朧 正宗

 


 夏もそろそろ顔を隠し、少しだけ肌寒くなってくる時期。


 目覚ましのキッカリ5分前に起床した朧は、カーテンと窓を開け、地上30階の景色を眺めながら換気をしつつ、朝の冷えた空気で肺を洗う。


 青と白で統一されたリビングを通り洗面所へ。顔と髪を洗ってさっぱり寝癖を直した後、エプロンをつけキッチンに立つ。


 鍋でお湯を沸かし、酢と少量の塩を振る。

 割り入れた卵を湯の中にそっと落とし、白身が固まったら掬い上げ冷水へ。

 フライパンにワインビネガー、水、ローリエ、潰した胡椒、玉葱の微塵切り、パセリの軸を加えて煮詰め、水分が無くなったらボウルへ移し、卵黄2個を加えて混ぜ、とろみが出てきたら溶かしたバターを加え更によく混ぜる。

 最後に茶こしで越してレモンで味を整える。


 トーストしておいたイングリッシュマフィンに焼いたベーコン、ポーチドエッグを乗せ、オランデーズソースを掛けて完成。


 本日の朝食はエッグベネディクトである。


「……いただきます」


 コーヒーとスープと一緒に、ニュースを見ながらモグモグする。


 食べ終わったら皿を洗い、着替えてリュックを肩に掛け、家を出た。


 ――「……」


 それなりに空いている車両の中、フードを被りイヤホンをつけながら電車に揺られていると、微かな視線を感じ目を開ける。


 見れば女子高生数人がコソコソと色めきだっている。何か揉めた後、恐る恐る近づいてきた。


「あ、あの、すみません、」


「……何?」


「1級調査員の、朧さんですか?(コソ)」


「そうだけど」


「「「っ」」」


 その名前に近くの客がザワつき出す。女子高生なんて手を取り合ってプルプルと震えている。……正直迷惑なのだが。


「っ、ファ、ファンですっ。サイン貰えますかっ?」


「そういうのやってないから」


「あ、ご、ごめんなさい……」


「……はぁ、」


 シュンとなる彼女達に、朧は溜息を吐き手を差し出した。


「写真撮る?」


「っお、お願いします!」「やっば」「……私今日死ぬのかも」「推しぴ好きぴ」


 スマホを受け取った朧は、自撮り風にカメラを構える。


「もっと寄って」


「っ」


 女の肩を抱き寄せるその慣れた手つきに、彼女達の頭は沸騰寸前。パシャリと1枚撮りスマホを返す。


「「「「あ、ありがとうございますっ」」」」


「別に良いけど。ここ電車だから、マナー守って」


「っ、ごめんなさい……」


「……まぁ、盗撮されるよりはマシだから。次から気をつけて」


 チラリと鋭い視線を向けた先、携帯を構えようとしていた女がビクッ、と固まる。


「「「「ありがとうございましたっ」」」」


「……」


 彼女達に見送られ、朧は電車を降りる。


 ポケットに手を突っ込みながら駅構内を歩いていると、


「――ッ近寄るな‼︎コイツがどうなっても良いのか⁉︎」


「うぅっ、グスっ、」


 興奮した男が片腕を女性の首に回し、ナイフを振り回し駅員を威嚇していた。

 周りの人間はスマホを構えるだけ。


「落ち着いてください‼︎」


「その女性を離して!」


「ウルセェ‼︎近づくなって言ってんだッ……あ?」


 男の振り上げたナイフがビタリと止まる。


「邪魔」


「オッぼッ⁉︎⁉︎」「「「「――⁉︎」」」」


 いつの間にか接近していた朧が、気だるげに男の腹に膝蹴りをめり込ませた。


 男は1m程飛んだ後、泡を吹き白眼を向いて痙攣しながら気絶する。


「え、嘘、」「あれ朧じゃね?」「うわ、マジじゃん」「えぐっ」「気付かなかった」


 朧は膝から崩れ落ちる女性の腰に手を回し、ゆっくりと座らせ、そのまま去ろうとするが、


「あ、あのっ」


「……何?」


 慌てる女性に呼び止められ振り向く。


「有り難うございます!これっ、私のメアドですっ。是非お礼を!」


「いらない」


「あうっ(なんてクールなの⁉︎)」


 頬を紅潮させ胸に手を当てる女性に背を向け、呼び止めてくる駅員を無視。


 朧は大きく溜息を吐き、


(……タクシーにしよう)


