エピローグ その3
それから、華伝はそのまま家に帰った。店に戻っても暇でやることがなさそうだったからだ。まあ、暇なのはいつも通りなのだが。
玄関に入ると、家の奥からカレーのにおいが立ち込めてきた。そうか、今日もルカがご飯を作って……。さっそく気配を殺し、忍び足で台所に向かった。
こっそり台所の入口から様子をうかがうと、確かに彼女は今日も鍋の前にいた。ノースリーブの青いギンガムチェックのワンピースを着て、その上に華伝のエプロンをつけている。作っているのはやはりカレーらしかった。最近は以前に比べるとずいぶん体調がよく、やせていた体も少しふっくらしてきて、寝込むこともほとんどなくなってきたので、いろんな家事に挑戦している彼女だった。今のところ失敗ばかりだが。
今日の料理は大丈夫だろうか。見たところ、カレーはほとんど完成しているようだった。色も見た目も全く問題ない。三角コーナーにやたらと分厚い野菜の皮が積まれているほかは、不安要素は何もなさそうだった。
ルカは少しの間、落ち着きなく鍋のふたを取ったり戻したりしていたが、やがて小皿とおたまを取り、味見をした。いったいどんな味が……。華伝はその反応に大いに注目した。すると、直後、彼女は満面の笑顔になった。なんと、今日の料理はちゃんと食べられる味になっているらしい!
華伝は感動して胸が熱くなった。不器用でおっちょこちょいで、なぜかいつも途中から謎の創作レシピに走るルカが、ついに一人でまともな料理を作れるように……。うれしくてたまらなかった。すぐに彼女の元に駆けつけた。
「ルカ、僕にも味見させてください」
「か、華伝? お前いつ帰って……」
ルカはぎょっとして、すぐに彼から離れた。だが、その距離は一メートル程度だった。以前のようにキッチンの奥にまで逃げることはなかった。
そう、ここ三カ月、体調がよくなった他にも、彼女には変化があった。それは、華伝の魂生気を食べたいという衝動を、一緒にいてもある程度は我慢できるようになったということだった。
そして、それは間違いなく、華伝自身の変化と関係があった。彼は四月のあの事件以来、瘴鬼でありがらもたまに鬼人になるという変な体質になってしまったのである。
鬼人になるきっかけは不明で、周期も不規則だった。三日空けてまた鬼人になったと思ったら、次は二十日後だったりした。ただ、鬼人になっている時間だけは、いつも半日程度だった。たいていは眠っている間に戻った。試しに鬼人状態で眠るのを我慢してみたら、起きている間に戻った。鬼人になっている時間を延ばすことは無理のようだった。また、竜薙の風花が鬼人に変わるためのトリガーになっているのかと考えてみたが、いくら家の中で振りまわしても意味はないようだった。ルカに怖がられただけだった。
だが、そんな、不完全でなんだかよくわからない鬼人でも、鬼の娘のルカにとってはとてもうれしいものだった。そうなっている間は、思う存分魂生気を食べることができるのだから。そして、そのおかげで、彼が鬼人になってない時は我慢ができるようになった。彼女自身が言うには、食べたいときに思い切り食べられるからだ、ということだった。そのわりにはまだ瘴鬼の状態でお互い接近できるのは一メートルくらいが限界だし、キスはおろか、手を握りあったりも無理だが。
「どうだ、華伝。今日のは悪くないと思うのだが……」
彼が小皿のカレーを口に含んだとたん、ルカは不安そうに尋ねてきた。
「はい。とても美味しいです」
華伝はとびきりの笑顔で答えた。確かにそれは、カレーと呼ぶしかない、れっきとした料理であり、普通に美味しかった。そして、その「普通に美味しい」というレベルは、「不器用なルカが自分のために作ってくれた補正」で、彼の舌の上で最上級の味に格上げされた。
