仕事終わりに
第669話 終業後
隊長室にいたのはほんの数分だというのに夕闇はさらに暗くなって廊下の暗さがさらに強調されている。
「あ!ナンバルゲニア中尉!」
偶然と言うものはある。廊下にはアンとすでに制服に着替えたくたびれた様子のフェデロが部屋に入ろうとするところだった。
「なんだ、終わったの?」
「ええ、でもマルケス中尉が……」
「あんだけ汗を掻かされたんだ。シャワーぐらい浴びさせてもらっても罰はあたらねえだろ?」
そう言うと不機嫌そうに詰め所に消える。シャムはあいまいな笑みを浮かべながら困った様子のアンを見つめていた。
「まあ大丈夫だよ。いつものフェデロのわがままだから。気にしなくても」
そう言いながらシャムはアンを連れて詰め所に入った。
周りの射るような視線を浴びながらも鼻歌交じりにそのまま自分の席に戻るフェデロの姿が見える。シャムは呆れたというように自分の席に戻る。すでに吉田は作業を終えたのかシャムの端末から離れて自分の席で再び机の上に足を上げてふんぞり返っている。
「とりあえず組んでは見たけど……検証は明日にしてくれよ。今はそのプログラムが『05式』のフォーマットで走るかどうか検証をかけてる最中だからな」
「そうなんだ」
シャムはそれだけ言うと端末の終了作業に入った。
すでに定時まで5分を切っていた。今日は明石が野球サークルの練習に来ている。特に込み入った事件も無い以上、ランも定時に上がると誰もが思っていた。
「やべーな。こりゃ」
そう言うときにはアクシデントは起こるものだった。ランのつぶやきに全員が彼女に注目する。
「どうしました、中佐」
カウラの俊敏な反応。最近の練習試合で打ち込まれている誠に変わって次回の春の大会では再びエースナンバーを背負うのではないかという彼女。練習に入りたい気持ちがいつもは仕事熱心な彼女にそういわせたのだと思うと少しシャムの顔に笑みが浮かんでいた。
「いや、アタシ個人の問題だから……おい、定時だぞ」
シャムはランの言葉にランの後ろにぶら下がっている時計を見た。確かにそれは定時を指していた。
「それじゃああがるか」
伸びをしながらロナルドが立ち上がる。それを見てロナルドの正面に座っていた岡部がすばやく書類を片して大きく伸びをした。
「じゃあ着替えますか」
岡部のその一言で誠とカウラが立ち上がる。シャムもまたそれに続く。
「じゃあ練習してきますから」
「がんばれよ!」
岡部の言葉にランが答える。シャムは張り切っている岡部に続いて再び詰め所を後にした。
先頭の岡部はそのまま廊下を無言で歩き続けた。明石の司法局本部への転勤以降は彼がチームの正捕手として君臨していた。ハイスクール時代から野球経験はあるが捕手としての経験が浅い岡部だが、強肩と誠のストレートを受けられる隊員が他にいないため、明石の穴は彼が埋めるしかなかった。
「それじゃあ俺達は着替えてそのまま行くから」
そう言い残した岡部は誠を連れて更衣室に消えた。
すでにこの段階で階下の運行部の前での雑談がシャムの耳に飛び込んできていた。
「早いね、一日は」
「そうかもな」
シャムの言葉を聞きながらカウラが微笑む。医務室の前で伸びをするドムの前を軽い敬礼だけで通過してそのまま早足で階段を降りる。
「あ、お二人ともお疲れ様」
その声の主はアイシャ。すっかり仕事が終わってリラックスしている彼女にカウラが厳しい視線を向けた。
「鈴木中佐のいなくなってからの責任者は貴様なんだぞ。もっと緊張感を出せよ」
「なによ、突然。いいでしょ!定時は過ぎたんだから」
不服そうなアイシャのそでをアイシャと腐れ縁の正操舵主のパーラ・ラビロフ中尉と正管制官のサラ・グリファン少尉が引っ張る。
「大丈夫よ。じゃあ行きましょ」
その言葉でアイシャも更衣室に向けて歩き出した。他の運行部の女性隊員はすべて帰り。シャム達はこれから一時間半の練習が待っている。
「でも早く日が長くならないのかな」
愚痴るようなカウラの顔に更衣室のドアに手を伸ばしたアイシャがにんまりと笑いながら振り向いた。