 そう心に決めるのだった。


 ――彼が通うのは某都内1流大学。

 いつも通り大教室の1番後ろの端っこに座り、気配を消しながらパソコンを開く。

 講義と動画視聴を同時にこなす、これこそが彼の受講スタイルである。


 成績優秀、眉目秀麗な完璧超人であっても、大学の講義は面倒なもの。そこは普通の学生と同じなのだ。

 だからと言って辞めはしないし、一応戦えなくなった場合の保険として通っている次第。そこが東条とは違うところ。そう、彼は偉いのだ。


「……」


 ノートを2つ開き、1つには板書を。もう1つには東条の戦闘スタイルの分析とモンスターの攻撃パターン、自分だったらどんな動きをすれば良いかのシミュレートを雑に描いてゆく。


 これはメモであり、彼の家にはこの清書が既に10数冊は積んである。予習なんてしない東条とは違う。そう、彼は努力家なのだ。


 朧は理解している。

 こと戦闘というジャンルに於いて、東条桐将という男は紛れもなく天才だ。瞬間的な分析力、判断力、対応力、対策を迷いなく実行出来る思い切りの良さ。命の駆け引きを楽しめる異常性。そしてそれらを可能にする桁違いの地力。

 平和な生活では絶対に目覚めないであろう能力を秘めていた、ポテンシャルの化物。それが東条桐将だ。


 何度も何度も動画を見返したのだ。朧は分かっている。自分ではあんな動きは出来ないし、あんなに自由に戦うことは出来ない。


 昔からやりたいことはすぐに出来た。記憶力も、運動能力も、容姿も、他人より優れていることは理解している。

 しかしそれは、天には届き得ない才能でしかなかった。初めて夢中になれたことで、初めて朧は自分の小ささを知ったのだ。


 だから嫉妬した。だから憧れた。


 東条と同じことをしても、朧が彼になることは不可能だ。圧倒的にセンスが足りない。


 だから朧は努力する。東条と同じことをしながら、自分にしか出来ないことをする。


 そうやって朧は憧れへと手を伸ばすのだ。


「……ふぅ」


 講義が終わり、終鈴が鳴る。

 あと2限終われば、唯一億劫ではない体育の授業、その後はお楽しみが待っている。あと2限の辛抱だ。


 ――大学内の綺麗なグラウンドでは、学生達が絶賛体育の授業中。


「ヘイパス!」「行かせるな!」


 人工芝の上、1つのボールを奪い合う足技の応酬。汗を飛ばし合う男達を、女子が外野から応援する。


 そんな中にいて、纏う雰囲気が明らかに違う男が1人。


「っ朧!」


「ッ囲め囲め囲め‼︎」


 彼にボールが渡った瞬間、黄色い声援と共に、敵チームの全員が彼に向けて地面を蹴った。


「何としてでも止めろぉお‼︎」「オラァ!」「くらえヤァ!」「死ねぇ!」「待てコラ!」


 ボールを持った朧は呆れながら緩急に簡単なフェイントを混ぜ、嫉妬に狂った魑魅魍魎をスイスイと躱してゆく。


「なっ、後ろからのスライディングを⁉︎」「俺のボディブローが⁉︎」「タックルが当たらねぇ⁉︎」「背中に目でもついてんのか⁉︎」


「……ファールだろ」


 最後の1人をヒールリフトで躱し、少しだけジャンプ、そのまま空中のボールに綺麗な回し蹴りを叩き込む。


「な⁉︎ジャンピングボレーだと⁉︎だがこの俺がゴールを守る限り!絶対に点はやらブゲゥうッ⁉︎」


「あ、……すまねぇ」


 ボールごとゴールに押し込まれ痙攣するキーパーに向けて、朧は心ばかりの謝罪をした。


「キャ〜〜‼︎カッコいいっ」「朧君こっち向いてぇ!」「朧く〜ん‼︎」


「……」


 煩い女子達を無視して、服をたくし上げ汗を拭う朧。チラリと覗く鍛え上げられたエロスに、またも黄色い悲鳴が上がる。


