第69話【看護師の仕事は大変です】

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【《約1年半前》8月30日(日曜日)/13時00分】


 ナナが死んでから約1週間――焦点の定まらない視線をうろつかせながら、手の付けられていない病院食がリョウの机に置かれていた。看護師たちは何となくではあるが状況を理解している者が多く、態度がどこかよそよそしい。


 そんな中でも普段と変わらずに接することが出来る看護師が1人だけいる。それは桜井ナナが死んだ日に、リョウに手紙と日記と豚の角煮を持ってきてくれた看護師だ。


「熱意さん……ご飯食べないと健康に良くないですよ」


「――分かってる」


 名前は【花桐アヤセ】――ペコペコしていて常に額に汗マークが記載されていそうな天然をイメージさせる人物だ。年齢はリョウより少し年上と言った所だろう。若干明るい茶髪に、後ろ髪はナースキャップで隠れてどの程度の長さなのかは分からない。


 そしてこの人の言葉だけは出来る限り返すようにしている。


 アヤセさんには感謝している。知るべき日に知りたいことを教えてくれた人、そして俺はこの人に色々な粗相をしている。ナナがいなくなった時に感情に任せて胸倉を掴んでしまった。


 罪悪感を抱きながらしっかりと謝りたいとは思うが、どうしてもそういう気分になれない。ナナの死が今でもリョウの心に大きな傷を作り出しており、それが人間関係を阻害して人とのコミュニケーションを断っている。


 現に今も、分かったと言いながらもリョウの手は食器に触れることは無く、食べ物を口に入れる素振りすら見せない。アヤセは少しだけ困った表情を浮かべながら、しばらくその場でリョウを眺めた後に「しっかりと食べてください……」と言い残してリョウのいる病室から出ていった。


「分かってる」


 毎日、毎日、女々しいぐらいにナナが残した日記を読んでは、手紙と読み比べて呪いの様にいなくなってしまった人間の事を考える日々は続く。いつかは前を向かなきゃならないと分かりながらも、その足が前を向いているのかも分からない。


 16時を過ぎた時間――桜井ナナのいた病室は綺麗に片付けられており、何も残らない殺風景な部屋を花桐アヤセはため息交じりに眺めていた。思い出すのは、少し前まで生きていた元気のいい少女の事だ。


 病院の厨房に忍び込んで、勝手に料理を始めようとしていた桜井ナナを花桐アヤセは知っている。何故ならあの豚の角煮を作ったのは桜井ナナと花桐アヤセなのだから……ナナの切実な頼みに押されてしまい、断ることが出来ずにそのまま厨房にいるおばさん達に頭を下げて厨房の端っこ側を使わせてもらったのは記憶に新しい。


 そしてナナが死んだ日――リョウに手紙や日記や豚の角煮を渡した後、アヤセは病室の扉からリョウを覗いていた。泣きながら手紙を読んでいる姿にもらい泣きをしてしまい、一人で食事をしている姿に心がはち切れそうなぐらい感動していた。


 桜井ナナがいなくなってからも何も変わらない仕事に多少のストレスを感じながらも言葉が通じないおじいさんやおばあさんの対応をする日々は続いていき、食べ物の原型を留めていない年寄り専用の食事を病室にいる患者に渡していく。


 そしてその日の仕事が終わり、私服に着替えたアヤセは同期の看護師からとある事を耳にする。上着を脱いでいる同期の豊満な胸に視線を向けて世間話に耳を傾けた。


「そういえばアヤセ、少し前に死んじゃった桜井さん覚えてる?」


「当り前だよ」


「両親が桜井さんの私物はすべて捨てていいって言って、取りに来ないらしい……酷い親だよね。桜井さんが死んだ後も顔も出さなかったらしいし、でも流石にすぐ捨てる事は出来ないからどうしようって先輩達がぼやいてたよ」


