第78話【笑わずにはいられない】

 風呂場の壁が破壊された事と目の前にいる、人間とは程遠い『化け物』が現れた事が相まって、状況を今一つ理解出来ずにいた。


 化け物の容姿は玄関で見た時よりも鮮明に映し出されており、真っ黒の肌だが顔つきは日本人。髪の毛は一切生えておらず、その頭には無数の目が付いている。


 瞳は辺りを見渡す様にそれぞれが不規則な動きをしており、それがとても気持ち悪いと感じた。身長はやはり一般女性の2倍ほどあり、背中に生えた真っ黒な羽が破壊された壁を覆いつくす様に外の背景を包み隠している。


(――なにこれ!? どういう状況? 変質者、じゃないよね?)


 先ほど玄関先で見た空の光景を思い出し、この化け物に宙吊りにされていた2人の人間を思い返す。それと同時に嫌な胸騒ぎが体中を支配し、サチは反射的に地面に落ちたシャワーヘッドのホースを蹴り上げた。


「意味わかんないんだけど!」


 大声を上げると同時にシャワーヘッドが宙を不規則に回転しながら舞う。吹き出ているお湯が化け物の顔にかかると同時に浴室から飛び出した。


 服を着る時間も髪を乾かす時間も無い状況のため、洗面台の横にかけられているバスタオルを引っ張り取って玄関に飛び出す。


「何なの! あの化け物!? 人間じゃなかったじゃんか!!」


 愚痴をこぼしながらもサチは2階へと走り出していた。逃げ場が無い2階を無意識に選んでしまったのは、判断力の低下と服を着ていない状況が招いてしまったミスと言えるだろう。外へ逃げる選択肢が今の状況では最善のはずなのに、それが出来ていない。


 階段を数段ほど上がるタイミングでドアからでは無く、壁を突き破る様にして進む化け物の姿を視線で捉えた。激しい音と共に壁が飛び散り、階段を上がって行くサチの姿を頭部に付いている瞳が捉えた。


「ァア……イィ……ゥウ……エェ……ォオ……?!」


 喉を潰したようなガラガラな男性声と、耳に響く女性の叫び声の様な音。それが交互に鳴り響く化け物の謎言語に多少の恐怖を感じていた。とても人間が出せる声ではない。


(ほんと、何なの!? 朝起きたら天井に穴は開いてるし、失禁して気絶してたし、風呂に入ったら変な化け物に追いかけられて家中ボロボロにされるし! いきなりすぎて頭の中がパニック何ですけど!!)


 2階には4つのドアが設置してあり、そのうちの一つはトイレ。サチはその中で、使われていない物置部屋を選択した。自分の部屋にはベッドと机と山の様な機材ぐらいしか無く、もう一つの部屋にはソファーと机、そしてビジネス用のパソコンが置かれたディスプレイボードしか置いていない。


 言ってしまえば最後の部屋は父が使っている。ほとんど入った事が無く、不可侵条約の様に閉ざされていた開かずの扉。反射的にその部屋に入ることを避けていたのかもしれない。


 物置部屋には大量の段ボールが置かれており、ベランダへ行くための窓が塞がれていた。そして窓の正面には壁に取り付けられた大きなクローゼットが設置してあり、その中で自分がギリギリ入れそうなスペースにしゃがみ込む形で隠れる。そのままクローゼットのスライドドアを反対側から器用に閉めて息を潜める事にした。


 片手で口を抑え込みながら荒れる呼吸をゆっくりと整える。そして真っ暗で何も見えないクローゼットの中で今の状況をゆっくりと整理していく事にした。化け物の足音は少しだけ聞こえている状況だが、どうやら父の部屋に入って行ったようだ。


 壁を突き破る音……壁を削る音……物が落ちる音……重厚感のある足音。


 サチの内心は恐怖以上に、理解できない現状に困惑していると言った方が正しい。映画を中途半端な所からいきなり見せられたような、この世界観に入り込めない感覚。


(どこから整理付けていくかだよねぇ。あの化け物は何? ――まぁ、人殺しの殺人犯でいっかな。玄関に置きっぱなしになってるあの刀、今思い返すと刀身に雷が……あれ?)


 ふと、サチはあの刀が入っていた木箱を思い出し、その中に入っていた一通の手紙について考えた。


 ――内容は確か『ゾンビと人を殺せる武器――雷切です』だった。


(あれ……今の状況とマッチしてない? いや、あれはゾンビ? 普通にボスキャラみたいな見た目だった気がするけど)


 今更ながらバスタオル1枚を片手に風呂上がりの濡れた体は冷えており、少しだけピクピクと体が震えた。現実的じゃない子供らしい考えだが、あの武器を使ってゾンビを殺す。武器の威力は間違えなく本物で、天井に空いた大穴がその威力を証明していた。


 それは実にシンプルで、まるでアクションゲームをやっている様な感覚だろう。


「いやいや、あり得ないから……馬鹿になっちゃた?」


 言葉で否定していても直感が正しいと判断している。


 ――生きていたいなら殺せ。


 そんな戦場で戦う兵士にかける言葉が、何十回もリスニングテストをするように頭も中で反復する。現実的じゃない現状はまるで夢の中のようであり、(うっかり殺してしまったとしても正当防衛になるんじゃないか?)と考えるようになってからは、心拍数の上昇と共に自分がどんな表情をしているのかにも気づいていない。