 反対にグラウンドに這いつくばる男達は、その光景に血の涙を流す。


「っだは〜〜お前速すぎるってっ」「何食ったらそんな動き出来んだよ⁉︎」「先生っ、次は朧の敵チーム30人でやりましょ?」


 教師も頭を掻き苦笑する。


「朧君、君この授業取る必要なくない?物足りないでしょ?」


「……いえ、楽しいですよ。蹂躙できるんで」


「「「「「「「おいっ」」」」」」」


 授業終了のチャイムが鳴る。


「じゃあ、ありがとうございました」


「あ、うん」


 首にタオルを掛け颯爽と去ってゆく彼と、そんな彼を追いかける同級生を見て、教師は優しく微笑んだ。


「なぁ朧、今日ラーメン行こうぜ?」


「この前美味いとこ見つけたんだよ」


「悪い、今日無理」


 朧は更衣室で着替えながら学友と駄弁る。


「お?女か?」


「紹介してくれよ〜」


「ちげぇ。むさ苦しい男2人だ」


「ならいいや」「ならいいな」


「……」


 欲望に忠実な学友と共に、更衣室を出てそのまま校門へ向かう。

 ……久しぶりに会うのだ。何から話そうか。これからのことを内心ウキウキしながら校門前の原っぱを歩いていた、


 その時だった。


「君が朧君?」


「……誰あんた」


 黒髪マッシュのインテリ風な男がいきなり話しかけてきた。男の後ろには数人の取り巻きがニヤニヤと笑っている。


「?誰?」


「朧の知り合い?」


「知らねえ」


 無視して進もうとすると、目の前に取り巻きの1人が立ち塞がる。睨みつけると怯えて1歩下がった。


「ちょっとちょっと、ずっと待ってたんだから〜、話くらい聞いてよ?」


 朧は黒髪マッシュが肩に回そうとしてきた腕を払い、眉間に皺を寄せる。


「……何だお前?」


「初めまして。俺調査員の訓練生に選ばれてね。同じ大学にあの有名な朧君がいるんだもの、挨拶しておこうと思ってさ?」


「あっそ」


「あ〜ちょいちょい」


「……」


 明らかに苛立ち始めた朧を見て、学友2人が間に入る。


「すまんマッシュ君、朧今日用事あるんだわ」


「また今度にしてくれねぇかな?」


「凡人は黙っててくれ」


「っう⁉︎」


 しかしあろうことか、黒髪マッシュはその1人を突き飛ばした。それも魔力の籠もった手で。


「っ、」「っテメェ何しやがる⁉︎」


「うるさいな。君達凡人に用はないんだって」


 朧と学友Aは転がるBに駆け寄る。


「……無事か?」


「ケホっ、けほ、すまねぇ朧、俺は、……ここまでのようだ」


「無事だな」


「あいたっ、おいっ、もっと労れ!」


 朧は立ち上がり、ケラケラと笑い合う黒髪マッシュを見る。


 その瞳に、凍える様な冷たさを湛えて。


「……無害な一般人への魔力行使、終わったなお前」


「えーなになに⁉︎ちょっと手がぶつかっちゃっただけじゃん?もしかしてこれ暴力なの?うわ〜生き辛!ハハハハ」


「よくもまぁ、訓練生に選ばれた程度でそこまで調子に乗れるな。お前だいぶ滑稽だぞ?」


「……ムカつくね、君」


 黒髪マッシュの身体を身体強化が包んでゆく。実際訓練生でここまでのレベルに達しているのは凄いことなのだろう。知らないが。


「ねぇ朧君、ちょっと手合わせしようよ?1級なんて呼ばれてるくらいなんだから、さぞ強いんだろうね?」


「やるわけねぇだろ」


「逃げるのかい?」


 笑う黒髪マッシュを無視し、朧は2人を連れ校門へと歩いてゆく。こいつらと会話するくらいなら、この原っぱで四葉のクローバー探す方がまだ有意義だ。イカれた奴には関わらないのが1番。


