儘を、口にはできない。


「迷惑なんかじゃないよ」


 川中の声は震えている。

 怖かったのだ。竹崎が今にも壊れてしまいそうなほどに儚く見えて。


「迷惑なんかじゃ、ない……」


 子供に言い聞かせるように川中は口にした。


「私は……」

「優しいんだね、川中は」


 それは何気ない呟きだった。


「え……」


 川中はドキリとする。

 川中の胸の奥で心臓が激しく拍動する。それは、恐怖を感じて。

 脳裏には思い出が浮かび上がる。

 


 ──川中は優しいもんね。

 


 ──だって、いつも私を助けてくれる。

 


 ──ねえ、川中なら、助けてくれるよね。

 


『こんな時だって』


 そんな声が川中には聞こえた気がした。いるはずも無いのに。


「はっ……、はぁ、はぁ」


 浅い呼吸を吐く。

 嫌な汗がじんわりと川中の額を伝う。

 川中がここにいる理由。ここにいなければならない理由。その正体が、その原因がずっと背後に居るような気がする。


「川中……?」


 心配そうに首を傾げる竹崎が。


『川中が殺したんだ』


 あの日の少女に見えた気がした。

 重なる。


「違、う……」


 殺したのは自分じゃ無い。


「違う、違う、違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う! 違う!! 違う!!!」


 否定を重ねていく。否定は積み重なる度に大きな声になっていく。


「違うっ!!!!」


 最後は最早、言語とも思えないような叫びだった。

 違う。

 違うのだ。


『川中が殺したんだ』


 殺人の偽造。

 それを川中は押しつけられた。

 


 ──川中は優しいから、私を助けてくれるよね?

 


 その顔はどんなだったか。思い出せない。思い出したく無い。それでも、その少女は笑っていたような気がした。


「川中!」


 竹崎は川中の肩を掴んで揺さぶる。

 そこで漸く、竹崎は正気に戻る。


「あ……」

「ごめん」


 負担をかけさせてしまった。

 やはり、独りにしないで、などと言う我儘を口にするべきでは無いのだろう。

 竹崎は謝罪を述べることしかできなかった。

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