「でも、いつもお前が作っている料理ほどではないだろう? 野菜の切り方だって、随分でたらめになってしまった……」
「そんなことないですよ。カレーに入れる野菜なんて、どんな切り方でもいいんです」
と、そこで、鍋の中にタマネギの皮が浮いているのを発見し、彼女に気付かれないように素早くおたまで取り除いた。これはきっとブーケガルニみたいなものだ、うん。
「そ、そうか……お前に気に入ってもらえてうれしいぞ」
ルカは照れ臭そうに笑った。
それから二人は居間の座卓で一緒にそのカレーを食べて、お昼御飯にした。ルカと向かい合って、彼女の作った料理を食べる……。しかもいつもと違って美味しい。華伝にとっては至福の時間だった。
「……ところで、華伝、次はいつ鬼人になるのだ?」
ふと、ルカが尋ねてきた。見ると、スプーンを唇に当て、上目づかいでじーっとこっちを見ている。
「さあ? 自分でもタイミングはよくわからなくて。でも、先週なったばかりですし、もう少しかかるのかも」
「そんなのダメだ! あれから一週間も経ってるのだぞ。そう何日も……待てない……」
ルカはもじもじして、恥ずかしそうに言う。相変わらずこの人は……。華伝は笑った。
「前々から思ってたんですけど、ルカってドスケベですよね」
「な……」
予想通り、ルカはたちまち真っ赤になった。
「ち、ちがう。私は決してそのような――」
「いえいえ、ルカはドスケベです。恥ずかしがり屋のくせにドスケベ。子供っぽいのにドスケベ。前に自重するって言ったのに、全然自重する気がないドスケベです。毎回どんだけ僕を食べれば気が済むんですか。そのうち僕は干物になってしまいます」
「そう何度もドスケベ言うな!」
ルカは赤くなったまま、ぷいっと顔を反らしてしまった。「別に責めてるわけじゃないですよ」彼はまた笑った。実際、彼女に強く求められるのはうれしかったし、ちょっとからかってみただけだった。
「い、一応、言っておくが、ここ最近、私の体調がいいのは、お前から魂生気をもらっているせいだと思うぞ」
「……そうなんですか?」
確かに、そんな気もしていたが、いまいち自信がない彼だった。
「そうだ。そして、たぶんそれは、最近だけの話ではない。残月の私が、今日まで生きながらえてきたのは、お前の口から瘴鬼の魂生気をもらっていたからだ……と思う。鬼人の力を持つお前だからこそ、なのだ」
「僕の力で、ずっとルカが死なずに済んで……」
華伝ははっとした。それは彼の胸を強く打つ言葉だった。今まで彼はずっと、不完全で中途半端な存在の自分を恨めしく思っていた。彼女に出会う前は、ただの人間でありたいと願っていたし、彼女に出会ってからは完全な鬼になりたいと思うようになっていった。中途半端に鬼の力を宿した人間に過ぎない瘴鬼である自分、いつ狂って壊れてしまうかわからない自分が、辛かった。
けれど、そんな自分が、彼女をずっと生きながらえさせていたのだ。それも自分にしかない力で。その事実は、彼の中にずっとわだかまっていた暗雲を一瞬で払った。
「……なるほど。僕はルカのお薬だったんですね」
言いながら、のど元が熱くなるのを感じた。涙腺もあやうい。でも、ここで泣いたら、彼女がおろおろしてしまう。彼はつとめて平静を装って言った。
「そうだ。だから、私がお前を欲するのは、いやらしい気持ちからではない。私が生きるために必要なことなのだ。だから、その……私はお前をたくさん食べてもいいのだぞ!」
「そうですね、それでルカが元気になるならしょうがないですね」
また恥ずかしそうに顔を赤くしている彼女を見て、彼は微笑んだ。自分が自分である限り、彼女は死なない。ずっと一緒にいられる。いつまでもこうして笑いあえる。そのことが、とてもうれしかった。
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