「なんだ、ガッカリだよ。これなら東条とかいう奴も大したことないね」


「流石っす!」「絶対そうっすよ!」「早く冒険者になっちゃいましょうよ!」



「……」



 しかしそんな朧とて、我慢ならないこともある。


 自らの憧れを笑われることが、彼は何よりも嫌いだ。


「お、おい朧?」


「もう行こうぜ?アイツ笑いながら女殴るタイプだよ。関わらない方がいいって」


「ちょっとこれ持ってろ」


「おいって」


 学友にリュックを預けた朧は、心底冷めた目で黒髪マッシュに向き直る。


「お!やる気になってくれた?いいね〜そうこなくっちゃ」


「早くしろ。雑魚に使う時間が惜しい」


「……チッ」


 周りには騒ぎを聞きつけた学生達が、既にかなりの数集まり始めていた。それも渦中にいるのがあの朧ということもあり、その数は加速度的に増え続けている。


「……ははっ、やっぱ君、」


 キレた黒髪マッシュが脚を曲げ、


「ムカつくねェッ!」


 一気に飛びかかった。


 しかし朧はというと、


「……はぁぁ」


 ポケットに手を突っ込んだまま、それはもう深い溜息を吐く。


 瞬間、


「何余裕こいてんボォ⁉︎」


 無造作に上げた前蹴りが黒髪マッシュの腹に直撃。


「ッ⁉︎っっっ⁉︎」


 腹を押さえたたらを踏むマッシュに、朧はダルそうに問う。


「もういい?」


「ッッ頭に乗るな‼︎」


 マッシュが地面を叩くと同時に土魔法が発動。細い土柱が2本生み出される。


「ハハハっ!君雷属性だろ⁉︎土魔法が天敵なのは知ってんだよ‼︎」


「……」


 それなりのスピードで迫りくる土柱を、朧は片足の2連蹴りで破壊。


「な⁉︎」


 驚愕するマッシュに一瞬で接近し、その腹に前蹴りを放った。


「ッッ⁉︎ッッっ」


「立てよ」


「な、めるなォッッ⁉︎っっ‼︎」


「はい次」


「っっ⁉︎ッっ」


「次」


「ッッ⁉︎っっご、ごめ」


「次」


「ごェッっ⁉︎っっごぇんなさ」


「次」


「ッゴぇんなさぉッッ⁉︎っっ」


「次」


 執拗に、全く表情を変えず、ただ淡々と腹に蹴りを入れる朧に、周囲は流石にヤバくね?とザワつき出す。


 マッシュなんて胃の中の物全部出し切った上に、涎ダラダラ涙ぐちゃぐちゃ鼻水ビタビタのなんかもう悲惨なことになっている。取り巻きは青ざめブルブル、学友2人はあたふた。


 朧はポケットから手を出し、必死に嗚咽を繰り返すマッシュの襟首を掴み上げ、持ち上げる。


「……調査員は生き辛い。勝手に写真を撮られるし、勝手に期待される。俺達が自由なのは危険区域の中だけだ。……お前向いてないよ。やめちまいな」


「ひっ⁉︎」


 最後の蹴りを入れようとマッシュを軽く放り投げた、


 その時、


「っ」


 何かが朧の前に割り込むように着弾し、もうもうと土煙を上げた。軽い地鳴りに学生達が尻をつく。


「おうおうおう⁉︎うちのマッシュルームに何してくれとんじゃおうコラ⁉︎」


「ダハハハハっ、クッソおもれぇ‼︎……うわきったね」


 土煙の中から現れる、ガラの悪い2人組。


「え、」「あれって」「マジで?」「ウッソ何でここに⁉︎」「ヤバイヤバイっ」「隣のは?」「分からない。見た目からしてチンピラじゃない?」「毒島だよ!調査員の」


 チンピラと言われても否定出来ない2人を見て、朧は頬を緩める。


「……久しぶりです」


「おう!元気してたか朧ぉ⁉︎」


「おっせぇよお前⁉︎俺ら放って何キノコボコしてんだよ⁉︎腹減ったわ!」


「見てたなら分かるだろ。俺が絡まれたんだよ」


 東条は一応救ってあげた汚いマッシュを投げ捨て、朧に抱きつこうと飛びつくも躱される。

 毒島も一緒に殴りかかるも、逆に関節を決められタップする。


 周りの人間は駆けつけた警備員や教師含め、その異様な空気にポカンと口を開け、ただ放心するのみ。


 そうそう、と東条がベソをかくマッシュの肩を叩き、微笑む。


「君みたいのいらないから。諦めて普通に生活しな」


「……え、」


 絶句するマッシュの胸ぐらを毒島が掴み、ガンを飛ばす。


「テメェみてぇなのが危険区域に入ってみろ‼︎一緒にいる奴巻き込んで死ぬのが目に見えてんだよ⁉︎キノコはキノコらしく邪魔にならねぇ場所で生きてろや‼︎」


「っっ――」


 白目を剥き失禁したマッシュを放り、毒島はドスドスと人垣を割り校門へ向かって行く。


「飯だ飯!早く行こうぜ⁉︎今日は食うゼェ!何てったて東条の奢りだからな‼︎」


「……これじゃあ、どっちが悪者か分からねぇ。ありがとな」


「あ、お、おう」


 学友からリュック返してもらう。


「ははっ、災難だったな」


「止めてくださいよ」


「やだよ。面白かったもん」


「……」


 悠々と去ってゆく3人に声を掛けられる者は、誰1人としていなかった。



 後日大学から国に修繕費の請求書が届き、3人は見美からこっぴどく叱られたとか。

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