 真っ暗なクローゼットの中は先程まで寒かったのに、今は温かい。


 トロトロの溶けて消えてしまいそうなほどの火照った表情は時期にお淑やかな笑みに変わり、コンクリートで固められた様に笑みが取れない。笑ってしまいそうな程、サチは今の状況にエクスタシーを感じていた。


(もし人間だったら人殺しで無期懲役かな? でも家をこれだけ壊されてるわけだし、襲われそうになってるわけだから正当防衛? まず人間なのかな……宇宙人なら殺しても犯罪にならない? 犬や猫を殺しちゃった扱いになるかな? ――ゾンビの場合はどうなる? ――死体が襲ってくるなんてありえないよね。とりあえず殺しちゃう? いやいや、殺すのは流石にまずいでしょ……でも私も死にたくないから、逃げる? 裸で? 素っ裸で町中を走りながら誰かに『助けてください』ってお願いしちゃう? 命がかかってるんだからそれもありかもしれないけど、やっぱり恥ずかしいよね。男の人なら助けてくれるかもしれないけど、私は処女を守らないといけないわけだし……助けられて迫られたら私はその誰とも知れない人間に大切な物を渡してもいいと思っちゃうよ? でもそれってサチとして生きてきた今までの私を全部否定するのと変わらないね。でもでも、男の人に自分の全てを捧げる人生は楽しいのか考えちゃうよね? アイドルアニメを嫌悪している人が試しに見たらハマっちゃうのと変わらないだけで、もしかしたら私はそんな人生を望んでいる可能性だってある訳だからさ……まぁ、少なくとも今の私じゃ理解できないよね。


 逆にこれが夢という可能性はあるかな? 私の中で一番しっくりくるんだよね……これ。でも私は夢の中で確かにもう一人の自分と会話した内容を覚えてるからさ、あれが夢ならこれも夢なの? 夢の中で夢を見る夢は夢? とりあえず自分の事を思いっきり殴ってみようかな……――痛いね――……すごい痛いよ。だからと言って夢じゃないとは証明できないけどね……ジェットコースターに乗った夢を見たらお腹がひゅるるみたいに、想像で痛みを味わう事は出来ると思ってるから何の意味もないよね。


 なら何で私は起きないんだろう?


 そろそろ自問自答もいいかな? 殺すか殺さないかだけ決めよう。問題はどの選択が一番面白いかだね……人殺しになって世界中を飛び回って逃げ続けるのはどうかな? 世界旅行も出来て一石二鳥だ。殺さずに殺されてみるっていうのも、いいかな? 殺されたら、もしかすると異世界に転生しちゃうかもしれないね……少しだけ賭けになるからあまりやりたくは無いけど、大穴だね。この姿で逃げるのは、却下だ――私は自分が楽しいと思う人生がいいから、他人に縛られるのはちょっとやだな……うん! 殺そうかな。もしも私が見た光景が正しいならあの化け物は2人も殺してる訳じゃん? いくらでも言い訳出来るよね? 肩に小さな切り傷でも入れておけば正当防衛になるでしょ! 最悪服も来てない訳だし、血痕が付着するのは素肌だけだしね)


 そう、結論付けた瞬間からサチは人殺しに躊躇いが無くなる。まるで決められたコンピューターの様に、実にシンプルで……そして実に気持ちが悪い。楽しいと思える事のためならしっかりと計画して、総合的に少し将来を見た上で楽しい方を選ぶ。今回やろうと思った理由も人を殺して見たかったから、そして本物の裁判を見てみたかったから、その後の人生が全く想像できないからだ。


 ――しかし、化け物はサチの想像を超える。


 一瞬、サチの頭の上を風が通る。


 クローゼットの中にいるにも関わらず、わずかに感じた強い風。不自然に感じると同時に、更にあり得ない状況が重なる。


「え、何? どういう事? 何で壁が動いてるのかな?」


 強い風を感じたと思ったら、その部分に『切れ込み』が入った様に森根家の2階は斜めにずれ落ちていく。2階のクローゼットの中で隠れているサチから見れば、それは壁が動いている様にしか見えない。


 そのまま崩れ落ちていく2階と、そこから照らされる太陽の光。サチは気付いたら外にいた。――そして崩れ落ちた屋根を見ながら、もう笑うしかない。子供の様に、大人の様に、狂ったように、ただただあり得ない状況に笑うしかなかった。


 町中の人間はゾンビだらけで、世界は滅んでいたのだから。


「アッハッハッハッハ、ギャハハハハ! あひゃ~ひゃ~ひゃ~ウッヒッヒ……もうダメ、お腹痛くて死んじゃいそう! いやいや、世界滅んでんのか~い!!」


 まるで映画のラストシーンの様に、素っ裸の森根サチはゆっくりと立ち上がり、その世界の光景を2階の物置部屋から見る。消えた家の屋根などもうどうでも良くなってしまう程、この世界はたった1日で変わっていた。こんな光景を見て、笑わずにいられるだろうか?

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