第6話

【2】


 糸井梢がメールの着信に気付いたのは、慌てて自家用車に飛び乗った時のことだった。朝は目覚まし時計よりも早く、寮母さんからの電話で叩き起こされた。


 娘が死んだ――どうやら首を吊ったようだ。そんな電話を受けて、呑気にしていられる母親などいない。車のエンジンをかけながら学校に連絡をし、副担任の関谷先生にお願いをして休ませてもらうことにした。学校側に後々迷惑をかけるであろうから、娘が亡くなったことも、そこで伝えた。電話を切った時に、娘からのメールが届いていることに気付いたのだった。


 急いでいる。急いではいるが、娘からのメールともなれば話は別だ。何か娘が自分に対してSOSを発していたのではないか。まだ明確なことは分からないが、娘は首を吊ったようであるし、何かしらの助けを求めてきたのではないか。昨晩、珍しく早く床に就いてしまった自分を恨んだ。


 届いたメールは二件だった。一件目は自分が床に入ってからしばらくした後に届いていたものだったようだ。メールを開いて愕然がくぜんとした。


 妊娠したかもしれない――。そう書かれたメールには動画が添付されており、再生すると何者かから逃れるようにして後退りする娘の姿が映されていた。


 もしかして、何者かに娘が乱暴されたのだろうか。それが引き金となって、衝動的に首を吊ったのではないか。スマートフォンを片手にしばらく固まっていた梢は、もはや生きている心地がしなかった。それでも震える手で、もう一件のメールを開いてみる。もう一件のメールは明け方に近い深夜に送られてきたものだったようだ。草木もねむる丑の刻から、しばらく経過した時刻が、メールの画面には刻まれていた。


『浦沢沙織さんのお悔やみを申し上げます』


 背筋に冷たいものが走った。これではまるで、凪町に古くから言い伝えられているお悔やみ様ではないか――。そう思いながらも、梢は我に帰った。今はそんなことよりも、娘の元に一刻も早く向かわねば。


 いつもと変わらぬ朝の景色が歪んで見えた。寮母さんの慌てた声が、何度も頭の中で繰り返された。嘘であって欲しい、嘘であって欲しいと願いながら学校寮に到着した梢が見たものは、パトカーの赤色灯であった。車から飛び降りて寮の中へと入ると、すでに娘は運び出された後だと寮母さんから聞かされた。制服を着た警察官が、慌ただしく娘が住んでいた部屋の中を騒ぎ回っていた。


 現実感を伴わぬ目眩と共に病院へと向かった。否応に頭の中へと、娘との記憶が蘇った。赤ん坊の頃は誰にでも愛想よく笑う子で、本当に優しい子に育ってくれたと思う。両親の離婚という悲劇はあったものの、これからだったというのに、どうして娘が――よりによって娘が死なねばならなかったのだろう。


 病院の霊安室で、冷たくなった娘との再会を果たした。白い布を顔に被せられた娘の姿は、どこか現実とは違う場所に安置されているように思えた。嘘であって欲しいと思いながらも顔を確認するが、しかしそこにあったのは間違いなく娘の顔だった。声も出さずに梢は泣き崩れた。


 警察から無神経な事情聴取を受けた。あちらだって仕事でやっていることは分かっていたつもりだが、根掘り葉掘りと様々なことを聞かれ、それを調書のようなものに書き写されるのは苦痛だった。娘の人生を、そんな紙切れひとつで済ませて欲しくなかった。


 遺書はなかったものの、現場の状況から自殺だろうと警察が判断を下したのは、その翌日のことだった。食事をしたのか、少しでも眠ったのか――そんなことさえ自分でも分からないほど憔悴しょうすいしていた梢は、ようやく娘が自分の元へと帰ってくるという事実だけを覚えている。


 お寺さんにお願いして、通夜を行った。学校の先生方も駆けつけてくれた。初七日までしっかりとお休みを頂けることになり、梢は申し訳ないと思いながらも感謝した記憶がある。


 通夜が終わり、葬儀の段取りをお寺さんと立てた。離婚が成立して別姓になっていようが、喪主を務めることができるのは梢しかいなかった。今にも倒れてしまいそうな精神状態でありながらも、なんとか気力を振り絞って、娘を送り出す準備を進めた。


 当日は娘のクラスメイト達――すなわち、自分が受け持っているクラスの生徒達が参列してくれた。せめて、生徒達がいる間だけでも教師の顔を保とうと思ったが駄目だった。特に娘の幼馴染である三人の顔を見たら、これまでのことが一気に込み上げてしまい、不覚ながらにも泣いてしまった。


 霊柩車がクラックションを鳴らして火葬場へと向かう。それを見送るクラスメイト達は何を思ったのであろうか。


 娘のスマートフォンは棺の中にでも入れてやろうと考えていた。しかし、寸前になって思いとどまった。警察から返ってきたということは、大した情報は残されていないのだろうが、娘が自ら命を絶った理由などが見つかるかもしれない。どこか冷静な自分がそうささやいたのだった。


 娘の遺骨と遺影。線香の匂いが漂う自分の部屋で、初七日を迎える前にスマートフォンのロックは解除できた。なんだかんだで親子であり、娘が設定しそうなパスワードを片っ端から入力したら、あっさりとロックは外れた。離れて暮らしていても親子は親子なのかもしれない。


 スマートフォンをくまなく調べた。娘のプライベートを覗いてしまうようで気が引けたが、娘の死因を――自殺へと追いやった理由を見つけることが優先であった。いいや、そのようにしてすがることで、梢は崩壊しそうになる自分の精神を辛うじて保っていた。


 まず発信履歴と着信履歴を調べた。しかし、どういうわけだか履歴が残されていなかった。沙織自身が消したかもしれないが、花の女子高生のスマートフォンにしては、随分と寂しいように思えた。続いてメール画面を開いてみるが、これも同様だった。娘が死ぬ前に梢へと送ったであろうメールさえも残されていなかった。


 ただ、一件だけ奇妙なメールが残されていた。


『お悔やみ申し上げます――』


 梢は自分のスマートフォンも取り出し、そのメール画面を開いた。娘から送られてきたメールとは少し文面が違うのだが、同じようなものが娘のスマートフォンにも送信されていたのだ。時刻はやはり、明け方に近い深夜だった。


 一体、娘の身に何が起こったのか……。ただ一件だけ残されていたメールに寒気を覚えながら、梢は自分のスマートフォンとにらめっこをして、頭の中で整理を始めた。


 娘から送られてきたメールには、こちらに向かって助けを求めるような娘の姿が映っていた。そして、その動画が添付されたメールの文面は、自分が妊娠してしまったかもしれないことを切実に訴えているかのようなものだ。これらを統合的に考えると、やはり娘は何者かに乱暴されたのではないだろうか。


 そのような体験は、特に年頃の娘には大きな心の傷を残したことだろう。しかも、望みもしていないというのに子供を授かったとなればなおさらである。――この考えが事実だとすれば、とても許されることではない。


 一日が過ぎ、二日が過ぎ……日を重ねる度に梢の中で憎悪が広がっていった。自分が娘のメールに返信してやれなかったから、娘は死んだわけではない。何者かが娘に乱暴をしたからこそ、娘は死んだのだ。自責の念を追いやるかのごとく、梢はそのような考えに染まっていった。その矢先のことだ。野球部のバスが事故を起こしたのを知ったのは。

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