第685話 到着
「早く下ろすぞ」
すぐさま吉田はエンジンを止めて車から降りる。シャムはそのままシートを超えて後部のスペースに固定されたバイクに手を伸ばした。
バイクにはロープが巻き付けられていた。実に慣れた手つき。司法局実働部隊創立以降、こうして何度この古ぼけたバンの貨物室にくくりつけられてきたのか。シャムは思わず笑ってしまっていた。
「おい、笑ってないで早くしろよ」
開いた後部ハッチから顔を出す吉田にシャムは照れ笑いを浮かべた。そのまま慣れた手つきで手早くロープをほどいていく。
「傷は付けるなよ。骨董品なんだから」
憎まれ口を叩く吉田に愛想笑いを浮かべながらシャムはほどいたロープを手早くまとめてバイクに手をかけた。
静かに、あくまでも静かにとシャムはバイクをおろしにかかった。
「ゴン!」
「あ……」
バンパーにこれで十三度目の傷が勢い余って切ってしまったハンドルによって付けられた。
「だから言ったろ?」
「は……ああ」
思わずシャムは照れ笑いを浮かべた。そしてすぐに周囲を見渡す。静まりかえった住宅街、見上げると魚屋の二階の一室だけが煌々と明かりをともしている。受験生佐藤信一郎は今日も勉強をしているようだった。
「聞こえたかな?」
「多分な」
吉田はそれだけ言うと静かにバンのリアの扉を閉めた。
「それじゃあ俺は帰るわ」
「え?お茶でも飲んでいけばいいのに」
「あのなあ……一応下宿人としての自覚は持っておいた方がいいぞ」
苦虫をかみつぶしたような顔をした後、吉田はそのまま車に乗り込む。
「じゃあ、明日」
それだけ言うと吉田は車を出した。沈黙の街に渋いガソリンエンジンの音が響く。犬が一匹、聞き慣れないその音に驚いたように吠え始める。
シャムは一人になって寒さに改めて気づいた。空を見上げる。相変わらず空には雲一つ無い。
「これは冷えるな」
なんとなくつぶやくとそのままシャムはバイクを押して車庫に入った。『佐藤鮮魚店』と書かれた軽トラックの横のスペースにいつものようにバイクを止める。鍵をかけて手を見る。明らかにかじかんでいた。
そしてそのまま彼女は裏口に向かう。白い息が月明かりの下で長く伸びているのが見えた。
戸口の前で手に何度か息を吹きかけた後、ジャンバーから鍵を取りだして扉を開く。
「ただいま……」
申し訳程度の小さな声でつぶやいた。目の前の台所には人影は無い。シャムはそのまま靴を脱いでやけに大きめな流しに向かう。
鮮魚店らしい魚の臭いがこびりついた流しの蛇口をひねる。静かに流れる水に手を伸ばせば、それは氷のように冷たく冷えた手をさらに冷やす。
「ひゃっこい、ひゃっこい」
自分に言い聞かせるようにつぶやきながら手を洗うとシャムは静かに水を止めた。
シャムは背中に気配を感じて振り向く。
「ああ、お帰り」
そこには寝間着にどてらを着込んだ受験生の姿があった。
「何してるの?」
「いいじゃないか、牛乳くらい飲んでも」
信一郎はそう言うと冷蔵庫を開けて牛乳を取り出す。
「あ、アタシも飲む」
「え……まあいいけど……酒臭いね」
「そう?」
信一郎の言葉に体をクンクンと嗅ぐ。その動作が滑稽に見えたのか信一郎はコップを探す手を止めて笑い始めた。
「なんで笑うのよ!」
「だって酒を飲んでる人が嗅いでもアルコールの臭いなんて分かるわけ無いじゃん」
そう言いながら流し台の隣に置かれたかごからコップを取り出した信一郎は静かに牛乳を注いだ。
「アタシのは?」
「ちょっと待ってくれてもいいじゃん」
そう言うと注ぎ終えた牛乳を一息で飲む。その様子に待ちきれずにシャムはかごからコップを取り出して信一郎の左手に握られた牛乳パックに手を伸ばした。さっと左手を挙げる信一郎。小柄なシャムの手には届かないところへと牛乳パックは持ち上げられた。
「意地悪!」
「ちゃんと注いであげるから」
まるで子供をたしなめるように信一郎は牛乳パックを握り直すと差し出す。シャムはコップをテーブルに置いた。信一郎は飲み終えたコップを洗い場に置くとそのままシャムのコップに牛乳を注いだ。
「でもお姉さんは飲むのが好きだね。これで今週は三回目じゃん」
「まあつきあいはいろいろ大変なのよ」
「本当に?」
憎らしい眼で見下ろしてくる信一郎の顔を一睨みした後、シャムは牛乳を一口口に含んだ。
口の中のアルコールで汚れた物質が洗い流されていくような爽快感が広がる。
「いいねえ」
「親父みたい」
信一郎の一言にシャムは腹を立てながらも牛乳の味に引きつけられて続いてコップに口を付けた。
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