「なに?そんなに練習したい?」
「それはそうだろ?なんでもうまくなる方がいいものだ」
カウラはそう言うとアイシャが開いた扉の中に入っていく。シャムもまたその後に続いた。
定時を回ったということで女子隊員が何人も着替えをしている。月末も近いだけあってその面子は全員が運行部。女子隊員の比率が次に高い管理部の部員の姿はそこにはなかった。
シャムは自分のロッカーにたどり着くとジャージを脱ぎ始めた。
「お疲れ様ですね……練習がんばってくださいね」
声をかけてきたのは運行部の運用艦『高雄』の副操舵主のエダ・ラクール少尉だった。カウラの髪に似たエメラルドグリーンの髪を短く刈り込んだ姿は少しばかりりりしく見えて話しかけられたシャムは思わずどきりとした。
「うん。がんばるよ。最近は練習試合も今ひとつだからね」
「神前が打たれすぎだ。最近たるんでるんじゃないか?」
シャムの言葉にすでに練習用ユニフォームのズボンに足を突っ込んでいるカウラが苦笑いを浮かべながらそうつぶやいた。
「でも誠ちゃんどうしたのかね。このごろ本当に打たれすぎだもん……」
シャムもユニフォームのズボンに足を入れながらつぶやいた。秋の菱川重工豊川工場の各セクション有志のリーグ戦前半はほとんど一人でマウンドを守り通した誠だが、それからの試合はどれもいいところ無く2回や3回で集中打や長打を浴びってリリーフの右アンダースローのカウラにマウンドを譲っていた。
「岡部のリードは強気すぎるんだ。神前は心臓が小さいからな。合うわけが無い」
シャツに袖を通しベルトのバックルを締めながらのカウラの言葉。確かに彼女は岡部のリードではそれなりの成績を上げている。球威が無いので一発を浴びることがあるものの、四球が少ないので大量失点が無い。その為、この前の菱川重工東工場班とのリーグ最終試合では誠はファーストの守備につき、彼女が7回を完投する結果となった。
「でもこれからは岡部っちに頼るしかないじゃん。ヨハンは……使えないよ」
「それは分かってる」
うつむき加減にカウラは頭の後ろにまとめたエメラルドグリーンの髪をまとめる。シャムが周りを見渡すと、すでに着替えを終えた隊員達が二人の会話を熱心に聞き入っている。
「そんなこと後で話しましょうよ!先行ってるわよ」
パーラはそう言うと二人を置いて手にスパイクを持って出て行く。赤い髪のサラも着替えを終えてしばらく苦笑いを浮かべていたがそのままロッカーからスパイクを取り出した。
「急がないとかなめちゃんがうるさいわよ」
「ああ、分かっている」
サラの言葉で着替えを終えたカウラはロッカーの置くからスパイクを取り出した。シャムはまだアンダーユニフォームを着ている途中だったので急いで袖に腕を通す。
「まあ言葉で言っても始まらないさ」
そう言いながら出て行こうとするカウラをスパイクを引っつかんでシャムは追いかけた。
すでに正門は夕焼けに染まっている。
「夏ならまだかなり練習できるのにね」
そう言うシャムにカウラはうなづく。サラの赤い髪が夕焼けでさらに赤く見えた。
「それより何より打線よ。隊長は無期出場停止。タコ隊長は転属。この七ヶ月で4番、5番がごっそり抜けたんだもの」
サラの言葉でシャム達はさらに落ち込む。嵯峨は左投げ左打ちで右の速球派のピッチャーをカモにするのが特技だった。胡州六大学では『胡州帝大史上最強の四番打者』と呼ばれた明石もまた不動の四番と呼ばれていた存在である。
その二人がすっぽりと抜けてからの得点力は、相手ピッチャーの出来にもよるが良くて一試合当たり2,3点というところだった。
「まあしゃべっていてもしょうがないな……」
カウラはそう言いながらグラウンドに足を踏み入れる。技術部が集めたあまった資材と明石が調達してきた光源で作った粗末な照明灯が夕闇に沈もうとするグラウンドを照らしていた。
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