「え? 桜井さんの私物がここにあるの?」


「受付の裏に誰も使ってない物置部屋みたいなところあるじゃん? あそこに入れてたよ。あぁ! 駄目だよぉ? アヤセ、また問題起こしたらクビになるからね?」


「そんなことしないよ!」


「ほんとかなぁ? 厨房を勝手に使った件で随分と怒られてたじゃない?」


「あれは……しょうがないでしょ!」


「はいはい。アヤセみたいな看護師は珍しいからね~出世しないタイプ」


「お節介です」


 そんな雑談をしながらも、アヤセはその日のうちに「桜井さんの私物を熱意さんに渡すのはどうですかね? 彼らは恋人同士らしいんですけど」何て嘘を並べながら、桜井さんのご両親に許可を勝手に頂き、それを上司に伝えて怒鳴られた。


 確実にボーナスが減った瞬間だが、それ以上に許可を得たのだから勝利と言える。最近元気がないリョウを何とか元気にしたいと思い少女漫画並みのお節介をしてしまった。周りはそんなことを望んでいないが、気に入った患者を贔屓してしまうのは人間の本能だろう。


「これで熱意さんも少しは元気になるといいんだけど……」


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【《約1年半前》8月31日(月曜日)/10時30分】


 ある程度落ち着いた時間を頂き、アヤセはリョウのいる病室へと足を運んだ。扉を開けた先にいるのは、枯葉のように下を向いて色の失った瞳をこちらへ向けるリョウの姿。


 ――これが辛い……


 一瞬見せる期待の眼差しと、それが求めるものと違うと分かった時に見せる暗い表情。この扉が開かれた瞬間にもしかしたらピンク色の髪をなびかせて、目の前にナナが現れてくれるんじゃないかと言う期待が見え隠れしている。


 喉が凍り付いたように言葉が詰まるが今日は今までと違い、アヤセには切り札がある。桜井ナナの話を持ち出すのは失礼かもしれないが、それで今より少しでもいい方向に持っていければと願うのは間違っているだろうか?


「おはようございます。――熱意さん」


「はい」


「――実は、熱意さんに話したいことがあって来ました」


「何ですか?」


 やる気の感じられない冷たいリョウの声に、アヤセは少しだけ深呼吸をして一歩を踏み出す。――もしかしたら、怒鳴られたりするかもしれないが、覚悟している。


「桜井さんの私物がまだこの病院に残っているんですが、受取人がいないんです。熱意さんが受取人になる事も出来ますが、どうしますか?」


 不意を突かれたようにリョウの瞳が開き、少し驚いた表情を浮かべながらアヤセの事をしっかりと見ていた。今までなら返事は返すがアヤセの方を見る事は無かった。


「――ナナ、の? 両親は?」


「両親は捨てていいと言って、受け取る気は無いみたいです」


「――そんなのって、あんまりだろ……」


 久しぶりに感情を表に出してくれた。色のある感情のこもった声に、少しだけアヤセはホっとしていた。それがどんな感情だったとしても、壊れかけの人形よりはマシに見える。


「このままだと捨てられてしまいますが、どうしますか?」


 少しだけ嘘を入れた。直ぐに捨てられる事はないだろうが、この言い方なら受け取ると思ったからだ。リョウは少し考えこんだ後に「受け取ります。――それと、ありがとうございます」と言い、アヤセはそれから数分ほどで病室を後にした。


 それから数時間後にリョウの前に置かれたのは、ナナの病室に置かれていた大量の推理小説とナナが良く持ち出していたノートパソコン、それとよく分からない事が書かれた資料である。リョウはそれを真剣な表情で眺めながら、貴重品に触れるように優しく手に取った。


 何度も日記に視線を向けながら、書かれている事と目の前に用意された物を照らし合わせて、肩の力が抜けたようにため息が漏れる。目の前でナナの私物を往復しながら少しずつ持ってきてくれたアヤセの瞳をしっかりと見ながら、今ならしっかりと言える一言をリョウは伝える。


「あの……いろいろしてもらって、それなのに胸倉とか掴んだりして、本当にすいませんでした。ずっと謝りたかったんですが、そのぉ……いろいろとありがとうございます」


 ぎこちないリョウの笑顔を向けられ、しかし後悔はない。やってよかったと報われた気分になった。看護師何てストレスのたまる報われない仕事だと思っていたが、今なら少しだけこの仕事が好きになれる気がした。


「いいえ、大丈夫です。仕事ですから!」


 満面の営業スマイルを送るが、それが作り笑いじゃない事だけは確かだ。すべての患者に同じ対応がとれる自信は無いが、少しぐらいの贔屓は許してほしい。


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